52

ウラウラ島へと向かう船の中で、「大丈夫ですか?」と男に声を掛けられた。
常夏のアローラにおいて、彼のような厚着はただでさえ目立つのだが、彼を更に目立たせているのは、その、くるりと円を描くように巻かれた青色の髪であった。
それでいてオールバックにまとめている髪は金色をしているのだから、この青は染色であり、また彼の拘りの表れでもあるのだろう。

「顔色が悪いようですが……」

「……ああ、別にどうってことない。ただちょっと疲れただけだ」

ギロリとその髪を睨み上げるような形になってしまったが、疲弊した体ではそれも不可抗力というものであった。
男は心配そうな顔で隣へと腰掛けた。白いコートの袖からピコピコと、何かの機械音がひっきりなしに鳴り続けていた。
開け放たれていた窓から入って来た潮風は、けれど海とは全く異なる別の香りをグズマに運んできた。上品な、甘い、苺の香りだった。

アローラの島を巡り、強いポケモンと戦い、数多の人と言葉を交わす。子供騙しのお遊びのように思っていたその「島巡り」は、しかし殊の外、この男には堪えていた。
体力に乏しい訳では決してなかった。歩き疲れて足を痛めた訳でも、喋り過ぎて喉を傷めた訳でもなかった。彼が疲弊しているのは心だった。
誰かのための言葉を紡ぐこと、誰かの願いや祈りや後悔を背負うことは、存外、骨が折れるのだ。何もかもを突っぱねていた頃には、覚えようのなかった疲労感だ。
目を閉じれば、彼等の言葉がグズマの中でぐるぐると渦を巻いた。気を抜けば、その渦潮の中に取り込まれてしまいそうだった。

『それでもいいじゃないか。何もできなくても、どうしようもなくとも、あたいらは集まっているだけでよかったじゃないか。』
『わたしにはもう、彼女が解りません……。でも、貴方は違うんでしょう、グズマさん……!』
『助けたかった筈の相手に手を伸べられないような中途半端な強さ、……そんなものに、果たしてどれ程の意味があるのでしょうね?』
『わたしにできなかったことを、貴方に託します。貴方ならできると信じて、祈ります。そんな人、きっとこれからの島巡りの中で沢山、沢山、貴方のことを待っていますよ。』
『オレも、貴方のような強さが欲しい。ミヅキの心を理解し、その上で彼女を導くための乱暴なやり方を躊躇うことなく選び取れる貴方のことが、とても羨ましい。』
『向き合えていれば、もっと話ができていれば、あの子は誰にも何も言わないまま、あんな暗くて寂しいところに閉じこもることだってきっとなかったのに。』
『ねえグズマ、辛くないかい?皆の願いを、誰も叶えることのできなかった祈りを、その背中にのせて歩くのって、存外、息苦しいものだろう?』

誰もが心苦しがっているように思われた。

いつだって笑っていた。危険な場所に行きたがっていた。炎に手を入れていた。海を飲んでいた。強すぎるが故に手を貸されず、それ故に笑顔の裏で孤独を極めた。
ポータウンの寂れた屋敷の、殴った跡が無様に残る大きな椅子に、尊大な構えで腰掛けているだけでは決して知ることの叶わなかった「彼女」の姿だった。
沢山の人が彼女を見ていた。人の数だけ彼女の形があった。それらを掻き集めて、一人の少女の姿に詰め込むことは困難を極めた。
共通しているのは彼等の「心苦しさ」だけだった。申し訳なさそうに、悔いるように、悲しむように、彼等は彼女との時間を語った。誰もが眉を下げていた。誰もが心苦しがっていた。

これだけ多くの人に「心苦しさ」を落としていなくなってしまった「彼女」は、やはり狡く性根の曲がった存在であるように思われてならなかった。
それでいて、彼女にはそうした「悪意」がなかったのだからどうしようもない。彼女はグズマのように、悪意を振り撒きたくてぶっ壊れたのでは決してない。

生き残るための正しい術を、「彼女」もグズマも求めることができなかった。
ようやく差し出された「術」は悉く冷たい氷の形をしていて、けれど「彼女」もグズマもその細く美しい手に縋らざるを得なかった。
その結末がどこまでも閉じた、救いようのないものであったとしても、それしか道がなかったのだ。道を逸れる勇気は「彼女」にもグズマにもなかった。

「貴方は今、頑張りたい気分ですか?」

「……はあ?」

「それとも、頑張りたくない気分ですか?」

思わず顔を上げれば、隣の男はこちらを真っ直ぐに見てそう尋ねていた。青縁の眼鏡の奥、金色の目は穏やかに細められていた。
僅かに微笑んだその表情は、グズマの想定していた形よりもずっと幼いものだった。もしかしたらこの男は、グズマと同じくらいの年齢であったのかもしれない。

「頑張りたい気分だ、と言えば、アンタは何かしてくれるのか?」

男は驚いたように目を見開いた。金色の目に映るグズマもまた、ひどく驚いた表情をしていた。
そんなグズマを見て、男は益々驚いたように沈黙し、けれどやがてそうした驚愕をも許すように笑い、「ではこちらを」と告げて、ポケットから小さな紙袋を取り出した。
青い花らしきものが描かれた、手の平にすっぽりと収まる程度の平たい紙袋だった。
グズマの手にそれが乗せられた瞬間、先程の苺の香りとは似ても似つかない、全く別の香りが彼の鼻先をずいと掠めていった。
けれどそうした、自らの眼前で為されている何もかもが、何処か遠くの世界でのことに思われてしまった。それ程に今のグズマは驚いていた。驚きすぎて茫然としていたのだ。

おかしい。「頑張りたい」などと思うなんておかしい。こんなことをしても己の価値など手に入らないのに。強くなどなれないのに。
自分は、これまでの自分が散々馬鹿にしてきた島巡りを、嫌々、続けているに過ぎなかった筈なのに。

「わたくしが言えたことではありませんが……疲れた時は休んでもいいのですよ。貴方は少し、アローラの緩やかな流れよりもずっと速く、走り過ぎているように思います。
ですがきっと貴方には「頑張りたい」と思える理由があるのでしょう。貴方は疲れていても、何かのため、誰かのために走り続けることのできる、そうした人なのでしょう」

「……」

「そんな貴方の助けになれるかどうか分かりませんが、気が向いた時に使ってください」

……頑張りたい、と言わしめたのは、まさか「彼女」であるとでもいうのだろうか。
そのことが信じられずにグズマは愕然とした。動揺に目を泳がせて、幾度か意味のない瞬きを繰り返した。
これ程までに心を砕いて、疲れ果てて、眩暈を覚えて、それでも「頑張りたい」と願う理由が、あの、馬鹿で愚かな少女にある。『誰かを想う力』が、彼を走らせている。
……馬鹿馬鹿しいと思った。下らないとも思った。けれど「違う」と否定することはできなかった。正しくはないかもしれないけれど、決して間違いではなかったのだ。

手の平に落とされた紙袋を、指で摘まんで軽く振れば、カシャカシャという乾いた音がした。
一体何なのか見当もつかず、眉をひそめたグズマに、男はクスクスと笑いながら「ハーブティーの茶葉が入っています」と説明をしてくれた。

「熱湯に1分程度浸しておけば、美味しく飲めると思いますよ。疲れを取りたい時は、そうですね……角砂糖を2つ入れるといいかもしれません」

「ハーブティーねえ……。そんな上品なもん、飲んだことねえから気が引けちまうな」

「ふふ、ではせめて香りを楽しんでみてください。ローズマリーの香りが、貴方の「頑張りたい」という強い意思に少しでも役立つことを祈っています」

祈っています、などというささやかな思いの欠片を此処でも押し付けられてしまい、グズマは思わず苦笑せざるを得なかった。
どうして人というのはこんなにも祈りたがるのだろう?どうして人はこうも容易く、他者に願いや祈りを捧げてしまうのだろう?
それを背負いに背負った人間は、その重さに耐えかねて膝を折って、心を砕いて疲弊して、そしてそれでも、どうして走り続けたいと、背負い続けたいと思ってしまうのだろう?
解らない。そうした感情を丁寧に、秩序だった言葉で紐解く術を彼はまだ持たない。絡まったままの想いは、そう簡単に解けてなどくれない。

「この間、カントーに行った時にも思ったが、外の人間ってのはやたらと人にモノを渡したがるんだな」

「おや、わたくしのようなお節介を焼く人間がカントーにもいたのですね。……けれどわたくしは、誰彼構わずこうして話しかけている訳ではないのですよ。
貴方が頑張っているから、声をかけてしまいたくなったんです。きっとカントーの方もそうだったのではないでしょうか」

『こんにちは!』
クチバシティの船着き場に響いた声音をグズマは思い出していた。彼女は船がやって来るまでの暇潰しのために、自分に声を掛けたのだとばかり思っていた。
勿論、それは真実であったのだろう。時間と心に余裕がなければ、赤の他人に声など掛けられない。
けれどその対象が他の誰でもないグズマに向けられていたことには、そういう意味があったのだと、このおかしな髪の男はそう告げている。
グズマが疲弊しながらも走り続けていることを、頑張らなければならない理由を持っていたことを、赤の他人である筈のあの少女とこの男は何故だか、見抜くのだ。

おかしな力だと思った。グズマの目には捉えられない、何か神秘的なものを彼等は見ているように思われてならなかった。
金色の目をしたこの男は、琥珀色の目をしたあの少女は、グズマの中に何を読んでいたのだろう?

「世界には沢山の人がいます。望んだ相手と出会うことはとても難しい。けれど実直に走り続けている方の姿は、ちゃんと人の目に留まるように出来ているのですよ。
走り続けられている貴方は幸運です。それはきっと、貴方がこれからも沢山の人と出会えるということですから」

幸運、などというめでたいものが、自分の手の中に在る。どうにも信じ難いことのように思われて、グズマは「アンタみたいな奴と?」とからかうように尋ねた。
けれど男は特に気分を害した風でもなく、寧ろ至極楽しそうに微笑んで「その通りです!」と高らかに告げて、そんな自分の大声を恥じるように眉を下げて、肩を竦めた。
彼が笑ったのでグズマも笑った。その微笑みがグズマに笑うことを強要している訳ではないことは解っていたが、それでも、笑えてしまったのだからそれでよかったのだろう。

ローズマリー、という聞き慣れない名前の香りの詰め込まれた、平たく小さな紙袋をグズマは鼻先へと軽く押し当ててみた。目を閉じて、大きく吸い込んでみた。
清涼感のある香りだった。ミントのように鼻に抜けるような涼しさはなかったが、それが逆に彼には心地よいもののように感じられた。
頭の中でぐるぐると渦を描いていた、祈り、願い、後悔、そうした何もかもがすっと凪いでいくように思われた。
彼等の想いを忘れてはいない。忘れてはいけない。けれどそれに飲まれる必要はなかったのだ。祈りは背中を押すものであって、彼の足を取るものでは決してない。
そうしたまっとうなことを、けれどグズマはこの一瞬がなければ思い出すことはできなかっただろう。

「アンタが焼いたお節介のおかげでまだ、頑張れそうだ」

走りたい、と思えた。頑張りたい、と願えた。だってグズマはもうかれこれ1か月、「彼女」の顔を見ていない。


2017.1.31

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