「お前は一人になんかならねえよ」
グズマは言葉を尽くせなかった。そうした誠意の示し方を知らなかった。
だからこそ彼は、彼の本当に伝えたいことだけを、短い言葉に絞り込んで二人の間に放つ必要があった。
そうして放たれた彼らしくない音がどうにもくすぐったいものに思われたらしく、少女はクスクスと笑いながら肩を竦めた。煤色の目はもう宝石を零さなかった。
「アローラの連中は、誰もお前を一人になんかしねえよ」
ええそうですね、そうだといいですね。そうだったなら本当に素敵。
歌うように相槌を打つ。先程の鼻歌のメロディに乗せている。その癖のある四拍子の旋律は、グズマには少し重すぎる。
壊してやりたかった。どこまでも歪を貫かなければ生きていかれないこの少女を、歪にしている何もかもを叩き割ってやりたかった。
遣る瀬無い。もどかしい。少女はあまりにも無知で、男はあまりにも幼かった。
「それでも一人だって喚くんなら、オレが一緒に、お前を一人にした何もかもをぶっ壊してやるよ」
幼いが故に発することの叶った、そうした、悉く純で真っ直ぐな嘘のない言葉。それを聞くや否や、少女はぴたりと足を止めた。
潮風から眼球を守るように細めていた目をぱちりと大きく見開いて、竦めていた肩をとん、と落としてグズマを真っ直ぐに見上げた。
もしかして、と発された少女の、甲高い筈の声音は、けれどどこまでも凪いでいた。
静かな落ち着いた声音の中に何を隠しているのか、歓喜なのか驚愕なのか不安なのか恐怖なのか、やはりグズマには解らない。
「私、貴方の組織に誘われているんですか?貴方が私をスカル団に入れてくれるの?」
ああ、そういうことになってしまうのか、と、グズマは自らの発言を振り返りながらそう気付き、けれど、それでもいいのではないかと思えてしまった。
そうだな、それでもいいさ。少女の鼻歌のリズムを真似るようにテンポよくそう告げれば、ただそれだけの共鳴が嬉しいのか少女はふわりと花を咲かせるように笑った。
けれど少女が「花を咲かせるように笑った」として、きっとその花はハイビスカスではない。もっと別の土地に咲く花だ。そういうことなのだ。グズマにはもう、解っていた。
「島巡りが嫌ならやめちまえ。アローラの連中がいけ好かねえならオレのところに来ればいい。お前みてえな強い奴がいればスカル団も当分は安泰だろうよ」
そうした、どこまでも少女の推測を肯定する言葉を紡ぎながら、彼女をそうした道へと誘う言葉を絶やさず音へと変えながら、
……けれど何処かでグズマは、少女が「ごめんなさい」と、申し訳なさそうに告げて彼を拒絶することを期待していた。
スカル団になんか入りませんと、私はスカル団の敵であって仲間じゃありませんと、気丈な笑みでそう言い放つことを、その実、望んでしまっていたのだ。
「……ありがとう、グズマさん。とっても嬉しいです。でも私、スカル団には入れません」
故に彼女がたっぷりの沈黙の後で、先程の花の笑顔を泣き出しそうにくしゃりと歪め、
それでも辛うじて笑顔の形を作りながら拒絶の言葉を紡いだ時、グズマはどうしようもなく安心してしまったのだ。心から、安堵していたのだ。
「だって私、アローラの中には入れないけれど、宝石を食べられないけれど、それでもアローラが大好きだから。皆のことも大好きで、いけ好かないとはとても思えないから。
……私は、私の大好きな世界で輝いていたいから」
そうかよ、とぶっきらぼうに告げてグズマは笑った。おそらくは心からの笑顔であった。
彼のそうした笑顔を映した少女の煤色の瞳は、驚愕と動揺に見開かれていた。
そうして暫く瞬きを忘れていた少女は、やがて声を上げて高らかに笑い始め、「変なの!」と大声で空に言い放ち、また笑った。
花の咲くような笑顔ではなかった。泣き出しそうなそれでもなかった。ただ、笑っていた。
少女の笑顔は何よりも雄弁で、だからこそグズマは、自分の言葉がほんの僅かでもこいつの心に届いたのだと、確信することができたのだ。ただ、嬉しかったのだ。
グズマよりもずっと強い実力を持った少女だった。けれど彼よりずっと脆い心を持った少女だった。それでいて、彼とあまりにも似た歪みを呈した少女でもあった。
そんな彼女が果たしてどう生きていくべきなのか、どのように在るのが彼女にとっての幸いなのか、
誰からも生きる術を教わらなかった彼女が、もっとまともに生きていくにはどうすればいいのか、……そうしたことをグズマはずっと、考えていた。
少女がマラサダを海に戻した時から、ハイナ砂漠で一人佇む少女を見つけた時から、
……いや、おそらくはもっと前、少女が「私は、私にしかできないことが欲しい!」と、目をいっぱいに見開いてそう告げたあの時から、ずっと、彼女を忘れることができなかった。
グズマも、少女も、輝くためにどうすればいいのか、どのようにして生き残ればいいのか分かっていない。
分かっていないから彼も彼女も、できることを手当たり次第にやった。
それが間違っていようと、常軌を逸していようと、自身が本当に望んでいないことであったとしても、構わなかった。彼等は、輝かなければいけなかったのだ。
「一緒に頑張りましょうね」
「ああ」
「私も貴方もいつか、輝けるといいですね」
「……ああ」
だから少女はグズマの誘いに乗らない。彼女はスカル団という歪な安定には留まらない。そして、それでいい。
そう在るべきなのだ。グズマよりもずっと幼く若い彼女は、彼女こそは、間違えずに足掻くべきなのだ。
お前はオレのようになってくれるなと、グズマは本当にそう、思っていたのだ。
「もう、私を見つけても声を掛けちゃいけませんよ。小石と小石が寄り添っても、輝くことなんかできないんです。貴方なら、ちゃんと解っていますよね」
「貴方は貴方が輝くことだけを考えてくださいね。私のこと、もう、思い出さないでくださいね」
「私も忘れられるように努力するから。貴方と出会えて嬉しかったこと、楽しかったこと、貴方に救われたこと、そんな何もかも全部、此処に置いていくから」
羽ばたこうとしている彼女の、そうした決意が放たれる度に、グズマは「ああ」と短く相槌を打って頷いた。
その度に少女は至極嬉しそうに笑い、そして更に言葉を続けた。湯水のように溢れ出る彼女の決意を、グズマはただの一度も揶揄しなかった。笑わなかった。
その言葉に込められた切実な思いを、願いを、祈りを、彼は痛い程によく解っていたからだ。
一歩、二歩と少女は駆け出した。ぽつ、とグズマの額を叩いた冷たい水は、少女の望んだ雨の色をしていた。
彼女もまた、自らの頬に降る雨に気が付いたのだろう。甲高い、子供らしい歓声を上げながら、少女は更に雨を乞うようにくるくると回った。
小さな靴の先を黒い砂が飲み込んでいく。沈み切る前に少女は次の足を出す。歪な魔法陣は何も呼び出さない。彼女の描く軌跡は魔法を生まない。それでいい、それがいい。
「貴方のこと、大好きでした!」
魔法陣の中央で少女は大きく手を振る。振り返さなければずっとそうしているのだろうと、手に取るように解ってしまったからグズマも手を挙げて振り返す。
満足したらしい少女はふわりと花を咲かせるように微笑んで、そしてくるりと踵を返して駆け出した。
黒い砂浜に小さな靴跡を規則正しく落としながら、スキップをするように一歩、また一歩と遠ざかっていった。
小さな背中だった。強さと弱さを絡めすぎた彼女の心を紐解くことは、きっと神にさえできないのだろうと思われた。
グズマは、知らなかった。
この頃の少女がルザミーネと共に、エーテルパラダイスの地下にある冷たい部屋で沢山の言葉を交わすことを日課としていたこと。
彼女が既に「輝けるようになるための策」として、悉く歪んだ結論を出そうとしていたこと。
グズマは察せなかった。少女は言わなかった。だから当然のことだった。運命は、変わりようがなかった。
一応、解りきったことだが敢えて明言しておくと、グズマはこの少女に壊れてほしかった訳では決してなかったのだ。
子供らしくない強さと、大人とするには脆すぎる心を持ち合わせた少女に、子供のまま大人になってしまった自分の歪な姿を重ねることは驚く程に容易いことであった。
だからこそ彼は心から「壊れてくれるな」と祈るほかになかったのだ。その小さな背中に、どうか、と願わずにはいられなかったのだ。
あいつは壊れない。あいつの心は折れない。あいつは一人にならない。あいつは、何もかもを犠牲にして笑うことなどしなくてもいい。
グズマは本当にそう思っていたのだ。それは彼の懇願であると同時に彼の確信でもあった。
彼は端から、彼女の心が折れてしまうなどということは考えていなかったのだ。考えていない、筈であった。
それでも込み上がる不安というものは確かにあって、けれどその不安は彼女の脆さではなく、グズマ自身の弱さが呼び覚ましたものである筈で、
だからこそグズマは、不安を抱いてしまう自分に叱咤し、呆れこそすれ、彼女を案じる必要など、まるでなかったのだ。
案じずとも、彼女は折れずに生きていかれる筈であったのだ。
*
「私、眠りに行くんだよ」
だからこそグズマには、少女のこの言葉が、彼自身への裏切りに思えてしまったのだ。その言葉に、自身の祈りが踏みにじられたように思ってしまったのだ。
そして、その祈りへの蹂躙はそれからも、幾度か続くこととなった。
眠りに行く、と笑顔で語る少女に手を伸べることができなかった。痺れた身体を動かすことが叶わず、ただ喉を潰すようにして彼女の名前を呼ぶことしかできなかった。
氷の中で眠ってしまった少女を助けることができなかった。あまりにも冷たく、あまりにも分厚い壁に阻まれ、彼の手が凍え、傷付くだけであったのだ。
ウルトラスペースで彼女を見つけた時も、その場に立ち尽くすことしかできなかった。彼にとってルザミーネの指示は絶対であり、それを無視して動くことは許されなかった。
彼女に手を伸べる機会は確かにあった。一度だけでは決してなかった。けれど伸べることができなかった。掴めなかった。届かなかった。
彼の祈りは封じられたまま、何もかもが終わってしまった。
だから彼は、今度こそ彼女に手を伸べる必要があった。彼の祈りを、思い出す必要があったのだ。
今度こそ、その手を掴んでやる。そして、二度と離してやるものか。
2017.1.25