「あたいは表舞台に出られるような立場じゃないんだ。だからあんたが行ってやりなよ。ミヅキ、きっと喜ぶからさ」
リリィタウンで、アローラ地方に誕生したチャンピオンを祝うお祭りが行われる。
そう伝えに来てくださったのは、ハウさんでも兄様でもなく、スカル団を束ねている女性、プルメリさんでした。
連絡船に乗ってやって来たプルメリさんは、わたしを見て「久しぶりだね」と、鋭い目を少しだけ和らげて微笑んでくれました。
そしてその笑顔のままに、お祭りへの誘いを口にしたのです。
あたいは行けないから、でも一人でも多く祝ってやった方がミヅキも喜ぶだろうから、ミヅキはきっとあんたを待っているだろうから、と。
プルメリさんにはとてもお世話になったので、お誘いを断るのは気が引けました。笑顔で頷き了承の意を示す、そうした快い返事が期待されていることくらい、解っていました。
……それでも、やはりわたしは首を振りました。
「わたし……行けません」
彼女に合わせる顔がなかったのです。会ったところで、彼女がわたしに笑いかけてくれる筈がないと解っていたのです。
わたしは彼女を苦しめていたのです。わたしが彼女の呼吸を奪っていたのです。そんなわたしが今更、会いたいなどという厚かましいことを願える筈がありません。
けれどそうした残酷な事実を知らないプルメリさんは、わたしの断りの言葉を聞いても困ったように笑うだけで、一向に引く様子を見せませんでした。
「いいじゃないか、代表の容態も少しはマシになったんだろう?」
「かあさまのことが心配だから、というだけではないのです。わたし……」
「……なあ、頼むよ。ミヅキのことが薄気味悪いのはあたいも解っている。解っていて頼んでいるんだ」
薄気味悪い。
ポケモンリーグのチャンピオンになり、輝かしい栄光を手にした筈の彼女が、そのように称されていることにわたしは驚き、ショックを受けました。
プルメリさんも、スカル団の人に優しくしていた彼女を可愛く思っていたのでしょう。彼女を愛する一人の人間として、彼女のことを案じていたのでしょう。
そんな彼女が、あろうことかわたしに頭を下げて、「……なあ、頼むよ」と、あまりにも弱々しい声音でそう告げたのです。
わたしは驚き、狼狽えて、……何も言うことができませんでした。
「何がどうしてああなっちまったのか、誰も、何も解らないんだ。何も言わないし、笑いもしない。まったく不気味な子供になっちまったもんだよ」
「……」
「なあ、あんたの笑顔で照らしてやってくれよ。そうしたらあいつも、ちょっとは笑ってくれるかもしれないだろう?」
誰よりも強い力を得た筈の彼女は、代わりの利かない「チャンピオン」という、輝かしい役を手に入れた筈の彼女は、けれど、それでも何も変わっていなかったのです。
そんな彼女のところへわたしが向かったところで、彼女にしてあげられることなど、何一つないように思われました。
けれどプルメリさんが、本当に困り果てた表情でわたしに頭を下げたのです。「頼むよ」と、悲痛な声音でわたしの同行を願ってくれたのです。
わたしは迷いました。随分と長い間、わたしは沈黙していました。
……彼女のためではなく、皆さんのために彼女に会いに行こうと思いました。
わたしがアローラでお世話になった、全ての人のために、彼女を大切に思っている皆さんのために、会わなければならないと思いました。
「10分、待ってください。かあさまに出かけることを伝えてきます」
彼女はマスカラに彩られた目元をすっと下げて「ありがとよ」と、嬉しそうに笑ってくれました。わたしは大きく頷いて、くるりと踵を返して、駆け出しました。
お屋敷へと続く白い真っ直ぐな道を走りました。吹き付けてくる風が、束ねたポニーテールを揺らしました。
わたしは彼女の力を借りずとも、髪を一つに束ねることができるようになっていました。
彼女に髪を束ねてもらうことなど、もう二度と願えないのだと解っていました。
かといって、容態の安定しない母様や、献身的に母様の介抱をしてくださっているビッケさんに頼めるほど、わたしは愚かな人間ではありませんでした。
わたしが、わたしの髪を束ねなければいけなかったのです。できるようにならなければいけなかったから、何度も練習して、できるようになったのです。
決して、心から望んでいた訳ではなかった力。名誉なことであるとは言い難い、悲しい力。それを、わたしは持たざるを得なくなっていました。
だってここには彼女がいません。満面の笑顔で「大好き」と告げてくれた、強くて勇敢で優しい彼女がいません。わたしの髪を束ねてくれた彼女がいません。
ミヅキさん、貴方が強くなったのも、そうした理由だったのでしょうか。
「……」
長く母様に付きっきりだったわたしは、アローラの土の匂いを忘れかけていました。太陽の温もりが、木の葉の擦れる音が、随分と懐かしいもののように思われました。
胸が痛くなる程の全力で、小石一つない道を駆け抜けました。こんなに走ったのは、コスモッグをエーテルパラダイスから連れ出そうとしたあの時以来でした。
屋敷の扉を勢いよく開けて、母様の部屋の扉を、ノックもせずに押し開きました。
目を覚ましていた母様、そのベッドの傍に屈んだわたしは、本当のことを告げるべきかどうか暫く迷って、……結局、正直に話すことにしました。
「ミヅキさんが、ポケモンリーグのチャンピオンになったそうです。わたし、そのお祝いに呼ばれました。少しだけ、出掛けてきますね」
子供のように泣きながら「ごめんなさい」と謝り続けていた、その相手の中に当然、彼女も入っていました。
うわ言のように彼女の名前を呼び、謝罪を繰り返すことだって珍しくありませんでした。
そんな風に、真っ直ぐに彼女を呼ぶことが叶っている母様を、わたしはとても羨んでいました。そして、それは今でも続いています。
母様は彼女の名前を呼び、彼女のために涙を流し、彼女に謝罪の言葉を紡ぐことさえできています。わたしは彼女を上手く思い出すことさえできません。
彼女を想うと、わたしはにわかに臆病になりました。どれが本当の彼女であったのか、特定することも、考えることも恐ろしかったのです。疲れていたのです。
「ミヅキ、あの子に……」
「大丈夫ですよ、ミヅキさんにもちゃんと、かあさまの代わりに謝っておきます。彼女を凍らせてしまったことも、一緒に償いましょうね」
わたしは彼女のあやふやな面影を振り払うように首を振ってから、母様の言葉に被せるようにそう告げました。
すると母様は必死な様子で右手を伸べて、私の服の裾を強く握り締めたのです。母様からわたしに触れてくるのはとても珍しいことだったので、わたしは少なからず驚きました。
どうしたのですか、と身を屈めて尋ねれば、母様は信じられないようなことを口にしたのです。
「……」
わたしはにわかに恐ろしくなって、母様の手をベッドへと押し戻して、慌てて立ち上がりました。
そんな筈がありません、と震える声で否定の言葉を紡いで、勢いよく床を蹴り、部屋を、屋敷を飛び出して走りました。
心臓が弾けてしまいそうな程に大きく揺れていました。激しく走り過ぎたからだと言い聞かせて、わたしは更に駆けました。
陽はわたしを焼き焦がすかのように照り付けていました。風はわたしの頬を切り裂くかのように激しく吹き荒れていました。
木の葉はわたしの鼓膜を貫くかのようにざわめいていました。白い床は、冷たいままでした。
どうしたんだい、と訝し気に尋ねるプルメリさんに、何でもありません、などと見え透いた嘘を吐きました。
優しい彼女はそれ以上を追求することをしませんでした。連絡船は静かにエーテルパラダイスを離れて、メレメレ島へと進路を向けました。
わたしは船に打ち寄せる小さな白波に視線を落としました。船体にぶつかっては弾けて消えるその白は、まるであの雨の日に海が飲み込んだページのようでした。
波の間に、彼女が破き捨てた日記の幻覚が見えました。茜色の表紙と、夕焼け色の栞がふわりと浮き上がり、わたしを責め立てました。
母様がわたしに告げた言葉が、わたしの頭の中をぐるぐると掻き乱していました。
『ソルガレオを連れ戻して。あの子にウルトラビーストを渡しては駄目。』
『ミヅキは自分で眠ったの、望んで氷の中に入ったのよ。』
『あの子もわたくしのように、戻って来なくなるかもしれない。』
わたしはウルトラスペースでの出来事を思い出そうとしました。
母様とポケモンバトルをしていた、あの時の彼女の目は細められていました。母様を、ウツロイドを、あの世界を眩しく思うかのように、煤色の目は細く長く光っていたのです。
あの美しく息苦しい世界で、彼女はあの時、何を考えていたのでしょう。
*
「……ほら、行ってやりな」
プルメリさんに背中を押され、わたしがリリィタウンの広場を訪れた頃には、もう日が傾き始めていました。
広場にはハラさんやイリマさんといった凄腕のトレーナーさんが大勢集まっていて、とても賑やかになっていました。
誰もがお喋りやダンスやポケモンバトルを楽しんでいました。ポケモンさんも、トレーナーさんも、笑っていました。
皆さんはわたしを見つけると笑顔で手を振り、一斉に駆け寄って来てくれました。人の輪に揉まれながら、わたしは数えきれない程の「ありがとうございます」を告げました。
何もできなかったわたしを助けてくださった、アローラの皆さんに感謝を示すべく、笑って、お礼を言って、また笑いました。わたしが笑えば、皆さんも笑ってくれました。
そうして全員に挨拶を終えたわたしは、広場の隅で座り込んでいる彼女に歩み寄りました。
遠くで、誰かが息を飲んだ気がしました。……いいえ、「誰かが」ではなく、「誰もが」息を飲んでいたのかもしれません。誰もが、彼女に近付くわたしを見ていたのかもしれません。
いずれにせよ、わたしはこの時、もう彼女しか見ていなかったのですから、皆さんの視線を確認することなど、できる筈がなかったのです。
「ミヅキさん」
わたしは彼女の名前を呼びました。
彼女は重たげに顔を上げて、濁った煤色の目でわたしを見つめました。
2017.1.5