33

このお祭りの主役である筈の彼女は、誰よりもこの場で楽しそうに振る舞い、輝いていなければならなかった筈の彼女は、
けれどそうした「役」を悉く諦めているかのように、大きな木の根っこに一人寂しく腰を下ろしていました。

……わたしは、わたしが彼女の元を去れば、彼女は再び笑えるようになるのではないかと思っていたのです。
だから、もしかしたら以前のような、満面の笑みを湛えた彼女と会うことが叶うのではないかと、期待していたのです。心から願っていたのです。

彼女が強迫的な笑顔と「大好き」を貫き続けてきたのは、隣にわたしがいたからで、自らを「小石」だと認識し続けていたのは、隣に「宝石」であるわたしがいたからで、
故にそうしたわたしが彼女の隣からいなくなれば、彼女は脅迫めいた笑顔や大好きを続ける理由を失い、ようやく自然な笑顔を浮かべることができるようになる筈でした。
そうしてようやく彼女は、彼女を好きになることができる筈でした。
そのためにわたしが邪魔であるのなら、わたしは大好きな貴方に二度と会わないようにする覚悟さえあったのです。それがわたしの贖罪であった筈なのです。

けれど今の彼女は、笑うことが叶っていません。かつてのように「大好き」と告げて微笑むことができていません。
あの雨の日の痛々しい姿のまま、彼女は重たげに瞬きを繰り返すばかりでした。そうしてようやくわたしは、わたしと彼女の間に敷かれた真実を認めるに至ったのです。

彼女がもうわたしの名前を呼びません。わたしに笑いかけることも、二度とありません。
何故ならわたしは間違っていたからです。彼女のことを誰よりも解っていたのは、わたしではなかったからです。
どう足掻いても、彼女よりも劣っていたわたしが彼女を理解できる筈がなかったのです。
それなのにわたしは、彼女の傍にずっといたのはわたしだからと思い上がり、彼女の苦しみを、強さを、勇気を、優しさを、笑顔を、理解した気になっていたのです。

「……ザオボーさんが言っていたこと、ようやく少し、解ったような気がします」

わたしは思い上がっていたのです。わたしの天使に見限られているとも知らずに、みっともなく言葉を、想いを振りかざし続けていたのです。わたしは、愚かだったのです。
そのことを認めるまでに、あまりにも長い時間が掛かってしまいました。

ミヅキさんに必要なこと、誰よりも勇敢だった筈の貴方が持つべき勇気、……それは、誰かを嫌うことだったんですね」

「わたしを嫌いなさい」という、ザオボーさんが告げたあの言葉は、きっと彼女にとって最上の救いだったのでしょう。
ザオボーさんには、彼女を救い上げるための最善が見えていたのでしょう。あの人には、その最善を見るだけの慧眼と、その最善を選びとるだけの勇気があったのでしょう。
……けれど、どうしようもなく悔しいけれど、わたしは違います。わたしは彼女のことが好きです。彼女は誰よりも強くて勇敢で優しい、わたしの、ただ一人の天使なのです。
わたしは彼女に嫌われたくありません。だからザオボーさんのように「わたしを嫌いなさい」と促すことができません。最善だと解っていても、そんな恐ろしいこと、言えません。

「わたし、貴方に沢山、「大好き」を言わせてしまいました。貴方を傷付けて、苦しめて、……そのことにずっと、気が付きませんでした。ごめんなさい、ミヅキさん」

わたしはひどく利己的な人間です。どうしようもなく我が儘な人間です。
貴方に笑顔と「大好き」を強いて、沢山傷付け、苦しめたのに、それでもわたしはまだ、貴方に笑ってほしいと思ってしまうのです。
元気になってほしい、心から笑えるようになってほしいと願ってしまうのです。
……そして、そこにわたしがいればいいと、思ってしまうのです。
貴方の背中に金色の翼が戻ってきた時、その翼を縫い合わせるのがわたしであればいい。そう、思わずにはいられないのです。

馬鹿げています。解っています。
わたしは貴方を苦しめてばかりだったのに。わたしは貴方の翼どころか、ククイ博士の破れた白衣を縫い合わせることさえできなかったのに!

「かあさまがわたしに、貴方からほしぐもちゃんを取り返してきなさいって、言ったんです。
貴方にウルトラビーストを預けてはいけないって。貴方はかあさまのように、ビーストを使ってあの世界に飛び込んで、そして……戻って来なくなるかもしれないって」

彼女は顔を上げてわたしを見上げました。
その目に僅かな驚きを読んだわたしは、けれど大きく首を振って拒絶の意を示しました。

「でもわたし、できません。これ以上、貴方から何も奪いたくないんです。傷付けたくないんです。……だからわたし、貴方を信じます。大好きな貴方を信じます」

「……」

「貴方が大好きです。太陽のように周りを照らす貴方の笑顔が大好きです。だからお願いです、貴方は、貴方のままでいて……」

どうか馬鹿なことを考えないでください。母様のようなことをしないでください。
貴方に毒は入っていません。貴方を苦しめたわたしは明日、いなくなります。貴方が狂わなければならない理由など、もう何処にもありません。……だから、どうか。


「ありがとう」


それはまるでそよ風のようでした。
アローラの熱い日差し、賑やかな白波、大地の匂い、賑やかに輝く沢山の命、そうした全てとは似ても似つかないものでした。
眩しさなど欠片も感じさせない、小さくささやかな微笑みでした。
……けれどそのそよ風は、凍り付いていたわたしの心を確かに溶かしたのです。

これが彼女なのです。このささやかな微笑みが、おそらく、きっと。

「ありがとう、リーリエ」

彼女を愛する誰もが、その微笑みを見逃しませんでした。わっと彼女の方へと駆け寄って、めいめいに彼女に話しかけ始めました。
歓喜の波はあっという間に広場中に広まりました。歓声が小さな村を大きく包みました。
先程までの賑やかさなど些末なものだったのだと思わせる程の、大地さえ震わせんとするかのような、そうした、大きな歓喜でした。

誰もが彼女の笑顔を、声を、待っていたのです。彼女はこんなにも慕われていたのです。
アローラに生きる全ての命が彼女を愛していました。彼女を愛していなかったのは、彼女自身だけでした。

わたしは人混みからそっと抜け出して、一度だけ振り返りました。
彼女は多くの人に囲まれて、困ったように笑っていました。弱々しい、覇気のない笑顔でした。けれど自然な笑顔でした。恐れの色は微塵も見当たりませんでした。
満面の笑顔でなくとも、眩しくなくとも、彼女の笑顔にはそうした力があるのです。彼女の笑顔はこうして、周りを照らし、彼女を愛する全ての人を笑顔にしていくのです。
彼女もわたしも大丈夫です。もう、大丈夫です。

翌日、アローラを発つわたしを見送りに、ククイ博士がハウオリシティの乗船場に来てくれました。
研究所のロフトは、バーネット博士のご意向で残しておいてくださるそうです。
ククイ博士とバーネット博士は、わたしにとても優しくしてくださいました。まるで本当の娘のように可愛がってくださいました。
お二人に出会わなければ、わたしはこの暑い大地でまともに生きることさえできなかったでしょう。

わたしにあって、彼女にないものがたった一つだけあります。
わたしは、人が一人では生きていけないことを知っています。人は誰かに助けてもらわないと、生きていかれないのです。
たったそれだけのこと、けれど彼女が手に入れることのできなかった、たった一つの理です。わたしが唯一、彼女に誇れるものです。

けれどわたしは案じませんでした。
ようやく自然に笑えるようになった彼女が、沢山の人に愛されている彼女が、そうした真理に気付けるようになるまで、そう長くはかからないだろうと確信していたからです。
彼女はいつか必ず、眩しい輝きを取り戻すと確信していたからです。わたしは、わたしの大好きな彼女を信じていたからです。

出向の直前、ハウさんと彼女がやって来てくれました。
ハウさんにマラサダを手渡して、彼女の腕にピッピ人形を抱かせて、わたしは声が震えないように、努めて明るい声音でさようならを告げて、船に乗り込んで。
遠ざかるアローラの大地へ、お世話になった全ての人へ、わたしを助けてくれた天使へ、大きく手を振って、そして。

……どこまでが現実で、どこからが幻だったのか、わたしにはよく解りません。
彼女がいつから異常だったのか、いつまで正常だったのか、やはりわたしには断言するだけの自信がありません。

ミヅキさんについて知っていることは、もうありません。わたしは何も知りません。わたしにはもう、彼女が解りません……」

「……」

「でも、貴方は違うんでしょう、グズマさん……!」

白波が、クチバシティの船着き場へと打ち寄せて来ていました。まるであの日のわたしを責めるように、ずっと、わたしの胸を叩きつけていました。
遠く離れたアローラからわたしに会いに来てくださった彼は、わたしの話を聞きに来てくださった彼は、けれどただ、悔しそうに目を細めて、拳を強く握り締めるだけでした。
彼の手の中にあった写真が呆気なく握り潰される、その音は、けれど白波が掻き消してしまいました。

真新しいポケモンリーグ、その最奥にあるチャンピオンの間。
宝石のように美しいその椅子には、そこへ腰掛けるべき彼女の代わりに、見覚えのあるピッピ人形が座っていました。その椅子の背後に、ぽっかりと青白い穴が開いていました。
彼女はウルトラビーストの世界へ行ってしまったのだと、もう二度と戻って来ないのだと、そう確信するに十分な光景が、その写真の中にありました。
わたしがカントーのアスファルトを踏みしめてから、僅か数日後のことでした。

『ありがとう。』
わたしの言葉は間違った形で彼女に届いてしまったのです。わたしは彼女の背中を、間違った方向に押してしまったのです。彼女を、止めることができなかったのです。
悔やんでも、悔やんでも、白波はわたしを責め立てるだけでした。誰もわたしを許してなどくれませんでした。
カントーの白波は、アローラのように温かいものではありませんでした。波しぶきがわたしの靴を雨のように濡らし、潮風がわたしの足元を氷のように冷やしました。

何もできないわたしのままでいればよかった。
そうすれば、彼女は一人にならずに済んだかもしれないのに。


2017.1.5

Thank you for reading her story.

© 2024 雨袱紗