天を読む藍

9 - He (1) -

悪魔の泣き声が聞こえた。

見えないものは揺らぎ、消えてしまうものだ。心という不完全なものが抱く憐憫や優しさというものは、曖昧で不確かで、愚かな人を振り回す邪悪なものだ。
故にそうした、暗い夜道で蹲り泣き続ける誰かを見つけたとして、何の感情も抱くことなくそっと通り過ぎることが「彼」にとっての最善だったのだろう。
我々はもっと確実なものを指針にすべきだ。そんな曖昧なものに飲まれる必要などない。彼はそう信じていたし、その考えを変えるつもりなど更々なかった。

しかし残念なことに、彼の視界に映った人間は、年端もいかない子供の姿をしていたのだ。
あの幼さではおそらく、そうした恐怖や不安といった感情が不要なものであると、そんな不確かなものに心を砕く必要などないと、理解することもできていないのだろう。

私のように。
そう推測すれば、彼の足は驚く程すんなりとそちらへの歩みを進めた。
いつかの、もう忘れかけていた少年の絶望と憎悪の記憶が、その悪魔の泣き声を皮切りに、一気に解き放たれてしまったような衝撃だった。
その記憶は、感情を殺した今の彼には悉く重い代物であった。一人でその記憶を押し込めるのは少々骨が折れたのだ。

故に彼は「らしくない」行動を取った。
どうした、と膝を折り紡いだ声は、少女のための言葉でありながら、半分はそうした、感情に心を取られかけていた自分を落ち着かせるための言葉だったのだろう。

「次の町が見えないの。このまま何処にも行けなかったらどうしよう……」

その嗚咽は小さな針となり、男の心臓を何度も貫いた。ぽろぽろと白い頬を伝う宝石のような涙は、しかし致死性の毒を含んでいるかのように男の視界を鋭く穿った。
ぽたぽたと自らの心臓から溢れる見えない血に気付かない振りをして、その眩しさは気のせいだと言い聞かせるように拳を握り締め、男は強い口調で断言した。

「何処にも行けない、などということは在り得ない。君の足は道を切り開くためのものだ。君の声は進む方向を他者に仰ぐためのものだ」

すると少女は顔を上げた。藍色の目が夜を読むように、少し欠けた月の光を映していた。
蹲るその姿から10歳前後の子供であろうと予想していたのが、あどけない表情と大きな目、恐怖と不安に震える声、その全てが彼女をより幼く見せていた。

「どの町を目指していたんだ」

「あ、えっと、トバリシティへ」

「……そうか、私もその町に用がある」

いくら幼い子供であろうとそれだけ告げれば通じるだろう。
そうした確信の下、立ち上がって歩みを進めたのだが、後を付いて来ようとする彼女の歩幅が、幼さを考慮してもあまりにも小さなものであったため、男は足を止めて振り返った。
彼女の方へと戻り、努めて感情を表に出さないように「どうした」と尋ねれば、少女は縋るようにこちらを見上げつつ、小さな指で右足をそっと指差した。

そうして初めて、男は少女が尋常ではない姿をしていることに気付いた。
真っ白な頬に赤い切り傷が幾つも付いていた。淡い色のコートに泥や葉、枝の類を付けていて、ニット帽から見える夜色の髪は見るに堪えない荒れ方をしていた。

「皆、バトルで疲れちゃって、もう戦えそうにないの。早く町に行かなきゃいけないのに、いくら歩いても建物は見えないし、草むらに入ればポケモンが飛び出してくるし……」

そうした少女の告白とその姿から、この惨状は彼女の力不足であることが容易に見て取れた。
瀕死とまではいかずとも、極限まで疲労したポケモン達をこれ以上戦わせる訳にもいかず、かといって負傷した足で野生のポケモンから逃げ切ることもできず、
そうこうしている内に陽が暮れて、途方に暮れたところにこの男は鉢合わせてしまったのだろう。
運のいい少女だと思った。また自分の運の無さを男は呪おうとした。しかしそうした憎悪の感情にもいつものように蓋をして、「ポケモンを出しなさい」と少女に促した。

男が持ち合わせていた傷薬は僅かな量ではあったが、それでも彼女の連れているポケモン達をある程度まで回復させることに成功し、男も少女も安堵の溜め息を吐いた。
その息の重なりに少女は驚いたように目を見開き、そして涙の筋の残る頬を少しだけ綻ばせ、飽きる程に「ありがとう」と繰り返した。
男はどうにもその言葉が苦手であったため、何か別の言葉で少女のそれを遮ろうとしたのだが、彼女は一向に、その不可思議な温度の込められた言葉を紡ぐことを止めなかった。

「ありがとう。おじさんが私を見つけてくれなきゃ、私は何処にも行けないままだった」

彼女の紡ぐ一音一音には、危うい剥きだしの感情全てが詰め込まれているように思われた。
安堵に歓喜、そして感謝。躊躇うことなくその小さな口から吐き出された何もかもを、男が素知らぬ風で交わし続けるのは最早不可能であるように思われた。
それでも男は拒むために大きく溜め息を吐き、その手で少女の口を塞いだ。
くぐもった音を幾つか発した後で、すっかり泣き止んだ少女は、自らの両手で男の手を掴み、ぎゅっと握りしめて「冷たい」と驚いたように紡いだ。
その、自らの持ち得ない冷たさを楽しむように、小さな手が何度も男の手の甲を行き来した。爪に触れたり、指を辿ったりしながら、クスクスと鈴を鳴らすように笑った。
まるで男の手が何かとてつもなく神聖なものであるかのような触れ方は彼を少しばかり驚かせた。人肌恋しさを隠すことなく露わにする少女は、やはりどこまでも幼く見えた。

「……私には君の怪我を治す術がない。そうしたことをできる人間がいる場所に案内することならできるが、どうする?」

「連れて行ってくれるの?」

「君が拒むのであればこのまま去るつもりだ」

頭が吹き飛んでしまうのではないかと思う程に、彼女は激しく首を横に振った。乱れたままの髪がふわふわと夜の闇に揺れた。
「行かないで」という消え入りそうな訴えを聞き入れる形で、もう一度その手を握り直せば、少女は酷く安心したように微笑んだ。
子供が為す感情の発露は、そうしたものを悉く拒絶してきたこの男にはあまりにも眩しすぎるものであった。故に少女に視線を落とすことはせず、ただ黙って隣を歩いた。

怪我をした方の足を庇うように、少女はぎこちなく歩みを進めた。
男はその小さすぎる歩幅に合わせるようにゆっくりと足を動かしていたが、この速度ではいつ町が見えて来るか解らないように思えたため、立ち止まり、少女を呼んだ。

「足が痛むのであれば君を背負って歩くこともできる。鞄を貸しなさい」

そう言って彼女の鞄を奪い取り、背を向けて膝を折って屈めば、少女は暫くの沈黙の後でその背中に縋り付いた。
慎重に立ち上がった男の背中で、少女は急に目線が高くなったことへの驚きや、自分よりもずっと開けた視界を持つ男への羨望、
疲れたら下ろしてくれて構わないという気遣いに、自らの足を気遣ってくれたことへの感謝、それら全てを饒舌に、慌てたような早口で告げた。
男は最早彼女の言葉を遮ることを諦め、簡素な相槌だけを打ちながら月夜の照らす道を歩いた。

「夜は暗くて怖いね。閉じ込められている気分になる。ずっとこの黒から抜け出せないような、そんな気がしてくるの」

その言葉が、幼い子供特有の、暗闇を恐れる些末な感情であるのだと男は理解していた。
理解していて、その上でそうした言葉を紡いだのだから、おそらく既に彼は毒されていたのだろう。

「あの月が見えるか」

「……うん、少しだけ欠けているね。少し離れたところで幾つも星が光っているのも判るよ」

「星や月は夜にしか見えない。我々の住む星の向こう側にも、あのような光が存在しているのだと、我々は夜にしか知ることができない。
夜の暗闇は我々を閉じ込めるためのものではない。遥か遠くの宇宙へと繋げるためのものだ。我々が宇宙を見るための時間だ。……だから、恐れる必要など何もない」

そんな下らない感情に、心を揺らす必要などありはしない。
そうした意味を込めて言い放てば、少女は長い沈黙の中でそれらの言葉の意味をなんとか理解することに成功したらしい。
男の背中で少女がクスクスと笑い始めた。そっか、そうなんだ、と、殆ど意味を為していないような音を羅列させ、やはり楽しいのかその身体は小さく震えていた。

「夜は、一人じゃないんだよって教えてくれる時間なんだね。星や月があんなにも小さく光っているのは、とても素敵なことだったんだね」

振り返らずとも解る。少女は天に広がる星を見上げているのだろう。その藍色の目で、おそらくは少女にしか見えない宇宙の言葉を読んでいるのだろう。
自らの傾倒する星空を、まさかこのような幼子と共有することができるとは思ってもいなかったため、その不思議な体験は彼の心をも大きく揺らしてしまった。
男の心は「そうしたことがあってはならない」と弁えつつも、やはり少しばかり、浮ついていたのだ。

「ねえ、おじさんは、」

「アカギだ」

「あ!……ふふ、名前を教えてくれてありがとう。私はヒカリっていうの」

この子供が抱いていた、夜への恐れを取り払えた。
どうしようもない厄介事に巻き込まれた男への報酬など、それだけで十分だった。少なくとも彼はそう思っていた。

それから男は彼女を背負ったままトバリシティへと足を踏み入れ、自らの率いる組織の拠点へと向かった。
ビルに入る直前に「此処からは歩きなさい」と告げて少女を下ろせば、彼女は少しばかり名残惜しそうにアスファルトへと足を着け、「ありがとう」とまたしても繰り返した。
そうしてビルへと入れば、団員たちが驚いたように二人に視線を集め、何事かと囁き合ったり、驚きに瞠目したりして、しかし誰も二人を引き止めることはしなかった。
どこまでも異質な空間が出来上がりつつあったが、その中心にいたのはどこまでも正常なこの少女であった。
懐疑の念を微塵も抱くことなく、絶対の信頼を寄せて男の後ろを小さな歩幅で付いていく少女の正常な姿こそ、おそらくは「異質」であったのだろう。

少女とそれ以外とはあまりにも異なり過ぎていた。それ故に互いが互いの毒となり、互いを侵食し合い、蝕み合うように見えた。よい結果など決してもたらさないように思えた。
しかし大勢の異質さが放つ毒よりも、たった一人の正常な少女が差し出す毒の方が、あまりにも強力で危険なものであったのだと、この時は誰も知らなかった。知りようがなかった。

2016.3.21

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