天を読む藍

8 - Little stars -

<新入りの科学者の場合>
成る程確かに、彼女は猛毒であるのかもしれなかった。

この組織がどういったものであるかを理解しない。此処に集う人間が、とてもではないがおいそれと日向に出て来られるような存在ではないことさえも知らない。
無知を振りかざしながら、少女はこのアジトをパタパタとその小さな足で走り回っていた。
プルートにはそれがどうにも邪魔な存在であるように思えてならなかったのだ。
何も知らない少女の、先の読めない気紛れな行動によって、自らの立ててきた綿密な計画が狂わされることを彼は恐れていたのだ。

「プルートさん、こんにちは!」

そして更に厄介なことに、少女は団員に対する親しみを、自分にも例外なく向けるに至っていた。
子供は面倒だ。何をしでかすか分からない。
このような危険因子を放っておくどころか、自ら招き入れるような真似をする組織の長を、
しかしそもそも男は信じてなどいなかったから、別段、この少女の来訪を契機に軽蔑を強める、などということは特になかったのだけれど。

「はいはい、こんにちは。しかし君も変わった子だ。子供はこんなところに閉じこもっていないで、もっと外で思いっきり遊ぶべきだ。そうは思わんかね?」

彼女の挨拶に応えながら、プルートはいつものようにそう忠告する。
少女は困ったように肩を竦め、「でも、此処じゃないと皆に会えないから」と、しかしそのふわふわとした声音の中に頑として譲らない意思を含ませて告げるものだから、
プルートは「そうかい」と軽く流しながら、その子供らしい強情と強欲に軽く舌打ちをし、彼女に背を向けていつものように仕事に取り掛かろうとした、その時だった。

少女が、笑い始めたのだ。
クスクスと、まるでそんなプルートの反応を楽しむかのように、陽気に、楽しそうに、そしてともすればこちらを軽侮しているかのように、彼女は声を震わせて笑っていた。
何かね、と不機嫌を隠すことをしないままに振り向けば、少女はそうした男の偏屈な表情さえも全く意に介していないような朗らかさで、告げる。

「プルートさんは大人みたいだね」

「……そりゃそうだ、私は大人だろうよ。此処の連中は私を含め、偏屈で心の荒んだ大人ばかりだ」

「ううん、そうじゃないの。貴方は私の知っている大人にとてもよく似ているよ」

おや、と思った。プルートは少しばかり楽しくなって目を細めた。
この、どこまでも無知で無垢で、大人の汚い面など何も知らずに生きてきたような少女は、限りなく恵まれた幸せな家庭で育って来たことを思わせる、箱入りの子供は、
しかしその実、その藍色の目で真実に近いところを見ているのではないかと思ったのだ。その曇りのない藍色にはそうした力があるのではと思ってしまったのだ。
確認を取るように「偏屈な大人は嫌いかね?」と告げれば、彼女は笑いながら「ううん、そんなことないよ」と首を振り、でもと付け足して真っ直ぐにプルートを見上げた。

「少し珍しいなって思ったの。他の皆は子供みたいだから」

彼女はまだ子供であった。故に大人が操るに足る単語を、上手く使いこなすことができずにいた。
そんな彼女が、プルートと他の団員との区別に用いた「大人」と「子供」という単語の、その言葉の裏に込められた複雑なものを、
しかし少女がそれ以上の単語で言語化できないのであるから、その言葉を聞くことしかできないプルートに、彼女の心の裏を推測することなどできやしない。
邪推を施すには少女が紡ぐに足る言葉の数はあまりにも少なかった。だからプルートは笑って少女を送り出した。

「そうかい、ならば子供らしい皆のところへ行くべきだ。此処は「大人」の場所だからね」

「うん、そんな気がしていたよ。ありがとう、プルートさん」

またしても不可思議な言葉を言い残し、少女は踵を返してパタパタと駆け出した。
その足音を聞き届けてから、プルートは大きく溜め息を吐いた。要らぬことに心労を割いてしまったと思ったからだ。

成る程、確かに面白い子供だった。ただ、この男の性には合わなかった。きっとそれだけのことだったのだろう。

<国際警察の場合>
世界の如何を何も知らないような、無知故に屈託なく笑うことを許されているような少女だった。
それでいて、彼の捜査していた組織の、真実に最も近いところに平然と立ち笑うことの叶っている不可思議な少女だった。

幼い子供は稀に、大人には見ることの叶わない世界を見ることがあるという。

10歳でありながら、少女はその実年齢よりもずっと幼く見えた。幼子と呼べそうな程のあどけなさがそこにはあった。
おそらくは、育った環境が恵まれ過ぎていたのだろう。その身に幸福だけを宿して生きてきてしまったのだろう。
挫折、絶望、屈辱といった重苦しい感情。疑う、嫌う、憎むといったどす黒い思念。そうした何もかもを知らずに生きてきた少女の世界は、大人のそれとは一線を画し過ぎていた。
あまりにも無垢で、あまりにも神聖な空気を纏っている子だった。だからこそ、そうした世界を当然のように見ることが叶ってしまったのだろう。

汚れの一切を感じさせない存在というのは、おそらくこの世のあらゆる汚れの中に生きる我々にとっては、ある意味で「毒」のようなものであったのかもしれなかった。
また同時にそうした、清さの過ぎる存在に対しても、汚れを知る我々というのは毒の類にしかなり得なかったのだろう。

ギンガ団はそうした汚れに馴染み過ぎていた。彼女は汚れの一切に縁がなさ過ぎた。
そうした二者が出会ったところで、どちらもが互いの毒に当てられ、疲弊していくだけであるように思われた。互いが互いの息を奪い合っているようにさえ見えた。
しかし彼等は不可思議なことに、歩み寄ることを止めなかった。少女は彼等を慕い続けていたし、ギンガ団という組織の誰もが彼女を拒まず迎え入れ続けていた。
男はそうした少女の意図も、ギンガ団が講じようとしている策も、読み解くことができなかった。彼等の心は常に不気味なところを泳ぎ続けているように思えてならなかった。

互いの首を絞め合いながら、果たして彼等は何処へ行こうとしていたのだろう。
男はそれを見届けなければいけなかった。この地の治安を守る国際警察として、そして、少女を止められなかった一人の大人として。

……しかし程なくして、組織の長を欠いたギンガ団は解散し、団員は散り散りになってしまった。
少女は暫くシンオウ地方を忙しなく走り回っていたが、やがてフタバタウンの実家に戻り、静かに暮らしているという。
国際警察である彼は、しかし真実を知っているであろう彼等のところへ足を運び、事情を聞き出すということをしなかった。できなかったのだ。
彼等の秘密に足を踏み入れてしまえば、自分も、彼等の毒に侵されてしまうような気がしたからだ。
彼等の世界には、部外者が息をするための酸素など、もう残されていないように思えたからだ。

<下っ端の場合>
この不完全な世界はもう駄目だ。だから我々は新しい世界を作り、そこで安息を手に入れよう。
ギンガ団とは端的に言えばそういう組織だった。我々はそうした願いの下にアカギ様に従い、働いていた。
難しいことは一団員である我々が知るべきことではないと思っていたから、彼から詳細な説明が施されなくとも特に不安を抱いたりはしなかった。
この組織で懸命に働いていれば、我々には安息が訪れる筈なのだから。完全な素晴らしい世界が、我々を待っている筈なのだから!

そうした盲信に似た、揺るぎない信頼関係でこの組織は成り立っていた。
その「信頼関係」だと信じていたものが、我々の一方的な、酷く滑稽なものでしかなかったのだと、我々はもう少し後に知ることとなった。
それでも心を折ることをしなかったのは、おそらくあの、猛毒とも取れる眩さでギンガ団の全てを照らしていったあの少女の存在があったからに他ならないのだろうけれど。

「アカギさんは何をしようとしているの?どうして皆はアカギさんを止めないの?」

テンガン山で出会った少女は、団員の一人にそう問い詰めた。
縋るようなか弱いソプラノに「すまない」と謝りながら、彼もまた他の幹部たちのように、この少女に全てを託すことを選んだのだ。そうする他に、なかったのだ。

「我々ではあのお方を止められない。バトルの腕が敵わないのも勿論のことだが、我々の言葉などあの人には届かない」

「……」

「けれどお前の言葉にならアカギ様も耳を傾けるかもしれない。情けない話だが、もうお前しか頼れる人がいないんだ……」

実のところ、この少女がこのような訴えを聞いたのはこれが初めてではない。
もう幾人もの下っ端が、おそらくは彼女の前に立ち塞がった全ての団員が、彼女に望みを託し、道を開け、アカギの居場所を示して送り出していたのだ。
そうして大勢の何もかもを抱えながら、少女はこうして立っていた。
しかしそうした、押し潰されてしまいそうな程の重圧に何とか耐えられたのは、彼等の望みと少女自身の望みとが完全に一致していたからに他ならない。

彼に会いたい。彼を止めたい。だってこのままでは皆が悲しいままだから。

他ならぬ少女のそうした思いがあったからこそ、彼女は奇跡を起こすことが叶ったのだろう。
そうした思いがどこまでも真摯で誠実なものであったからこそ、その願いは世界の裏側に住むポケモンの心にさえ届いたのだろう。

けれど彼女はまだ幼かった。そうした全てを背負って歩き続けるには、どうにも彼女の背中は小さすぎたのだ。
だからこそ、彼女は自らが慕ったギンガ団という組織から、一度離れる必要があった。
彼等もまた、自らの無力さ故に何もかもを押し付けすぎたことを解っていたから、重荷の全てを下ろして町へと戻る彼女を許した。

そうして暫く時が経ち、少女に転機が訪れる。塞ぎ込んでいた彼女を再び外の世界へと連れ出したのは、イッシュからやって来た14歳の少女だった。
何もかもを持ちすぎていた彼女は、それでいて少女の何もかもを理解しうる境遇にあった彼女は、
この土地にいる誰しもができなかった「少女を導く」という行為を、当然のように、息をするかのような自然さでやってのけた。
そうして少女の世界は再び広がりを見せる。そして遠からず、彼女の焦がれた組織へと、彼女の慕った男の下へと戻ることになるのだが、それを語るにはまだ、少しばかり早い。

2016.3.19
(小さくて見つけることのできない星)

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