天を読む藍

13 - Cosmos -

ナギサシティの西に位置するリッシ湖、そのほとりは今夜、少しばかり賑やかなことになっていた。

「アカギ様、大変です!見たこともない怪物がこちらに接近しています!」

「空を覆わんとするかのような大きさです!直ぐに避難のご指示を!」

顔面蒼白でそう叫びながら駆けてくる下っ端達に、マーズが笑いながら「落ち着きなさい、あれはヒカリのギラティナよ!」と種明かしをするのと、
その闇色をした怪物の背中から「こんばんは!」と手を振る少女の姿を彼等が認めるのとがほぼ同時であった。
4mは軽く超えているであろうその巨体は、しかし音もなくふわりとリッシ湖に舞い降り、大きく下げたその頭からあまりにも見慣れた少女を湖のほとりに下ろした。
「ありがとう」とお礼の言葉を紡ぎ、少女が紫色のボールにギラティナを戻せば、その巨体が隠していた夜空が再びキラキラと瞬き始めた。

「おいおい、驚かしてくれるなよ。心臓が止まりそうだったぜ」

「あはは、ごめんなさい」

団員たちが少女に駆け寄り、ニット帽の上からその小さな頭をぐりぐりと拳で押し付ける。
しかし彼女は、皆を驚かせてしまった自分に非があると思っているらしく、彼等のその行為を笑って許していた。
彼等の吐き出す息は白く、手袋をしていない少女の手はあまりにも冷たい。
シンオウ地方に訪れた冬は例年の如くやはり厳しい。しかしその暴力的な寒さは、子供っぽい彼等を楽しませるほんの一要素に過ぎないのだろう。
ヒカリもそうした子供っぽい大人たちに倣い、挨拶代わりに冷え切った手を皆の頬に当てるという悪戯を繰り返した。
悲鳴に飛び退く彼等にクスクスと肩を揺らして笑った。誰もがそうした下らない、些末な遣り取りを楽しんでいた。

「お前たち、そうやって遊んでいるのもいいが、そろそろ空へ目を向けたらどうだ。今日はそのために来たのだろう?」

近くにやって来たサターンがそうやって彼等を窘めれば、一人の団員が「そうはいっても、俺にはどの星がなんて名前なのかさっぱりです」と困ったように告げた。
しかしサターンはその返答を予測していたかのように、得意気に肩を竦めてヒカリへと視線を移し、笑った。

「ならばヒカリに教えてもらえばいい。星に関してなら、その子の方がお前たちよりもずっと博識だろうからな」

その言葉に彼等は一斉に少女へと視線を移し、「ヒカリは星座が読めるのか?」「オリオン座ってのは何処にあるのか教えてくれよ」と矢継ぎ早に質問を重ねた。
まさかこの、あまりにも幼い少女に、この空に広がる無数の光を読むことなど不可能だろうと殆どの人間が高を括っていたが、
ヒカリは笑顔で冷え切った指を空へと掲げ、彼等のそうした予測を裏切ってみせたのだ。

「オリオン座はとても大きな星座だから、先ずは真ん中にある三つの明るい星を探すの。一つだけ少しずれているんだけど、ほとんど一直線に結ぶことができるよ」

彼等は驚きながらも一様に夜空を見上げ、「一直線に並ぶ星……?」「あれじゃないかな」「いや、一つは少しずれているって言っていたぞ」と呟き始めた。
そうして寒さに身体を震わせながら、あの星だろうか、この星だろうかと頭を悩ませながら、しかしもう誰一人として、少女の言葉を疑う者はいなかった。
ただそれだけのことを喜ぶように、少女は綻ばせた頬のまま、更に説明を続けた。

「この三つは2等星だから、今度はそこから少し離れた、この三つよりも明るい1等星を二つ見つけてね。
一つはリゲルっていう白い星で、大きいから直ぐに見つかると思うよ。そこから三つの星を挟んで同じ距離だけ向こう側にある、もう一つの赤い星が、えっと……」

「ベテルギウスだ」

言い淀んだ少女の言葉の続きを引き取るように告げた男は、少女の首にそっとマフラーを掛けてから再び口を開いた。

「そのベテルギウスと、シリウス、プロキオンを結んだ三角形を冬の大三角と呼び、全て1等星だ。
更にオリオン座を探したいのであれば、中心に並ぶ三つの星の延長線上にあるベラトリクスとサイフを見つけるといい。どちらも2等星で少し判りづらいかもしれないが……」

そうして夜空を見上げながら解説を続ける彼は、しかしその内容の大半を彼等が聞いていないことに気付いていない。
「アカギ様に星座の読み方を教わっていたのか」「成る程、だからあんなにも詳しかったんだな」
「アカギ様が熱心に宇宙の話を聞かせるところ、私も見たかったなあ」「おい、お前たち、いいからベラトリクスとサイフを探せ」
そうした、楽しそうに交わされる多くの囁きが、夜空の星々に注意を注ぐ男の耳に届くことは在り得なかった。
しかし彼の耳には届かずとも、その傍にいる少女は聞いていた。彼女はそうやって、子供っぽい大人たちが織り成す会話の数々を、彼等が為した何もかもを、見ていたのだ。

彼等はもう、悲しくない。
その確信がどれ程少女を安堵させたか、知る人はおそらく彼女自身を置いて他にいないのだろう。

ギンガ団のメンバーが再びあのビルに集ってから、暫くの時が流れていた。
全ての団員が戻って来たわけではなかった。何もかもを元に戻してしまう必要はなかった。
この組織の外に居場所を見つけ、別の場所で生きていくことを選んだ者を、無理矢理呼び戻す理由などある筈もなかった。
それでも6割を超える数の団員が、サターンの呼び掛けに従ってあのビルへと集っていた。

これから何をすべきなのか、誰にも解らなかった。
仮初めの目的であった新エネルギーの開発に着手してもいいのではという声が上がり、そうした方向で話は進んでいたのだが、
しかし研究に関する知識や技術を持たない者たちは、この組織に不要だと判断され、弾かれてしまうのではないかと恐れていた。
そうした彼等に「誰も切り捨てることなくこの組織を再生させてみせる」と説いて回ったのは他でもない、今も熱心に星の解説をするこの男だった。

勿論、「また以前のように俺達を騙そうとしているのではないか」と考える者がいたことは否定しない。
しかしそうした疑いを掛けた人は、また同時にその男の不自然な姿を度々目にして驚くこととなった。
以前はあまりにも堂々としていて、その射るような目に「殺される」と思ってしまうような威圧の色を宿していた彼が、
情熱的な言葉を淀みなく語り、彼等の心をいとも容易く掴んでいた彼が、しかし今回の言葉に関しては、ひどく不格好であったのだ。

彼の視線は躊躇うように宙を泳いだ。会話の途中で何度も眉をひそめ、溜め息を吐いた。選ぶ言葉はどれも矮小で、頼りなかった。
まるで嫌われることを恐れる子供のようであった。

その不格好な全てが彼の、あまりにもぎこちない「誠意」であるのだと、彼等は長い時間をかけて理解していった。
アカギ様は本当はこのような人であったのだと知り、安堵し、頼りないリーダーとなってしまったこの男を笑って許した。
彼等は男を恐れることを忘れたが、そんな彼を慕うことはやめなかった。

……もっとも、彼がそのように部下の一人一人に心を砕くようになるまでの間には、
彼と、彼を心から慕っていた幹部たちとの、言葉にできない程に熾烈な口論と感情のぶつけ合いがあったのだが、それはおそらく、今この場で語るべきことではないのだろう。
男も、幹部であったサターンたちも、裏で行われていたあまりにも子供っぽい言い争いを彼等に告白するつもりは更々なかったし、
唯一、全てを知っている少女はそうした過去に拘泥しておらず、今の彼等が悲しそうでないのだから、それだけで十分だと思っていた。
故にそうした子供っぽい口論があったことは、男と、心から彼を慕い案じた幹部たち、そしてこの少女だけの秘密だった。
互いに口を封じ合わずとも、皆、そうした暗黙の了解で成り立つ秘密があることをささやかな喜びとしていたのだから、それでよかったのだろう。

下らない、不完全な人間に成り果てた彼は、しかし幸福であることを覚え始めていた。遠回りをし過ぎた彼の心は、ようやく一歩を踏み出した。
その傍らには常に、少女がいた。

「冬の大三角の中に、淡い色の銀河が流れているでしょう?天の川って夏だけじゃなくて、冬にもあるんだよ」

彼女のその言葉に、皆は再び空を見上げた。
町から遠く離れたこの場所から目を凝らし、瞬きを忘れた頃にようやく認めることの叶う程の、淡い銀河であった。
「綺麗な川ね」というマーズの言葉にジュピターが大きく頷いた。サターンが小さく吐いた溜め息は一瞬だけ冬の色を呈した。

「宇宙に行かなくてよかったね。あの銀河はきっと、この悲しくない場所からじゃないと見えないよ」

息を飲んだ男の代わりに、団員たちが声を上げて笑い始めた。
まったくその通りだと、この星から見える宇宙が一番美しいのだと、噛み締めるように次から次へと口にした。
男はもう一度天を仰いだ。言葉は出て来なかった。

彼等を綴るためのエピソードはそれこそ、星の数程にあるのだろう。これらは彼等に渦巻く銀河から読み取ることの叶った一部に過ぎない。
もっと知りたいのであれば、天を仰ぐといい。彼等の物語はきっとそこに在るから。
何度でも、貴方を待っているから。

2016.3.22
(彼等の心を紐解くための言葉)

Thank you for reading their story !

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