11 - He (3) -
少女に宇宙の話を語って聞かせた。男の持っていた図鑑を貸し与えた。
それらが益々、少女に男を慕わせる要素となることを理解していながら、しかし男はもう、少女に対して口を閉ざさなかった。
何かが少しずつ変わり始めているのだと心得ていた。
しかし同時に男の計画は実行段階に進みつつあった。
彼を慕う誰もかもを裏切り、何もかもを無に帰して新たな世界を造ることに尽力していた彼を、誰も止めようがなかったのだ。
それを止められるとすれば、それは男の自制心の他にはなかったのだろう。事実、彼は悩んでいた。迷っていた。
彼は心を殺した平穏な世界に固執し続けていた。あまりにも長い時間そうであったため、そのやわらかな時間はそのまま彼を縛る鎖となった。
故に彼にとって少女が示し続けたあらゆる感情を肯定し、受け入れることは、今まで縛り続けてきた鎖を、自ら断ち切ることに他ならなかったのだ。
そうした「変化」は男にとってひどく恐れるべきものであった。しかしそれは当然のことだったのではないだろうか?
何故ならその鎖が彼に与えた不自由によってこそ、彼は自由であることができていたからである。
その鎖を断ち切ることは、彼が長い時間をかけて積み上げてきた何もかもを「なかったことにする」という、あまりにも愚かな行為であるように思えたからである。
「私は、そうは思わないよ」
「……」
「だって世界はずっと変わっているんだもの。冬の星が夏には見つからないのと同じように、世界は同じところではいられないでしょう?
アカギさんがこれまで頑張ってきたことを、どんな風にこれからに生かしていけるかなって考えることは、悪いことなんかじゃないよ」
その鎖を断ち切り心を自由に揺らすことが叶うなら、そうすることが許されるなら、そうしてもいいのではないかと悪魔は囁く。
しかし男は臆病であった。これまでの何もかもを捨て置くことは途方もない勇気を必要としたのだ。
彼は長い時間、心を閉ざし過ぎた。開くことを忘れた扉は錆び付き、再び男の手で開くには途方もない力が必要であった。
少しずつ、少しずつ開かなければ力尽きてしまいそうであった。
それは気の遠くなるような作業であったが、しかし隙間の出来てしまった扉に再び手を掛けて閉め戻すこともできなかったのだ。
一度に全てを開くだけの力はなかった。外の風に当たるだけの勇気を男は有さなかった。
かといって再び閉ざすことはできなかった。拒むには、彼が迂闊にも触れてしまった少女の毒はあまりにも眩しく、優しすぎたのだ。
決められなかった。それ故に彼は自らの行く末を、運命に委ねることにした。
彼女を待とう、と思った。
男のしようとしていることを、遅からず少女は止めに来るだろう。彼はそう確信していた。
彼女は「皆が悲しくならないように」動くだろうと、そのためなら誰よりも慕うこの男にさえ歯向かうだろうと、推測することは驚く程に容易いことだった。
それがあの幼い心が決死の思いで導き出した、他ならぬ彼女自身の信念なのだと心得ていた。
ならばその心に触れてしまった身である自分は、容赦なくその力に立ち向かえばいい。全力をもって彼女を負かそうと努めればいい。
逆に敗れてしまったのなら、自分という存在はその程度だったのだ。このような幼子に敵わぬ程の些末で下らない存在だったのだ。
そのような存在が、新しい世界を統べようなどと、実に馬鹿げたことだ。ならばその後でどうなってしまおうと、知ったことではない。
たった一人の心を切り捨てることの叶わなかった自分が、今更、誰もに見限られ切り捨てられようと、構わない。
「さあ、見ていたまえ。今から全ての心が消えるのだ。君から、君のポケモンから、君の大事な人たちから……!」
泣きそうに顔を歪めた少女の藍色には、いつかと同じような顔をした男が映っていた。
*
彼等の決戦の地は、影のポケモンが支配する異世界であった。
重力の弱まった不可思議な空間を、少女はふわふわと飛び回りながら、何度も男の名前を呼び、その後を追い掛けた。
そうしてようやく駆け寄ることの叶う距離に歩み寄り、しかし彼女が掲げたのは彼を説得するための言葉ではなく、力任せに抑え込むための力を宿したモンスターボールだった。
男は確かに、安堵していた。自らもボールを宙に投げながら、そのまま私を憎んでしまえばいいと、本気でそう思っていた。
このような強情で臆病な人間など、見限ってしまえばいい。いや、君はもっと早くそうすべきだったのだ。
君が持つ下らない感情は、君の持つべき冷静な判断さえも鈍らせてしまったらしい。心というのはそうしたものだ。君を愚かにするための毒だ。
それでも君がそうした毒に縋ったまま生き続けたいというのなら、その意思を示しなさい。
そうして、異世界でのバトルは幕を開けた。しかし不思議なことが起こった。少女の繰り出すポケモンが、男のそれを次々と戦闘不能に追い込み始めたのだ。
その現象自体はさして疑問に思うところではない。
この少女が既にジムバッジを7つ手に入れていることを男は知っていたし、何より彼女は必死であったからだ。
彼女の心に応えるべく、彼女のように同じく心や信頼といったものを盲信している彼女のポケモン達が力を振り絞ったとして、
その力が男のポケモンを圧倒したとして、……それはしかし、当然のことだったのだろう。
驚くべきは彼女の力ではなく、男の方にあった。
彼はこの戦いで、世界に見限られるべきが自分であるのか少女であるのかを見定めるつもりだった。
彼女が負けてしまうのであれば、所詮はその程度の存在であったのだと、自分が負けたとしても同じようにその程度だったのだと、
そう認めるだけの倒錯的で破滅的な覚悟なら既に出来ていた。出来ていると信じていた。
しかし驚くべきことに、彼は自らのポケモンに最善の指示を出すことができなかった。彼は意図的に、手を抜くことを選んでしまった。
自分は彼女を異世界に置き捨てるだけの覚悟など最初から持ち合わせていなかったのだと、そう認めた瞬間、男は自らの負けを確信した。
そして、思った。
この少女を無事に元の世界へと返さなければいけない。この異世界に少女を飲ませてはいけない、と。
皮肉なことに、少女を捨てるために殺し続けてきた感情が、少女を守る理由となってしまった。
彼女を無事に元の世界に戻すため、そして彼女が男を忘れるために、男は今一度、心を殺す必要があったのだ。
最後のポケモンをボールに戻した男は、憎悪と軽蔑の念を視線に込めて少女を睨みつけた。
そんなにこの世界が大事かとまくし立てた。不完全で曖昧な心とやらを守る理由は何だと問い詰めた。
少女は答えなかった。答えさせる暇を与えず、男は暴言を吐き続けた。己に吐いた嘘は男の呼吸を酷く楽なものにした。
いよいよ泣き出した少女に男は懇願した。
君が私に向け続けた、無様で愚かであまりにも温かな感情の全てを、拒めなくなるための時間が欲しい。
すぐにその小さな手を取れない私を、許してほしい。見損なったと見限るのであれば、私を憎むのであれば、しかし、それはそれでいい。
私は君に敗れた者として、君の心が運ぶ想いの全てを受け入れよう。
背を向けてこの歪な影の世界から出ていく少女を見送ってから、男は踵を返して歩き始めた。
あまりにも遠回りをし過ぎたのだと、人の心を封じ込めることなどできる筈がなかったのだと、そのような世界は誰もを「悲しく」させるだけだったのだと、
そう認めるための時間が男には必要だった。己の敗北を噛み締めるための猶予を得なければならなかった。
そのための舞台は必ずしもこの歪な世界でなくともよかったから、男は暫くして、彼女の守った元の世界へと戻って来た。
何処で歯車が狂ったのかと問われれば、間違いなくあの、月の少し欠けた夜の邂逅が全ての始まりだったのだろう。
あまりにも無力な少女に手を伸べてしまった、あれが全ての始まりだったのだろう。
しかし何が間違っていたのかと問われれば、どうにも上手く答えることができないのだ。
確かに少女と出会ったことで、静かに順調に回っていた男の歯車は大きく狂った。彼は望んだ全てを手に入れることができなかった。
けれどそれは本当に「間違い」だったのだろうか。彼が望んでいたものは、本当に彼が手に入れるべきものだったのだろうか。
彼はそれを手に入れれば「悲しく」なくなることができたのだろうか。
彼女は本当に猛毒だったのだろうか。
彼女と重ねた時間の中で生じた強烈な痛みの数々は、しかし人と人が心を通わせ合うにあたり、当然の感覚なのではなかったか。
そんな当然のことを、男は長く忘れていたのではなかったか。
『何処にも行けない、などということは在り得ない。』
始まりの言葉が男の脳裏を掠めた。
あまりにも長く動きを忘れていた心臓が立て始めた音は、少女の駆ける足音にも似ていた。
暫くしてその足音を、男は故郷の浜辺で聞くこととなる。
2016.3.22
(宇宙の色)