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歩けるか、と尋ねれば、もうちょっとだけ待って、と返ってきた。苦しくなくなったか、と問えば、まだ少し、と正直な言葉が零れた。
苦しくなくても離してやらねえがな、と吐き捨てるようにそう告げれば、いよいよ彼女は楽しくなってきたのか、寒さにではなくおかしさに肩を震わせ始めた。

……そう、彼女にとっては「笑い事」であったのかもしれない。けれどグズマにとっては全く笑い事ではなかったのだ。
この手を離してなるものか、という彼の誓いは、そんな軽い笑いで片付けられるようなものでは決してなかった。
この少女にはそこのところがまるで解っていない。二人の間には「この手を離さない」という事象に対する、決定的な認識の齟齬が生じている。
そしてグズマは、彼女に対して理解を乞い、その認識の足並みを揃えるために「言葉を尽くす」ことをもう、躊躇わない。

「だってよ、お前、いつだって手を握らせてくれなかったじゃねえか」
「オレに「しびれごな」を浴びせて勝手に一人で出て行きやがった。オレが見つけた時には既にお前は氷の中だった。あのふざけた世界でも、オレはお前に駆け寄れなかった」
「手を、掴み損ねてばかりだったんだ。お前が逃げるからだ。オレに力がなかったからだ」
「今度こそ、お前の手を掴んでやるって、そういう思いで此処まで来たんだ。ガラじゃねえけど、祈っていたんだ」
「やっと、やっと叶ったんだぜ?そう簡単に離してやれるかよ。お前の骨が折れるまで、握ってやらあ」

クスクスと震えていたソプラノの声音がぴたり、と止む。
彼女は顔を上げて、グズマの飾らない真っ直ぐな言葉を聞いている。目をいっぱいに見開いて、彼の言葉をその煤色の中に焼き付けている。

「きっと、オレもお前も、ぶっ壊れる必要なんざなかったんだ。遠回りをし過ぎたんだ」
「でもお前は、ぶっ壊れなくたってよかったんだ。大勢に愛されて、立派な場所にいられて、誰よりも強くて、……そんなお前は、オレみたいにならなくたって生きていかれたんだ」
「アローラの連中は、お前が皆に「大好き」を振り撒いたからお前を好きになったんじゃねえ。お前が懸命に生きていたから、惹かれたんだ」
「媚びなんざ売らなくたって、よかったんだ。「大好き」にならなくたって、よかったんだ。お前はただ、お前のしたいように必死に、夢中で生きていりゃよかったんだ」

あやすように背を撫でた。祈るように抱き締めた。寝かしつけるように責めて、許すように諭した。
彼女の息はもうすっかり整っていて、この世界に在ることの当然を完全に思い出しているようであった。
そうなるまでの時間稼ぎであったのかもしれない。そう思わなければ、このような「らしくない」ことなど、やっていられなかった。

「お前はそんなことも分からねえ程の、大馬鹿者だったんだよ、ミヅキ

「……」

「お揃い、だな」

けれど、らしくなくとも伝えなければならないことがあるのだと、彼は他の誰でもない、この少女に教わった。
そうした想いを手にすることは弱さではなく、強さなのだと、グズマはこの少女を想うことで、教わった。

「……グズマさんは、寂しかったの?」

そして、そうした強さをもうずっと前から備えていたこの少女は、躊躇うことなく純を極めた言葉を紡ぐ。
縋るようにグズマを見上げる、その煤色の目にはもう「大好き」の色がない。
笑顔と博愛という、分厚過ぎる装甲を外した彼女の、本当の目の色は、どこまでも頼りなく、覚束ないものであった。吹けば飛んでいってしまいそうな、儚い色であった。
けれどきっと、それくらいが丁度良かったのだ。

「ああ、そうだ。寂しかった」

この少女が想われるには、きっとそれくらいの弱さで然るべきだ。
子供というのはこれくらい、弱く在るべきだ。

「お前が一人で眠りに行ったことが、あんな場所に閉じこもっちまったことが、どうしようもなく、寂しかった」

彼の最愛が、こんなにも弱く脆いのだ。いつものようにいきがることを忘れてしまったところで、誰も彼を責められまい。
そして唯一、彼を責める権利を有している筈の少女が、いよいよ至福を極めたように微笑んで、その小さな頭を彼の胸に預けているのだから、もう、どうなる筈もない。

長く、本当に長くそうしていたため、少女の手はすっかり温かくなってしまっていた。
よろける細い足で立ち上がり、「宇宙旅行から帰ってきたみたい」などと楽しそうに紡いで困ったように笑った。
この小さな身体を抱き上げることなどグズマには造作もないことであったが、彼女が自ら一歩を踏み出したので、したいようにさせてみることにした。
グズマはこの少女のことが大嫌いであったのだから、彼女がみっともなく転ぼうが、冷たい床に顔をぶつけようが、知ったことではなかったのだ。

けれどいざ、目の前で転ばれてしまうとどうしようもなく、グズマはさっと手を伸べて少女を受け止めることとなってしまった。
焦ったように眉を下げる少女の顔を覗き込み、からかうように笑って「抱き上げてやろうか?」と尋ねれば、
けれど意外なことに少女はふるふると首を振り、頼りない足で再び床を蹴ろうとするのだった。

「おい、無理すんなよ。ガタがきちまっても知らねえぞ」

いよいよ心配になってそう尋ねれば、少女は「大丈夫」と、かつての彼女を思い出させるような声音できっぱりと告げた。
きっとこれは、グズマの本来の気質が臆病な形をしているのと同じように、彼女の、そう簡単には変わり得ない本来の性分なのだろう。
厄介なことだなあと思っていたが、彼女は顔を上げて「私、ちゃんと生きるんだよ」と、不思議な言葉を紡いでみせる。
怪訝そうに眉をひそめたグズマの腕をそっと振り払って、彼女は険しい顔のままに続ける。

「幸せじゃなくても、笑えなくても、排斥されても、輝けなくても、どう生きればいいか分からなくなったとしても、生きるの」

まるでずっと前から用意していた言葉であるかのように、特徴的な抑揚で歌うように紡がれたその言葉は、きっと彼女の「誓い」であり、「祈り」だったのだろう。
彼女の「祈り」はこれまでずっと、あの笑顔であり、博愛であった。
笑いながら、「大好き」と繰り返しながら、彼女はいつだって祈っていたのだ。彼女自身の価値を、幸福を、探し求めていたのだ。
けれどそんな彼女が今、笑いもせず、グズマの手を振り払いさえして「生きる」と告げている。そうまでして紡がれたその言葉は、きっと彼女の宣誓であったのだろう。

新しい誓いの歌は、これまでグズマが聞いてきたどんな誓いの文句よりも眩しく、どんな祈りの言葉よりもずっと懸命で、美しかった。
その瞬間、グズマの目にはこの少女が宝石に見えていたのだ。

……けれど誓いの歌を奏でたところで、彼女の足がにわかに丈夫になってくれる筈もなく、階段を下りるところでまたしても足をよろめかせ、彼女は前のめりに倒れた。
グズマはさっと青ざめたが、心配には及ばなかった。キテルグマがどすんと階段を二段飛ばしで駆け上がり、少女をしっかりと抱き留めていたからだ。
そのキテルグマが誰のポケモンであるのか、グズマにはすぐに察することができる。少女はまだピンときていないらしく、キテルグマのつぶらな瞳を見上げて、首を傾げている。

ミヅキ!」と、少女よりも更に甲高い声音が彼女の名前を呼ぶ。
階段を駆け上がってきたアセロラが、少女の胸にぽんと飛び込む。自分よりも背の高い彼女を、まるで我が子を労るようにそっと抱き締め、頬を擦り寄せてふにゃ、と笑う。
おかえり、おかえりと、拙くも切実な歓迎の言葉が、アセロラの小さな口からぽろぽろと雨のように降り注ぐ。
呆気に取られていた少女の頭を、同じく階段を上ってきたカヒリがそっと撫でる。

「……おい、アンタ達、まさかずっと此処で聞いていやがったのか?」

「それは誤解ですぞグズマ。お前の帰りがあまりに遅いので、ついさっき全員で示し合わせ、此処に来たのだ」

本当だろうな、と階下に佇むハラを睨み下ろせば、彼は煙に巻くように豪快に笑った。
わざとらしく大きな溜め息を吐きながら、けれどグズマはその実、そこまでうんざりしてはいなかった。
大人というのは子供のあずかり知らぬところで、そうやって心を砕いてしまうものなのだと、もうグズマは心得てしまっていたからだ。

アセロラに手を引かれ、カヒリに支えられながら階段を下りきった彼女の青白い頬を、ライチは音など聞こえないくらいの僅かな力で弱々しく、叩く。
困ったように笑いながら「ごめんなさい」と紡ぐ彼女を、壊れてしまうのではないかと思う程の強い力で抱き締めて、その黒い髪に顔を埋める。
いよいよ困り果てた表情でハラを見上げれば、彼はそんな少女の困惑をいつもの豪快な笑みで許している。

「ねえ、続きはラナキラマウンテンのポケモンセンターでしようよ!」

「そうですね、行きましょう。グズマさんがあのカフェの常連になってくれたおかげで、山を下りなくてもエネココアが飲めるようになったことですし」

余計なこと言いやがって、とグズマは悪態づこうとしたが、それより先にカヒリがそっとグズマの背後に回り込み、少女の方へと背中を押した。
まだ歩くこともままならない彼女を、支えてやれ、ということであるらしい。面倒だ、という空気を前面に押し出しながら、グズマは少女の肩に手を置いた。
11歳の肩はグズマが想定していたよりもずっと華奢であった。子供の歩幅はその強さとひたむきさに反していよいよ小さかった。

元気に駆け出したアセロラは、くるりと振り返って「早く」と急かした。ライチもハラも笑いながら、大きな歩幅でその後に続いた。
心配そうに振り返るカヒリに、少女は「大丈夫」と笑いかけ、けれど彼女が背を向けた途端、険しい顔になって必死に足を動かした。グズマはそんな彼女の傍にいた。彼女を見ていた。

「かっこいいじゃねえか」

そう告げて肩を抱く力を強くすれば、少女は目を丸くしてグズマを見上げる。
程なくしてポケモンリーグに響き渡った二人分の笑い声は、きっとこの雪山を下りた向こうの、あの黒い砂浜にも届いている。


2017.2.6

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