64

顔を上げた。

その手足はグズマの記憶にあるよりもずっと細く、その目の色は彼の思い出よりもずっと深く、
その歩みはかつてよりもずっと覚束なくて、その表情は相変わらず、ずっと幼く拙いままであった。

つい2秒前まで、彼はこの空間に、絶望の心地と共にその気概の全てを撒き捨てていた。何もかもを手放して、ただ無力なままに祈っていたのだ。
けれど彼はその、前に進むための気概と手を伸べるための勇気を、この瞬間、一気に掻き集めて喉の奥へと流し込んだ。かっと燃えるように沸いた衝動のままに、目を見開いた。

ピンと右足を立てて、宝石のように煌めく床を思いきり蹴った。これまでのどんな疾走よりも速く、これまでのどんな歩幅よりも大きく、駆けた。
……いや、それはグズマの主観に過ぎない。本当は彼の歩みだって、少女の足音と同じくらい覚束なく、頼りないものであったのだ。
けれど彼は必死であった。懸命であった。それが全てであったのだから、実際の速度など、彼にも少女にもきっと問題ではなかったのだ。

左手で細い腕を掴んだ。針金のようだ、と思ってしまう程に彼女は痩せ細っていた。
彼はその腕をぐいと引き込み、正面に迫った少女の幼く拙いその顔を、右手で思い切り殴り飛ばすつもりであった。
その拳には、ハウの、グラジオの、ククイの、プルメリの、ザオボーの、キャプテンや島キング達の、祈りが、願いが、後悔が、込められている筈であった。
……彼はそうした、どこまでも重く切実な拳を振るうために此処まで来たのだ。ずっと、そのつもりだったのだ。
グズマは己の拳をもってして、彼女にその全ての祈りを、願いを、後悔を、届けることだけをずっと、ずっと考えていたのであって、そうすることしか考えていなかったのであって、

こんな風に、少女の背中に手を回して抱き締めてしまうことなど、全く想定していなかったのであって。

「へへ、やっとだ。やっと掴めた」

「……」

「お前の手、小さいな」

彼女の手は氷のように冷たかった。少しでも傷付く言葉を投げれば、この脆く繊細な少女は壊れてしまいそうであった。
彼女は笑っていない。彼女は笑顔という装甲をもう纏わない。彼女が息をするために不可欠であった筈の装甲を、きっと彼女はあの黒雲の向こうに置き忘れてしまったのだろう。
分厚い装甲を纏わない彼女は、脆く繊細な心の奥底をむき出しにしたまま、あの黒雲から出て来てしまった彼女は、どうしようもなく小さかった。頼りなかったのだ。
そんな彼女を殴ることなど、できる筈がなかった。

「なあ、向こうは息苦しくなかったか?ずっとあんなところにいて、寂しくなかったか?今もカントーに帰りたいか?アローラは、お前の居場所になれねえか?」

彼女の腕を掴んでいた腕をそっと離し、そのまま彼女の手をそっと握り込んだ。
すっぽりと包めてしまえる程に彼女の手は小さく、正しく11歳の幼い形をしていたのだ。彼女は真に子供であった。子供であることを許される年齢であった。
そんな彼女のこれまでの奇行を、彼女が息をするために必要であった数々の愚行を、一体、どうして責められよう?
彼女はもう十分に走った。走り過ぎた。咎められるべき怠惰も、悪行も、傲慢も、今この瞬間の彼女には存在しなかった。彼女は歪なまでに謙虚で、盲目だった。

グズマに許せないことがあるとすれば、「会えなかった」という、ただその一点のみであったのだ。

「……オレのことを覚えているか?こんな奴のこと、忘れちまったか?もう、お揃いだとは言ってくれねえのか?」

ひゅう、と、まるで宇宙に放り出された子供のように、少女は歪な呼吸をしていた。
息を飲む音、吸い込む音、止める音さえもグズマの耳元で聞こえた。彼女がいる。彼女が、此処にいる。

「覚えているよ」

その声は正しく、グズマの記憶の中の彼女と同じ高さで、同じ響きで、同じ温度で発せられた。
小さな、本当に小さな言葉であった。けれど彼女を抱き締めているグズマには聞こえていた。彼が、彼だけがその音を拾い上げていた。
思わずぱっと顔を上げて彼女の目を覗き込んだ。子供を極めた少女の目はやはり大きく、その煤色はぱちぱちとぎこちない瞬きを繰り返していた。
その目が閉じて、開いて、それでもそこにグズマの姿は映っていた。彼はいよいよこの少女の目の前に在るのだと、その煤色に映る自分の姿でグズマは改めて、思い知る。

「氷の中で眠った時、貴方のことだけが心配だったよ。貴方とのお揃いを、忘れたことなんかなかったよ。大好きになろうとしなくても、大好きだったよ」

ミヅキ、」

「忘れていないよ、グズマさん」

小さな口がグズマの名前を呼ぶ。この少女は彼のことを、覚えている。
心臓を焼き焦がさんとするかのような強烈な温度で、安堵と歓喜が渦を巻き始めていた。彼は「そうかよ」と相槌を打つことさえできなかった。
次に口を開いてしまえば、言葉の代わりにひどくみっともないものが零れ出てしまいそうな気がしたからである。

けれどそうした感情の渦に身を委ねてばかりもいられなくなった。腕の中の少女が、凍えを訴えるように震え始めたからだ。
最初は、いよいよ泣き出したのかと思ったのだ。この少女でも、感極まって泣き出すなどという殊勝なことをするのかと、グズマは驚く準備さえしていたのだ。
けれど、その震えは彼女の感極まった心によるものではないことに、彼は少し遅れて気付き始めていた。
震えを呈する彼女の顔色が、氷のように青ざめていたからである。

「おいどうした。……寒いのか?」

少女はこくこくと頷いて、縋るようにグズマを見上げる。
「笑っていない」という他には、少し痩せているだけの、いつもの彼女であった筈なのだが、
その「笑顔」というたった一要素を失っただけで、この少女はこんなにも脆く、頼りなく見えてしまうものなのかと、ただそれだけのことにグズマは驚き、狼狽えた。

吹雪の降りしきるラナキラマウンテンの、山頂に位置するこの場所が寒くない筈はなかったのだが、
それでもグズマは先程のバトルに必死になっていたため、此処がどれだけ寒いところであるのかを正しく認識することができずにいたのだ。
……確かに、あの空気の凪ぎ過ぎた場所から出てきた少女にとって、この寒さは堪えるものであったのかもしれない。
けれど己の身一つでポケモンリーグへと足を運んでいたグズマが、防寒具の類を持っている筈もなく、彼は舌打ちをすることさえ忘れて、もう一度、少女を強く抱き込むに至った。

少女の身体は、氷のように、宝石のように冷たかった。少しでも触れ方を間違えれば、彼女は溶けてしまいそうだった。

「本当にどうしちまったんだ。相変わらずぶっ壊れていやがるなあ」

あやすように背中へと手を回せば、彼女も同じようにグズマの背中に手を伸べた。
そのままぎゅっとしがみ付いて「苦しい」と零すものだから、グズマは強くやり過ぎたかと不安になり、慌てて距離を取ろうとしたのだが、
抱き締めていた腕の力を緩めようとする気配を感じ取ったのだろう、彼女ははっと息を飲み、「離さないで!」と叫ぶように祈った。
驚きつつも、グズマは息をするように彼女の祈りを叶える。少女は安心したように、細く長く息を吐く。

「なんだよ、苦しいんじゃねえのか?」

「……そうだけど、よく分からない。吸い込む息は冷たくて氷みたいなのに、喉の辺りは熱くて、火傷をしたみたいにヒリヒリする。
空気が痛い。風が煩い。体が重い。胸が潰れそう」

……グズマにとっては嵐のように過ぎ去った2か月であった。生身の人間の然るべき流れを置き去りにするかのような、激しく慌ただしい月日だった。
しかしずっとあの世界にいた少女にしてみれば、この2か月はあまりにも穏やかに、静かに、何の動きもなく手の中から零れ落ちるような、そうした、虚しい時間だったのだろう。

彼女はあの、恐ろしい程に美しい世界に溶けすぎて、あちらの重く薄い空気と凪ぎ過ぎた空気に慣れ過ぎて、
こちらでの軽く濃い空気と強い潮風を、グズマにとっては当然のものである呼吸を、上手く受け入れることができずにいるのかもしれなかった。
だからこそ、空気を「痛い」と称し、風を「煩い」と訴え、正常な重力を「重い」とし、その大きすぎる変化に「胸が潰れそう」になっているのかもしれなかった。
彼女にとって、あの住み慣れてしまった宝石の世界を飛び出すことは、彼女の心だけでなく、彼女の身体にとっても、きっとあまり歓迎すべきことではなかったのだろう。

けれど、それでも少女は戻ってきた。痛い空気の揺蕩える場所へ、煩い風の吹く場所へと戻ってきた。
そして此処には、そうした少女の孤独な帰還を、虚しいものとしないための存在がちゃんとある。グズマはそのために、此処にいる。彼女が迷わないために、彼がいる。

「焦るなよ、ゆっくりでいいから深く息をしろ。ゆっくりでいい、慌てなくていい。もう誰もお前を置いて行かねえから、もう、一人になんかなりっこねえから」

その細い喉から吐き出される息が震えなくなるまで、小さな手に彼の温度が分け与えられるまで、彼はずっとそうしていた。
彼女の呼吸が落ち着きを取り戻してからも、手は握られたまま離されなかった。
今度こそこの手を掴むのだと、二度と離してやるものかと、彼はずっと、ずっと誓っていたのだから、当然のことだった。

やがて少女の方から顔を上げて、ぽつりと「お腹空いた」などと零すものだから、グズマはいよいよおかしくなって、声を上げて笑ってしまった。
ああまったく、生き物というのはどうしてこんなにもみっともないのだろう?どうして命というものは、その心に反してどこまでも真摯に懸命に生きようとするのだろう?

「仕方ねえなあ、じゃあそこのポケモンセンターでエネココアを奢ってやるよ。……そうだ、今ならマラサダも付けてやるぜ」

すると少女は久しい笑顔を湛えて、奇跡のような言葉を紡ぐ。
パリン、と氷の割れる音を、アローラの潮風が運んでくる。その音が何を示しているのかを、きっとグズマだけが知っている。

「それは、嫌」

黒雲は暫くその口をぽっかりと開けたまま、主人の帰還を待っていたが、やがて少女が本当に帰るべき場所の在り処を悟ったのだろう、潮風に押し負けたかのように、消えた。


2017.2.6

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