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海の向こうで母と暮らす少女は、あの子供が「こうなっている」ことを知らないらしい。
リーリエを傷付けてくれるな、という彼の言葉は、不用意に真実を告げて彼女を悲しませるな、ということを暗に示していたのかもしれなかった。

けれどグズマは、ククイのその言葉に従うつもりなど毛頭なかった。
ククイにとってはリーリエの方が大切だが、グズマにとってはそうではなかった。ただそれだけの単純な理由が、グズマに、その懇願を裏切らせるに至っていた。
そして、グズマが彼の懇願に従わないことなど、きっとククイとて心得ている。裏切られると解っていて、それでも口に出さずにはいられなかったのだ。
人の想いとは、人の言葉とはそうしたものだと解っていたから、グズマは「馬鹿げていやがる」とククイを嗤うことができなかった。
確かなことだけを口にできる程、人という生き物は賢くない。人は静かに生きることなどできない。

乗船場で船のチケットを購入し、ロビーの椅子へと乱暴に座った。目を閉じて、「クチバシティ行き」のアナウンスが流れるのを待つ。
近くを小さな子供が通り過ぎたのだろう。パタパタという忙しない靴音と、優しい風の香りがした。アローラには馴染まない、何処かの土地から運ばれてきた香りだった。
そういえばあの子供は何処から来たのだろう。あの子供が好きだと告げた聞き慣れない食べ物は、一体何処に行けば手に入るのだろう。

「クチバシティ行きの船が到着しました」との声を聞き、グズマは重たげに目を開いて立ち上がる。電光掲示板には確かに「カントー地方」の文字がある。
大きな歩幅でロビーを闊歩し、船へと続く廊下を歩く。頬に吹き付ける潮風は相変わらず生温い。日差しは変わらず暑い。
これから彼は、そうしたアローラでの「常識」の通用しない場所へ赴く。彼にはまだその覚悟がない。
カントー地方について殆ど知らない彼は、あちらの潮風の冷たさを知らない。あちらとこちらに大きな違いがあることさえ分かっていないのだから、覚悟のしようがない。
彼はそうした準備を悉く欠いていた。そういう意味でもまた、彼と「彼女」はとてもよく似ていたのだ。

それでも、そうした覚悟ができておらずとも彼は不安だった。
船の最後尾に座り、色だけは等しく青色をしているその海が、アローラのものから徐々にカントーのものへと変わっていくのを眺めながら、
そうしてじっくりと心を落ち着けようと努めながら、それでもやはり不安を消し去ることはできなかった。
見知らぬ土地へと赴くことへの不安ではなく、真に一人の状態で歩みを進めることへの不安こそが、彼の呼吸を躊躇わせていた。
スカル団という後ろ盾を失った彼は、自らの小ささを知り始めていた。それはとても正常なことであったけれど、彼にとっては異常なことだった。仕方のないことだったのだ。

『でも、それでもいいじゃないか。何もできなくても、どうしようもなくとも、あたいらは集まっているだけでよかったじゃないか。』
一人が息苦しいならもう一度集まればいい。プルメリのそうした趣旨の言葉を思い出しては溜め息を吐く。
集まること、一人でなくなること、ただそれだけのことが多くの人を救ったのだとプルメリは言う。グズマは彼女の主張を否定することができない。間違ってはいない。

けれど、集まるだけでは救われない存在も確かにあったのだ。一人でなかった筈の存在は、けれどその救いを受け取らなかった。あいつは笑って、拒んだのだ。
今からグズマが相手にしようとしているのは、そうした、悉く捻くれた歪な存在なのだ。グズマにはそのことが解っている。プルメリは解っていない。
けれど「お前は何も解っていない!」と怒鳴り、言葉を尽くして理解を乞える程、彼は大人ではなかった。
自らの考えていることを音の形にして示すには、彼はやはりまだ幼かった。何かが致命的に欠けていたのだ。
おそらくその欠けた何かには「勇気」という名前が付いていたに違いない。

言葉を尽くす勇気、できないことはできないと言う勇気、助けを求める勇気、手を伸べる勇気。

「あっ、」

グズマは思わず声を落とした。アローラの島が見えなくなっていたからだ。

グズマがアローラの島を見失って数時間後、船は無事、クチバシティへと到着した。
忙しなく動く人の波になんとか乗りながら乗船場の外へと出ていく。肌を刺す風は涼しく、気温の低い海から潮風の気配を拾い上げることは困難であった。
カントーの海はアローラのように眩しくない。カントーの海はアローラのように強い海の香りを運ばない。アローラにあるべき全てが此処にはない。

海を一つ越えただけで、こんなにも違うものなのか。
グズマは思わず視線を海へと移した。アスファルトに打ち付けてぱしゃりと波立つ白いそこに、あの甘い揚げ菓子が揺蕩っているような気がしたのだ。

「こんにちは!」

彼が憂愁に浸ろうとしていたその時、その大きな背中に甲高い挨拶の声音が飛んできた。
慌てて振り返れば、16歳か17歳くらいの少女が真っ直ぐにグズマを見上げていた。
癖のある長い髪の毛は、耳の下で2つに束ねられていた。大きく見開かれた茶色い目は、太陽の光を受けて琥珀のように煌めいていた。
おう、と怪訝そうに返事をすれば、彼女はニコニコと子供っぽい笑みを浮かべながら彼の隣に立つ。
グズマはその少女ではなく、船着き場を緩慢に見渡す。あの金髪の少女はまだ、現れない。

「お兄さん、観光でいらしたんですか?」

「いや、人に会いに来たんだ。用が済んだらすぐ帰る」

「あれ、そっか……。お忙しい人なんですね」

彼が会うべきはこの少女ではなかった。彼はこの少女と世間話をするために、クチバシティの船着き場へと足を下ろしたのでは決してなかった。
故に彼がこの少女を気に留める必要などまるでなかった筈なのだが、彼女の口から飛び出した思わぬ言葉に、彼は視線を隣へ落とすこととなってしまう。

「今度は是非、ゆっくりしていってくださいね。カントーやジョウトには美味しいお菓子が沢山あるんですよ。
此処からは少し遠いですが、タマムシシティで食べられる黒蜜プリンが絶品なんです!」

「お、おい待て、黒蜜と言ったか?」

思わぬところに食いつかれてしまったことへの驚きなのか、少女の丸い目が益々大きく見開かれた。
けれど自らの話に興味を持ってくれるというのは、やはりアローラの人間であってもカントーの人間であっても等しく喜ばしいことであるらしく、
彼女はぱっと弾けるように笑い、「お兄さん、黒蜜が好きなんですか?」と嬉しそうに訪ねてくる。
天真爛漫という形容が似合う、笑顔を絶やさない少女だった。それでいて真っ直ぐに人の目を見ることのできる度胸をも持ち合わせていた。
少し「彼女」に似ている気がした。

「いや、好きだとかそういうこと以前に、オレは黒蜜がどんなもんなのか知らねえんだ」

「わあ、随分と遠いところからいらしたんですね!でも折角だから味わってもらいたいなあ……」

そうだ、と高らかに両手を合わせて目を細めた彼女は、鞄の中に手を差し入れてガサゴソと掻き回し、奥の方から小さな瓶を取り出した。
プレゼントです、とグズマの手に握らせる、その満面の笑みには欠片の悪意も見当たらず、
グズマは彼女の勢いに半ば押される形で、「どうも」と告げつつその瓶を受け取ることとなってしまった。
けれど中に入っていたのは「黒蜜」の名にふさわしい黒い液体などではなく、茶色く無骨な、石のようなものだった。
グズマにはそれがとても黒蜜であるとは思えず、なんだこりゃ、と眉をひそめながら声に出せば、おかしさに耐えかねたように少女は声を上げて笑い始めた。
そんな笑い方さえも「似ている」と思ってしまう程に、今のグズマは「彼女」のことを考えていた。考えすぎていた。

ミヅキ、お前は此処に住んでいたのか?

「これは黒蜜の材料になるお砂糖です。少し砕いて、水と一緒にお鍋の中に入れてから、弱火で10分くらい煮てください。黒曜石みたいにキラキラしてきますから」

「へえ、そんな簡単にできるんだなあ。……これはそのままじゃ食えねえのか?」

「勿論、食べられますよ。ほんの少しほろ苦いので、大人の方でも楽しめると思います。
でも私はトロトロの黒蜜にして、プリンや豆腐にかける方が好きだなあ。あ、豆腐っていうのは、白くてぷるぷるした食べ物なんです。豆から作るんですよ、ご存知ですか?」

饒舌に説明をする彼女がとても楽しそうだったので、グズマは彼女の甲高い声音を遮ることはしなかった。
豆腐くらいはグズマとて知っている。甘くないプリンのような食感で、大豆を原料としていることも勿論、解っている。
解っているけれど感心したように息を吐き、相槌を打ち、驚いたふりをする。グズマはどこまでも子供である訳ではなかった。絶妙なところで大人になりかけてもいたのだ。
馬鹿正直に「豆腐くらいは知ってるぜ、馬鹿にするな」と悪態づく程の幼さは、流石にもう、大人のかたちをしたこの男の中には残っていない。

「それじゃあ私、もう行きますね。そろそろイッシュ行きの船が来る頃だと思いますから」

「へえ、イッシュに行くのか、乗り遅れるなよ。……ところで本当にこいつ、貰ってもいいのか?」

「ええ、気にしないでください!本当は親友へのお土産だったんですけれど、彼女はもうこの黒砂糖、飽きる程に沢山食べていますから」

なら代わりにこいつを持っていけと、ハウオリシティで購入していたマラサダの袋を押し付ければ、
少女は袋の中を覗き込むや否や、「わ、これ!マラサダじゃないですか!」と、まるで幼い子供のようにわっと歓声を上げた。
こちらの人間がマラサダを知っていることにグズマは少しばかり驚き、そして故郷の名物がこんなにも喜ばれているという事実が誇らしくなって、思わず笑った。

「お前にはいいことを教わったからな、その礼だ」

ぱっと咲いた笑顔と共に、ありがとうございます、という真っ直ぐな感謝の言葉が放たれる。
おう、とグズマが軽い返事をしたのを聞き届けてから、少女はくるりと踵を返し、スキップをするように駆けていく。
そのまま遠ざかっていくかのように思われたのだが、彼女は数メートル進んだところでぴたりと立ち止まった。

「ねえお兄さん!もしかして、あの子じゃないですか?」

彼女が指差した方角、見覚えのあるポニーテールの少女がこちらを見つめていた。


2017.1.27

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