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「彼女」に似た少女を乗せた船が、イッシュの方角へと走り始めていた。

宝石のようなその少女は、元スカル団のボスにも恐れを見せこそしていなかったが、
直接、会話をしたことのない相手が、わざわざ海を越えて自らの元を訪れたことに、相当な懐疑心を抱いていたらしく、
すっと伸びた眉を強くひそめ、大きく首を傾げつつ「どういった御用でしょうか……?」と、その凛としたソプラノを怪訝そうに震わせていた。

けれどそんな彼女に、プルメリから預かって来た写真を見せるや否や、彼女の顔色は蝋のように青白くなり、次いで燃え上がる炎のように赤くなった。
前者は驚愕と絶望の、後者は憤怒の感情の表れであると、解っていたからグズマは何も言わずに、彼女の顔色がコロコロと変わるのを見届けていた。

誰よりも「彼女」の傍にいたこの少女なら、この黒雲がウルトラホールであることと、その奥に見える人影が「彼女」であることに、見当が付いていることだろう。
故に、この少女に詳しい説明など不要であったのだ。そのことが解っていたから、グズマは写真を手渡すのみで何も言わなかった。
そしてグズマの予想通り、何も言わずとも、この少女は一瞬で全てを察した。
長い、長い沈黙を経て、やっと人肌らしい色を取り戻した彼女の頬を、ぽろぽろと真珠が転がり始めた。静かな美しい嗚咽を零す少女の前で、グズマは沈黙を守っていたのだ。

「わたしを、」

やがて零れたその音に、思わずグズマは呼吸を止める。
美しい音だった。先程の少女とも、「彼女」とも似ていない、どこまでも透き通る声音だと思った。
その声音の違いは個性であり、どちらがどちらに劣っている、などということは誰にも言えない。個性に優劣など存在しない。当然のことだ。
……けれどそうした当然の見方を「彼女」は得ることが叶わなかったらしい。叶わなかったからこそ、あの惨状があるのだと、似た歪を呈するグズマには解っていた。
この少女には果たして、解っているのだろうか。

「わたしを助けてくれた天使には、金色の翼が生えていました……」

解らないだろうな、とグズマは思った。解らない、解る筈がない。歪な心に共鳴することを許される人間が、こんなにも美しくあり続けられる筈がない。
だからグズマがこの少女に求めたのは、「彼女」への同情や共鳴といったものではなかった。彼が欲したのは事実であり、情報だ。
長く「彼女」を見てきたこの少女だからこそ、知ることの叶った事実や情報がある筈だと、そのうちの一つくらい、有益なものがあって然るべきだと、グズマはそう考えていたのだ。

そうしたグズマの期待に応えるように、少女はぽろぽろと真珠の涙を零しながら、淡々と、「彼女」との事実を、この少女にとっての真実を語った。
美しい声音で語られる二人の時間は、しかしグズマの想定していた以上に悲しく、惨たらしいものだった。

「彼女」がいつでも笑っていたこと、事あるごとに「大好き!」と告げていたこと。
いつだって少女を助けていたこと、少女を守り通していたこと、それでいて少女が自分に触れることを決して許さなかったこと。
ハウオリシティの美容院で、髪を真っ白に染め、真っ青なリップを唇に置き、奇抜な色の服ばかりを身に纏って得意気に微笑んでいたこと。
少女のようになりたいと言って、その髪を金髪に染め、緑色のコンタクトレンズを嵌めたことさえあったこと。
強いポケモンの飛び出す危険な場所を好んでいたこと、スカル団の団員をこの上なく慕っていたこと。
炎に手を触れたり、海を飲んだり、崖から飛び降りたりといった奇行を繰り返していたこと。それら当然の不可能に「彼女」が、この上ない屈辱を感じていたこと。

ウラウラ島での島巡りを始めた頃から、髪の色を元の黒へすっきりと戻し、代わりに上品なワンピースを着るようになったこと。
満面の笑顔で、少女の代わりになれた喜びを告げ、姿を消したこと。エーテルパラダイスで見つけた少女の姿は、氷の中に閉ざされていたこと。
その氷を溶かしてからというもの、「彼女」は全く笑わなくなり、自ら口を開くことは殆どしなくなってしまったこと。
それでも少女を守り、少女の願いを叶えるために進み続けていたこと。UB事件が解決したのは、他の誰でもない「彼女」の力によるものであったこと。

ナッシーアイランドで「彼女」の日記を拾ったこと、そこに刻まれた、窒息しそうな程の狂気に怯んでしまったこと。それ以来、「彼女」のことが、恐ろしくなってしまったこと。
関わることを恐れて、逃げて、それでも最後に一度だけ会いに行ったこと。そこでようやく見ることの叶った「彼女」の笑顔に、どうしようもなく救われていたこと。

少女が、何もできなかったということ。そんな少女にとって「彼女」は、天使のような存在であったこと。

頬に幾重もの涙の筋を残しながら、全てを語り終えた少女は、最後に大きく息を吸い込み、
ミヅキさんについて知っていることは、もうありません。わたしは何も知りません」と、はっきりとした声音で、グズマがこれ以上の情報を求めることを、禁じた。

「わたしにはもう、彼女が解りません……。でも、貴方は違うんでしょう、グズマさん……!」

それは違う、と反射的にグズマはそう思った。彼だって解らなかった。解らないからこそ、この少女の元を訪れたのだ。
彼よりもずっと高い頻度で彼女と顔を合わせており、ずっと多くの言葉を彼女と交わし、ずっと長い時間を彼女と共にしてきたこの少女なら、
彼の知ることができなかった「何か」を知っているのではと思ったのだ。
彼女があそこまでおかしくならなければいけなかった理由が、彼女の純な歪みの根底にあるものが、見えてくるのではないかと考えていたのだ。
けれど、彼女の長い、長い話を最後まで聞き通して思ったことは、

よくもまあ、此処まで騙し通したな。

……という、ただそれだけのことだった。
そうした彼女への強すぎる呆れしか、最早浮かび上がってこなかった。

「解らないんです。何もできないわたしが悪かったのでしょうか。彼女にしてあげられることが、ポケモンさんを回復する以外のことで何か、あればよかったのでしょうか。
でも、わたしの言葉が彼女をウルトラスペースへと導いてしまったのなら、やはり何もできないわたしのままでいた方がよかったのでは、とも思ってしまうんです」

「……」

「わたし、迷ってばかりなんです。もう、何も解らないんです……」

どうすればよかったのか解らない。どうすることもできなかったのかどうかも、解らない。少女はそう言ってぽろぽろと真珠を零す。
グズマは思わず写真を握り締めた。黒雲の向こうで、彼女が楽しそうに笑っている気がした。
この美しい少女は、「ミヅキ」という邪悪な悪役の手によって、彼女の真実から最も遠いところを泳がされていたのだ。この少女は真に彼女の「被害者」であったのだ。

『リーリエを傷付けてくれるなよ。』
ククイの言葉がふわりと浮き上がる。彼は正しかった。悔しい話だが、大人はいつも正しい判断を下しがちなのだ。
大人が為す「正しさ」とは、子供が知恵を必死に絞って考え出した最善解の、もっとずっと上を、息をするような自然さで泳いでいるものなのだ。
グズマは自分が間違っていたのだと、いよいよ確信するに至った。確信せざるを得なくなってしまったのだ。

この少女はもうこれ以上、傷付くべきではない。
恵まれた箱入りのオヒメサマの味方などするまいと思っていたグズマにさえ、そう断言できてしまった。
それ程に「彼女」がこの少女に付けた傷は深かった。どうしてこの少女が、と憤る程の「不条理」であるように思われたのだ。

「アンタは悪くねえよ」

あいつは、ぶっ壊れなくともよかったのだ。なのに壊れた。誰にそうさせられた訳でもなく、あいつが一人で勝手に壊れていったのだ。
あいつの歪みはあいつの意思だ。慈悲など向けられて堪るか。向けてやらない。向けられる筈がない。
他の誰が「可哀想」と心を痛めようと知ったことか。グズマは同情しない。してやらない。
だってグズマは、恵まれていたにもかかわらず一人で勝手にぶっ壊れたグズマ自身のことが、いっとう、好きではない。

ミヅキ、お前は主人公なんかじゃねえよ。此処まで人の心を斬り付けられる主人公がいて堪るか。
お前は立派な悪役だ。オレやプルメリや代表なんかじゃ遠く及ばねえ。それはもう、素晴らしい演技だっただろうよ。

「あいつがぶっ壊れていやがったんだ。アンタが悪いんじゃない。そんなこと、アンタを除いた皆が思っているさ。アンタのせいじゃない、あいつが悪いんだ、だから、」

「やめてください!」

大の男であるグズマがびくりと肩を跳ねさせ、怯んでしまうような、それ程に大きく、凄まじい声音であった。少女は憤怒に燃える緑の目でグズマを睨み上げた。
悲しい目だと思った。この少女も「彼女」やグズマとはまた違った意味で、生き辛い性分をしているのかもしれないと、思ってしまった。

ミヅキさんは壊れてなんかいません!おかしくなんかありません!ミヅキさんは強くて勇敢で優しくて、わたしの、天使なんです。
わたしは貴方よりもずっと長くミヅキさんの傍にいたんです。誰よりも近くにいたんです。貴方のような人に、勝手なことを言われる筋合いはありません!だって、」

「弱くて臆病で優しくないミヅキは嫌いか?」

瞬間、その憤怒に満ちた緑の炎がさっと消え、代わりに驚愕と絶望の青い肌の色が、まるで海のように少女の顔へと満ちていった。
グズマは「悪い」と咄嗟に謝罪の言葉を紡ぎ、視線を逸らして俯いた。
これ以上、この少女は傷付くべきではないのだと、心からそう思っていたにもかかわらず、彼の無骨な言葉はやはり不用意に人を傷付けてしまうのだ。グズマとはそういう男なのだ。
けれど「彼女」は違う。彼女はもっと、優しく生きることの叶う少女であった筈だ。そうした力を持っていた筈だ。輝いていた筈だ。

「彼女」は、グズマのようにならずとも生きていかれた筈だ。


2017.1.27

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