25

彼女の嗚咽さえなくなったこの場には、静寂が降りていました。
ハウさんも兄様もビッケさんも、そしてわたしも、ザオボーさんも、誰も何も言わないまま、暫くの時が経ちました。
暫く、というのは、他でもないわたしが、どれくらいの間そうして沈黙していたのかを計りかねていたからです。
この部屋には時計がありません。あったのかもしれませんが、わたしは頭を動かしてそれを探すことができませんでした。
此処は少しも寒くない筈なのに、まるで凍り付いたかのように体が動きませんでした。

此処に、わたしがいないようにさえ思われました。わたしの知らないところで回る、悲しい世界に耐えられなくなって、わたしは消えたくなりました。
物音一つ立てられませんでした。指の先さえ動かすことが躊躇われました。息をすることさえ恐ろしかったのです。怖かったのです。

「この子に笑ってほしいですか?」

そんな静寂を割いたのは、ザオボーさんの場違いな、飄々とした声音でした。
その疑問がわたしに向けられていることは解っていましたが、わたしは、頷くことができませんでした。

『予言をしましょう。彼女は目を覚まします。ですが二度と笑わない。少なくとも君達のような人間の前では、絶対に。
……そんな彼女にこの写真を見せなさい。きっと、幸せそうに笑ってくれるだろうから。』

頷いてしまえば、この人は彼女が眠っていた頃の写真を、あの酷い光景を、彼女に見せてしまうだろうということが解っていたからです。
けれどわたしが頷かずとも、ザオボーさんはそうすることを自分の中で決めてしまっていたかのようでした。
わたしが何の反応も返さないことに、苦笑して、小さく息を吐いて、そしてポケットから写真を取り出しました。
事務的な太いオレンジ色の輪ゴムで、10枚を超えるその写真が束ねられていました。

ザオボーさんは彼女の手から、空になったガラスのコップを取り上げました。そして再び膝を折り、その、力なく垂れた手に写真を握らせました。
煤色の目が僅かに見開かれました。

「ほら、君ですよ。綺麗に撮れているでしょう?このザオボーに感謝してもらいたいものですね。
沢山のポケモンがあの部屋には眠っていましたが、君が一番美しかった。君の笑顔は心からのものでした。わたしやビッケにはちゃんと解っていましたよ」

写真の存在を知らなかったビッケさんが、思わず声を上げました。兄様は眉をひそめて視線を逸らしました。ハウさんはただ、驚いていました。
わたしは、何も言うことができませんでした。


「喜びなさい、君は宝石だ。宝石になる価値のある人間だ」


パキン、と小枝を折るような音が聞こえた気がしました。
それは彼女の、ようやく動かすことを思い出した頬の上で、幾重にもついた涙の跡がひび割れる音だったのかもしれません。
あるいはわたしの、心の壊れる音だったのかもしれません。
それとも、わたしの知る彼女が遠くへと歩き去る音だったのかもしれません。遠ざかる彼女は、きっと小枝を踏んだのです。そういうことだったのです。

彼女はとても幸せそうに笑いました。わたしが最後に見た、彼女の心からの笑顔でした。
貴方の「本当の笑顔」がそんなにも美しく切ない形をしていたなんて、知りませんでした。

「このグラスの中に何が入っていたか、知りたいですか?」

彼は続けざまにそう告げて、隣の部屋へと向かいました。
彼が戻ってくるまで20秒程あった筈ですが、誰も、何も言いませんでした。ハウさんも兄様もビッケさんも、指先さえ動かしませんでした。
彼女は、写真の束の一番上で眠る彼女の姿をぼんやりと眺めて、その小さな指先で写真を何度も撫でていました。
煤色の目は眠たげに細められていました。首は重そうに僅かに傾げられていました。もう、笑っていませんでした。

戻って来たザオボーさんは、白いプラスチックのプレートを持って戻ってきました。白いプレートの上には、小さな銀色のボトルが置かれていました。
小瓶の蓋を開けて、中身をプレートの上に注いだ瞬間、わたしは思わず声を上げました。
銀色の、どう見ても金属である筈の液体が、まるで水のようにプレートへと落ちていったからです。

「これは水銀という貴重な金属です。これを気化させた有機水銀は生き物にとって有害ですが、こうして純粋な金属水銀を触っている分にはどうということはありません。
君は銀色が好きなようですから、きっと代表が君のために用意したのでしょう」

彼女は躊躇うことなく、白いプレートの上に転がる水銀の粒へと手を伸べました。
水銀はまるで生き物のように、その粒を摘まもうとする彼女の指先から逃れて、ツルツルと滑り落ちていきました。
ザオボーさんが再び口を開くことをしなければ、彼女はずっとそうしているのではないかと思われました。
それ程に今のわたしには、目が覚めてからの彼女がずっと、不可解でした。彼女が何を考えているのか、全く読めなかったのです。解らなかったのです。

「水銀の融点は-38℃。常温では、水銀が固体になることはまずありません。ですが液体窒素で凍らされた君をあの中から取り出した時、これは固まっていました。
固体の水銀を見た瞬間、わたしは何故君が眠らなければならなかったのか、解ったような気がしましたよ。……勿論、今、この場で話すことはしませんが」

わたし達の方を振り返ったザオボーさんは、ニヤリと得意気に微笑みました。
この人には、彼女があんな冷たい場所で眠らなければならなかった理由が解っているといいます。でもわたしには解りません。わたしには、教えてくれません。
その、大きすぎる事実の乖離に眩暈がしました。「彼女」の遠ざかる足音は、もうすっかり消えてしまっていました。

「君が宝石だった証として、取っておくといい」

ザオボーさんは彼女の手に、金属製の小瓶を握らせました。
写真の束と水銀の小瓶を両手に持った彼女は、そっとその二つを持ち上げて、涙の割れた頬に擦り寄せました。祈るように閉じられた目は、もう涙を流しませんでした。
そんな彼女の頭を最後にそっと撫でて、ザオボーさんはこの部屋を出て行きました。ビッケさんも兄様もハウさんも、誰も彼を引き留めませんでした。

水銀の小瓶を持っていなくても、氷の中で眠らなくても、彼女は十分に宝石でした。
そして、そう考えているのはおそらく、わたしだけではないのでしょう。
ハウくんだって兄様だってそう思っています。ビッケさんやザオボーさんも、そう思ったからこそ彼女を溶かしてくれたのです。
誰もが、その当たり前の事実に気が付いていました。気が付いていなかったのは、彼女自身だけでした。

鍵の壊れた屋敷に入り、ダイニングの椅子に座って、これからどうすべきかを話し合うことになりました。
ベッドから下りた彼女は、2日前と全く変わらない、しっかりとした足取りで部屋を出て行きました。ビッケさんやわたしの助けなど、まるで必要としていませんでした。
けれどどうしても怖くて、わたしは彼女のすぐ隣を歩きました。笑うことを忘れた彼女は、今にも倒れてしまいそうだったのです。どうしても恐ろしかったのです。

ハウさんは沢山のモンスターボールを出して、ダイニングテーブルの上に置きました。
キテルグマ、ガラガラ、ヤトウモリ、ヨワシ……。皆、彼女の自慢のポケモンさんでした。ボールの中からでも、彼等が彼女の姿を見つけて喜んでいることが解りました。
彼女は沢山のボールを、何も言わずに受け取りました。一瞬たりとも笑いませんでした。

「皆、ミヅキのところへ戻れて嬉しいんだよー。もう、手放したりしちゃ駄目だからね」

笑わない彼女の代わりに、ハウさんは努めて明るい声音でそう窘めました。彼女は小さく頷きました。それだけでした。

兄様は、彼女が眠っていたあの冷たい部屋で、銀色の笛を見つけていました。
母様とグズマさんを、ウルトラホールの向こう側にある世界から連れ戻さなければいけません。
そのためにはウルトラホールを行き来できる存在に力を貸してもらう必要があるのだと、兄様は考えていました。

アローラ地方には、この特別な笛の音色で伝説ポケモンが姿を現すという言い伝えがあり、そのためには、2本の笛が必要でした。
「月の笛」と「太陽の笛」が揃って、初めて伝説ポケモンを呼び出せること、その笛と、その笛を吹くべき場所がポニ島にあることまで、兄様は調べていました。

「オレとハウは、アローラの各地に散らばったビーストが、町や村に危害を加えないように食い止めておく。
ミヅキ、もし問題なく動けるようなら、リーリエと一緒に2本目の笛を探し、伝説ポケモンと共にビーストの世界へ向かってくれないか?」

その言葉に、彼女は顔を上げました。
兄様はテーブルの向こうから、真っ直ぐに彼女の目を覗き込んでいました。ハウさんもそれに倣うように、ぐいと身体を乗り出して彼女を見つめました。
わたしは隣に座る彼女にそっと視線を移しました。横顔はやはり笑っていなくて、煤色の目は緩慢に瞬きを繰り返すばかりでした。

「情けない話だが、ビーストの世界にオレやハウが向かえたとしても、代表を連れ戻すことはできないだろう。
オレもハウも一度、代表に敗れている。努力で辿り着ける強さには限界がある。オレ達はお前のように強くない。……だから一番大事な役目は、一番強い奴に任せたい」

不安に思う隙さえ与えず、彼女は小さく頷きました。僅かに、その唇が弧を描いたような気がしました。
……いいえ、おそらく気のせいではなかったのでしょう。それを見たハウさんも兄様も、とても安心したように笑っていましたから。

「ポニ島まではビッケが船で送ってくれる。……リーリエ、ミヅキを頼む」

兄様にそう言われて、わたしの背はぴしっと伸びました。わたしは「はい!」と大きく返事をして、彼女の分まで笑いました。
笑わなければいけないような気がしたから、無理に笑顔を作ったのです。

彼女はいつだって笑っていました。彼女の笑顔が周りの人を笑顔にしました。彼女はいつだって煌めいていました。強くて勇敢で優しくて、笑顔の絶えない人でした。
彼女が笑ってくれるから、わたしも笑ってアローラを歩くことができました。
だから今度は、わたしの番だと思ったのです。わたしが彼女を笑顔にする番だったのです。
どうかわたしの笑顔が彼女に届きますようにと、彼女の心を照らすことが叶いますようにと、そう祈るように笑いました。彼女はわたしを見て、頷いてくれました。


2016.12.31

© 2024 雨袱紗