翌朝、わたしはプルメリさんに連れられて、ウラウラ島の乗船場に向かいました。そこで、思わぬ人物と再会することになったのです。
「にいさま!」
「……久しぶりだな、リーリエ」
会うことの叶わなかった2年の間に、兄様の背はかなり伸びていました。
気性の荒かったタイプ:ヌルを連れ出した後も、このポケモンさんの扱いに苦労していたのでしょう。
兄様の腕や脚には掠り傷がいくつもついていて、黒い衣服には沢山の裂け目と綻びが見えていました。
傷の数だけの苦痛があり、綻びの数だけの苦悩があったのでしょう。それを推し量ることはできても、共に悩み、苦しむことはできませんでした。
兄様がタイプ:ヌルを連れてあの島を出たとき、わたしは何故兄様がそんなことをしたのか、何故母様が怒っているのか、
そうした全てを推し量ることさえ叶わないような、幼く無力な子供だったのです。
あの島から先に逃げ出した兄様を、恨めしく思ったこともありました。荒れる母様に隠れるようにして泣きながら、兄様を憎んだことだってありました。
けれどわたしも同じように、コスモッグを連れて島を出たのですから、わたし達はやはり似ていたのでしょう。
ただ、わたしの方が兄様より幼かったから、あの島の歪みに、母様のしていることの恐ろしさに気付くのに、時間が掛かってしまっただけのことだったのでしょう。
「無事だったのですね。よかった……」
だからわたしは、兄様とこのような形で再会できたことを、素直に喜ぶことができました。
プルメリさんは乗船場の隅で、わたし達に背中を向けていました。もしかしたら、わたしと兄様が話をするための時間を作ってくださっていたのかもしれません。
わたしと兄様のささやかな会話は、ハウさんが「お待たせー!」と元気な声と共に乗船場へとやって来るまで続きました。
まさかハウさんも一緒に向かうことになるとは思ってもいなかったので、わたしはびっくりしてしまいました。
けれどハウさんは行くと言って聞かなくて、その強情さに彼女の面影を見そうになっていたわたしの眼前に、ハウさんは、白い小箱を差し出しました。
中には、またしても既視感のあるロコンが入っていて、わたしは息を飲みました。
「このロコン、ミヅキが大事にしていたポケモンだよね。どうしてこんなことするんだろう?ロコンのこと、嫌いになっちゃったのかなー」
「そんなこと……」
絶対にない、と、わたしは言い切ることができませんでした。
わたしの知る彼女は、誰もを愛していました。全ての存在に「大好き」と告げて笑っていました。それが心からのものであることにわたしは気付いていました。
彼女が「大好き」を言えない相手は、彼女自身だけでした。
けれど、そうではないのかもしれないと思い始めてしまったのです。わたしがずっと見てきた彼女は幻想だったのではないかと、疑ってしまいそうになっていたのです。
それ程に、昨日からの彼女の行動は常軌を逸したものでした。あれ程大切にしていたポケモンを手放すなんて、わたしの知る彼女では考えられないことでした。
「大好きだからこそ、離れなきゃならない時だってある」
けれどわたしには考えられないことを、兄様は推し量ることができたようでした。
言葉を重ねることをよしとしない兄様は、それ以上のことを決して言おうとはしませんでした。
黒い船は4人を乗せてウラウラ島を離れ、エーテルパラダイスの方向へと進み始めました。
うんざりした顔の兄様に、ハウさんはずっと話しかけていました。冷たくあしらいながらも、兄様は決してハウさんを追い払おうとはしませんでした。
わたしは船の甲板に立って、徐々に大きくなっていくエーテルパラダイスを眺めていました。
あの島で、わたしは育ちました。生きるための全てを、わたしは白い場所で教わりました。
だからわたしは土の匂いを知りませんでした。風の強さも知りませんでした。夜の寒さも、昼の暑さも知りませんでした。
何も知らなかったわたしを、彼女はいつだって守ってくれました。
「ミヅキは代表に何を求めていたんだろうねえ」
黒い船の手すりに凭れ掛かるようにして両腕を預け、プルメリさんはわたしの隣でそのようなことを零しました。
解りませんでした。この女性の求めている答えを、わたしは持っていませんでした。だから小さく俯いて首を振りました。
けれどプルメリさんは、最初からわたしの言葉など期待していなかったように、少し寂しそうな笑顔を湛えたまま、口を開きました。
口元は笑っていましたが、その目は真っ直ぐにエーテルパラダイスを睨み付けていました。
「あたいらのボス……グズマは、代表を慕っているんだ、代表は、あいつの強さを認めてくれた初めての大人だったからね。
言いなりになっているようなものだったけれど、それでもグズマは嬉しそうに従っていたさ。嬉しかったんじゃないかい、自分の力が必要とされていることが」
「……母様は、貴方のボスをいいように使っていたのではないですか?」
「そうだよ、だが構わなかった。いいように使われていたとしても、グズマは代表の傍がよかったのさ。逆らえなかったんだ、力のある存在に見限られることが、怖かったんだ」
見限られることの恐怖、というものは、わたしにはよく解りません。
わたしはあの島で育ちました。他者をいたずらに攻撃するような、そうした悪意を人間が持っていることを、わたしはつい最近まで知りませんでした。
だからこそ、そうした悪意の剣を、よりにもよって母様が振るっているという事実にわたしは耐えられなかったのです。
そして、その攻撃の対象となったコスモッグを、守らなければと思うようになったのです。
けれどグズマさんは、そうした悪意の剣を持つ母様に救われていると言います。よく、解りませんでした。
「ミヅキは馬鹿だけど勘の鋭いところがある。代表の愛とやらがおかしな形をしていることにだって気付いていただろうさ。
気付いていながら、それでもあの島へ向かった。代表にしか与えられないものがあったのか、それとも……」
「そこが、一番信じられないんです。ミヅキさんが求めていたものが何なのか、わたしには見当もつきません。
だって彼女は勇敢で強くて優しくて、いつも笑顔を絶やさなくて、わたしの、憧れでした。彼女が母様に焦がれる必要など、全くないように思えるのです」
「でもミヅキは代表のところへ向かった。グズマと同じようにね」
「……貴方は、ミヅキさんと貴方のボスが似ていると言いたいのですか?」
思わず語気を強めていまい、わたしは慌てて謝罪の言葉を紡ぎました。
プルメリさんはスカル団の人間です。グズマさんはそんなスカル団を率いるボスです。上司のことを悪く言われることは、決して気分のいいものではないことくらい、解っています。
けれど、どうしてもわたしには、彼女とグズマさんを同じように見ることができなかったのです。
わたしは酷い人間でした。
この女性にも助けていただいたのに、スカル団が悪さばかりをする集団ではないことを、わたしは昨日の一件で痛感していた筈なのに、
それでも、一緒にしないで、と思ってしまったのです。あの天使は貴方達のように汚れてなどいないと、ほんの一瞬でも、思ってしまったのです。
ごめんなさい、と絞り出すようにもう一度告げれば、プルメリさんはこんな酷い人間であるわたしのことを、困ったように笑いながら、許してくれました。
「あんたは優しい子だね。あたいらみたいな人間には眩しくて、目が痛くなっちまうよ。……きっとミヅキもそうだっただろうさ」
「……いいえ、眩しいのはいつだってミヅキさんの方でした。わたしはいつだって、何もできなかったんです。助けてもらってばかりだったんです」
「そうかい」
言い捨てるように相槌を打った彼女の横顔は、わたしには読み取れない、複雑な感情を宿していました。
冷静なようにも、激情を秘めているようにも見えました。喜んでいるようにも、憤っているようにも、呆れているようにも、安心しているようにも見えました。
「あいつはもしかしたら、お姫様になりたかったのかもしれないねえ」
だから、聞こえないような小さな声音で呟かれた、プルメリさんのその言葉を、わたしは、聞かなかったことにしてしまいました。
どうしようもなく恐ろしくなったのです。この女性が見ていた彼女と、わたしが見ていた彼女の姿が、全くの別物であるように思われてならなかったのです。
彼女がお姫様になりたがっていたとは、わたしは思いません。
彼女は守られる側ではありませんでした。いつだって気高くその力を振るい、笑顔で沢山の人を助けてきました。彼女の笑顔に釣られるようにして、相手も笑顔になりました。
彼女は守る側でした。救う側、助ける側、笑顔を与える側でした。輝かしいところには、いつだって彼女がいました。
わたしが困っていると、いつも彼女がいてくれました。
「……」
けれど、本当にそう確信できていたなら、わたしはその、小さな声音に反応したでしょう。
プルメリさんに、わたしがこれまで見てきた彼女の姿を話して、彼女がどれだけ強くて勇敢で優しかったかをお聞かせして、……そして、この女性の同意を求めたでしょう。
そうできなかったのですから、わたしだって迷っていたのでしょう。わたしだって、不安だったのでしょう。
青い空はいつの間にか白くなっていました。エーテルパラダイスがすぐそこまで来ていたのです。
2016.12.29