1 sturmend

『アクロマさんへ

お言葉に甘えて、早速手紙を書きました。
というのも、旅に出る前に報告したいことが出来てしまったからです。
預けてくれたタマゴが昨日、孵りました。今も手紙を書いている私の周りを、ふわふわと飛び回っています。
アクロマさんの連れていたロトムより一回り小さいのが気掛かりですが、元気な姿を見せてくれて本当に嬉しかった。

今日、ポケモンとポケモン図鑑を貰います。
ロトムやその子と一緒に、世界を沢山見て回りたいと思います。
正直、不安でいっぱいです。私は世界に何を見出せるのかと、恐れている部分もあります。
迷ったり、悩んだりしたら、また手紙を書きます。……でも、悩まなくても、書きますね。
アクロマさんも、お仕事頑張ってください。応援しています。

ヒオウギは、とてもいい天気です。

シア


暦が夏を告げたその初日、今日は晴天だった。
青い絵の具を溶かしてひっくり返したような空が眩しい。春は雨の日が続くことも多く、こんなにも眩しい空を見たのは久し振りであるような気がした。
もしかしたら、彼は雨男だったのでは。そんなことを考えて、吹き出す。そして私はペンを再び握る。

『P.S. アクロマさんは雨男ですか?』

これでよし。
封筒に手紙を入れて封をした所で、ガラス窓が小さく音を立てた。
開ければ、飛び込んで来たのは夏の朝特有の柔らかい、湿気を帯びた風……ではなく、よく見知った二人だった。窓をひょい、と飛び越えて入ってくる。

「おはよう。見送りに来てあげたわよ」

「玄関!玄関から入って来てください!」

庭で寛いでいるレシラムとゼクロムを、トウコ先輩とNさんはボールに戻して、まるで我が家に居るかのようにどっかりと腰を下ろした。

「あれ、ロトムじゃないの。そんな珍しいポケモン、どうしたのよ」

「お世話になっている人から頂いたタマゴが、昨日孵ったんです」

彼女はふわふわと宙を漂っていたロトムをじっと見つめる。
ロトムは暫く、そんな彼女と睨めっこをしていたが、Nさんがロトムを呼んだことにより、ふわふわとNさんの方へと漂って会話を始めた。
「お世話になっている人」で、トウコ先輩は察してくれたらしい、楽しそうに口を開く。

「……ああ、シアに入れ込んでいた大人ね。今度紹介しなさい。私があんたに相応しい男かどうか、見定めてあげるから」

「ふふ、その人のことは好きですよ。けれどきっと、そういう思いではないんです」

「へえ、違うんだ。じゃあ何なの?」

追求の手を緩めない彼女に、私は苦笑するしかなかった。
アクロマさんのことは、好きだ。大好きだった。けれどそれは、トウコ先輩がNさんに見抱いているものとは少しだけ違う気がしたのだ。

彼女と彼とは何処までも対等だった。
ポケモンの声を聞き、未来を見るという不思議な能力を持つ彼は、しかしトウコ先輩に対してイニシアティヴを振りかざすことはしない。
……どちらかと言えば、寧ろ、彼女の方がNさんを尻に敷いているような印象を受ける。
しかしNさんもそれなりに、言いたいことは彼女に言い返し、引っ張られた長髪を引っ張り返している。

彼女と彼は同じ地面に靴底を付けていたのだ。私とアクロマさんの間に隔てられていた高い壁が、彼等にはない。
だから私は時折、彼等を見て、「いいなあ」と紡ぐ。幸せそうだと羨んでみせる。
そんな風に羨望の眼差しを向ける私は、知らなかったのだ。
トウコ先輩とNさんとの間にも、深い深い隔絶があったこと。2年という長い月日をかけて、それを少しずつ壊していったこと。
そうした苦しい時を経て今の、屈託なく笑い合う二人の姿があるのだということ。

頑として答えない私に彼女も諦めたのか、大きく伸びをしてカーペットに寝転がった。

シアが羨ましいなあ。私ももう一度、旅に出たい」

「……旅、ですか?いつでもできますよね?」

トウコ先輩の不思議な言葉に首を傾げる。この間だって、彼女はNさんとホウエン地方という場所に出掛けていた筈だ。
温泉に入ってきたと、笑いながら名物である「フエンせんべい」を渡してくれたことはまだ記憶に新しい。
しかし彼女は肩を竦めて微笑んだ。そこには私への羨望があった。
他社に羨望を抱くことに慣れ過ぎた私は、自らに向けられるその慣れない感情に敏感だった。
そうした「羨ましい」という思いは、基本的に、私が誰かに抱く筈のものだったからだ。

「初めての旅は、忘れたくても忘れられないくらい、重くて眩しいものだから。
どんなに遠い地方を旅したとしても、最初に一番道路に踏み出した時の高揚感には敵わないわ」

「……そうなんですね」

「だから、あんたもはじめの一歩を大事にしてね」

彼女は優しく笑い、わしゃわしゃと私の頭を撫でる。
まだその一歩を経験していなかった私は、彼女のそんなアドバイスにただ頷くことしかできなかった。
けれど「初めて」が持つ質量くらいは知っている。世界が初めて広がった音の、あの美しさを私は忘れていない。
そして、今私の前にある「初めて」の旅が、物凄い重さのあるものだと朧気に感じている。

「ロトムも、キミとの旅をとても楽しみにしているよ。カレと一緒に、楽しんでおいで」

Nさんが微笑む。私はそれに笑顔で頷くことができた。
彼等のおかげで、抱えていた不安が和らいだような気がした。

「あ、そうだ。……これ、私とNのライブキャスターの番号だから、何かあれば連絡して」

トウコ先輩は、ポケットから紙切れを取り出して渡してくれた。彼女と彼の番号を登録し、お礼を言う。
きっと彼等は、これを渡すためにわざわざ来てくれたのだ。旅先で私の足が止まってしまわないようにと、手を貸す準備が彼等にはできていたのだ。
だからこそ、この番号に簡単に縋る訳にはいかないと思った。

「……まあ、掛かって来ないことを祈っているわ。
だってあんたはこれから、私達のことを忘れてしまうくらい、もっと大勢の人やポケモンに出会うんだから!」

そう言って、彼女は窓からひょいと飛び降り、ゼクロムをボールから出す。Nさんもそれに続いた。
挨拶も済ませないまま、居なくなってしまった二人の先輩に苦笑する。

予想外の人物の訪問だったが、おかげでようやく心構えが出来た。
私は鞄を持って勢い良く立ち上がる。中身は何度も確認した。忘れ物は、きっとない。
今なら、何の迷いもなく駆け出せそうだった。

部屋を飛び出し、玄関で靴を履く。
気を付けてね、と笑顔で見送ってくれるお母さんに、私は元気よく返事をした。

「行ってきます!」

ドアを開ける。
『だから、あんたもはじめの一歩を大事にしてね。』
履き慣れた靴でアスファルトを強く蹴り、一歩を、踏み出す。

「……」

開けた空から強い日差しが降り注ぐ。風が夏を運んでいる。
ボールから出しておいたロトムが、ふわふわと宙を飛んで私の隣に並んだ。

「ロトム、あの高台まで競争しようか?」

その言葉に返事をすることなく、彼は素早く宙を滑っていってしまった。
後れを取るまいと私は慌てて足に力を込める。ロトムは振り返り、クスクスと笑っていたが、私が本気で走って来ていることに気付くと、再び高台まで駆けていった。
私はサンバイザーを深く被り直し、彼に追いつこうと走り続ける。

鞄の底で、海が揺れていた。


2012、8、24
修正 2014.11.17

シュテュルメント 嵐のように

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