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「……おやおや。ついにここまで来ましたか」アポロはそう呟き、振り返る。
そこには幾度となくロケット団の計画を邪魔してきた、憎らしい子供の姿があった。
「なかなか優秀なトレーナーのようですね」
茶色い髪を二つに結わえ、同じく茶色い目で真っ直ぐにアポロを見据えている。こちらの言葉に動じる素振りを微塵も感じさせない。
アポロはポケットからモンスターボールを取り出す。現れたヘルガーは、目の前の子供に威嚇の姿勢を見せる。
彼女は不敵な笑みを浮かべるアポロと、敵意を剥き出しにするヘルガーに怯むことなく、無言のままにモンスターボールを投げる。
もうとっくに進化のレベルに達している筈なのに、かわらずの石でも持たせているのか、出てきたのはランスの報告にあった通りの小さなチコリータだった。
「……」
アポロは沈黙した。
風船を空に放つように、真っ直ぐに上へと投げる、その特徴的なボールの投げ方をアポロは知っていたのだ。
そんな筈はない。そんな偶然がある筈がない。感情は激しく否定の意を示したが、目の前の子供が被っている帽子に抱いた強烈な既視感を押し遣ることはできなかった。
この少女を、自分は知っていた。赤い大きなリボンの帽子を被った彼女の姿を、アポロは以前、写真で見たことがあったのだ。
重い病気を患う双子の弟を持ち、ワカバタウンに住む、「彼女」の妹。
「あの……」
同じ、声がした。
間違いない。アポロは確信した。堪え切れずに唇が弧を描く。ああ、おかしい。自分が滑稽で堪らない。
「どうしました。向かって来ないのですか?」
「あ、えっと……」
「私を負かさなければ、ロケット団を解散させることはできませんよ」
挑発するようにそう言うと、少女は我に返ったように、視線を小さなチコリータに戻した。
チコリータの弱点である炎タイプのヘルガーを前にしても、彼女は全く怯む様子を見せない。
その揺るぎない自信は姉譲りらしい。それすらもおかしくてアポロは笑った。
きっと自分はこの少女に負けるだろう。ヘルガーのかえんほうしゃは、きっとチコリータには届かない。
「かえんほうしゃ!」
「リーフストーム!」
チコリータが起こした嵐は炎を掻き消し、そのままヘルガーに襲い掛かった。
突風に吹き飛ばされ、そのまま壁に勢い良く叩きつけられる。力無く床に崩れ落ちたヘルガーはぴくりとも動かなかった。
圧倒的な力の差にアポロは絶句した。次のモンスターボールに掛けようとした手を押し留めた。
まだ自分の手持ちは残っていたが、切り札であるヘルガーがこうも簡単にやられてしまったことを考えると、次のポケモンを繰り出すことは無駄な足掻きにしかならないだろう。
「……やはり私では無理でしたか」
アポロは先代のボスを思った。3年前までロケット団を束ねてきたサカキも、あの少年に圧倒的な力の差を見せつけられたのだろうか。
自分には組織を束ねる資格がないと、それ故に思い、姿を消したのだろうか。それがトップに立つ者の責任の取り方であると信じていたのだろうか。
彼を責める気はない。彼ができなかったことを、彼よりも若いアポロができる筈がなかったのだ。
しかし、とアポロは思う。自分は彼には及ばない。彼と同じこと、彼以上のことはできない。それならば、彼ができなかったことを為してみせよう。
「わかりました。サカキ様がそうしたように、ロケット団はここで解散しましょう」
少女はほっとしたように小さく溜め息を吐いた。
アポロはヘルガーを自分のボールへと戻す。次に彼を外に出してあげられるのはいつになるだろう。
これからアポロが受ける処遇を考えると、果てしなく長い期間、この狭い空間に閉じ込めておかなければならないような気がした。
「あの、逃げないんですか?もう直ぐ警察が来ます」
「逃げてほしいのですか?」
「えっと、そうするのかな、と思って……」
「私が下っ端なら、間違いなくそうしたでしょうね」
アポロは苦笑した。少女はまだ幼く、彼の言っていることが解らずに首を傾げる。
少女はまだ知らなかったのだ。この世界に巣食う理不尽のことも、それに蝕まれる弱者のことも、彼等にも彼等の世界が存在していることも、全て、全て知らなかったのだ。
だからこそのこれまでの行動がそこにあり、しかしその拙い正義を叶えるだけの強さを、この少女は持ち合わせていたのだ。
「私は最高幹部です。ロケット団の代表として、働いてきた悪事の報いを受けなければ。
悪人にも、責任を取るだけの矜持がありますから」
「……」
「それに、私が代表として法の裁きを受ければ、元ロケット団への風当たりも少しは弱まるでしょう。
……貴方のような子供には、まだ理解できないかもしれませんね」
少女は沈黙していたが、やがてチコリータをボールに戻し、代わりにポケットから何かを取り出した。
「いいえ、解ります。お姉ちゃんも、同じようなことを言っていましたから」
アポロは思わず歩を進めた。子供の手には、小さく折り畳まれた便箋が握られている。
何も言わずに差し出されたその手紙を、アポロは恐る恐る受け取った。
探るように少女を見ると、彼女は肩を竦めて笑った。その仕草があまりにもアポロの知る女性に似ていて、ああ、やはり妹なのだ、と改めて思い知る。
「ヤドンの井戸でロケット団と戦ったという話をしたら、この手紙を渡されたんです。「私にそっくりな人がロケット団に居る筈だから、見つけたら渡してほしい」って。
なかなか見つからなくて焦っていたんです。やっと会えました」
その言葉にアポロは苦笑する。彼女は全て知っていたのだ。
おそらくは、自分の仕事を彼女が尋ね、それを自分がはぐらかした段階で、ロケット団に関わっているのだろうという確信が彼女にはあったのだ。
それを確信して尚、彼女は自分を待ってくれていたのだ。
ロケット団の人間である自分との出会いを「縁」だと言い、出会ったから好きになったのだと不思議な理論を紡いで笑ったのだ。
「……」
「お姉ちゃんからの、手紙です」
今すぐにでも、手の中の便箋を開きたい。何が書かれているのかを、見たい。
その衝動を押し留めて、アポロは彼女の妹に尋ねる。
「ロケット団の最高幹部である私が、この手紙を読んでもいいのでしょうかね」
少女は暫く考え込む素振りをしたが、やがて困ったように眉根を寄せて、呟いた。
「貴方は読みたいですか?」
「……ええ、とても」
「お姉ちゃんも、読んでほしいと思っています。きっと、それが答えです」
その少女の姿が、否応なしに姉と重なる。
奔放でマイペースで、力に貪欲だった彼女。共有した優しい記憶は、アポロの心を支え続けていた。そして、今も。
この少女は、とても彼女に似ている。それすら嬉しくてアポロは笑った。
ゆっくりと手紙を開くと、そこには女性特有の丸い小さな文字が、一行だけ、書かれていた。
『また、会えるといいですね』
A5サイズの便箋に書かれた、たった一行の言葉は、しかしそれ故にアポロの深奥を鋭く抉った。
アポロが来ても来なくても変わらない。自分は此処でいつものように本を読んでいるだけだと気丈に言い放った彼女を思い出す。
交わらない世界だと割り切っていたつもりだった。偶然にも重なった時間に感謝しこそすれど、それ以上を望むことはルール違反だと信じていた。
しかしアポロの敷いたルールを、彼女はたった一言で破ってみせる。
共有を望む、彼女のたった一言。それだけで、アポロは自分の居場所を許すことができたのだ。
「お姉さんに伝えてください。『随分待たせてしまいますが構いませんか』と」
すると何がおかしいのか、彼女の妹はクスクスと楽しそうに笑った。
「お姉ちゃんは、大人しく待っていられるような人じゃありません」
その言葉の意味を、アポロはそう遠くないうちに知ることになる。
2014.10.16