1-5

ホロキャスターの時計が朝の4時を示した頃、男は膝を抱えたままの少女を呼んだ。
シェリー」と、たった一言呟けば彼女は確実に顔を上げるものと思っていたが、俯いたままの彼女は身じろぎ一つしなかった。
もしかしたら眠っているのかもしれない。そう思い、肩に手を当ててそっと揺さぶれば、勢いよく彼女の顔が上がった。長いストロベリーブロンドのカーテンは豪快に開け放たれた。

「あ……えっと、」

「おはよう。そろそろミアレステーションへ向かうから、準備をしなさい」

明るくなってから空を飛んだのでは見つかってしまうだろう。二人を探す者など皆無に等しいと解っていたが、それでも危険な道を渡るよりは安全域を踏んでいたかった。
大きく首を振って目を覚ました少女は、抱えていた鞄を肩に下げ、すっと立ちあがってこちらを見上げた。彼女はもう俯かなかった。

「……やはり君は、前を向いている方がずっといい」

そう告げたことは間違いであったのかもしれなかった。彼女は顔を青ざめさせて俯き、「ごめんなさい」と早口で謝罪を繰り返し始めたからだ。
彼女の頬は赤く火照らない。代わりに青ざめる。照れや歓喜の代わりに動揺と恐怖を露わにする。
そして、それは相手をこの男とした時に限った話ではなかったのだろう。
彼女は誰に対しても、相手がポケモンであったとしても、あるいは誰もいなかったとしても、こうして一秒一秒を殺ぎ落すように神経を擦り減らしてきたのだろう。

自尊心という言葉から悉く離れたところにある少女だった。彼女を支えるものは彼女の中にはなく、いつだって彼女が恐れる「誰か」を拠り所としていた。
その「誰か」の一人に自分が含まれていることを男は解っていた。解っていたからこそ、自分だけは、彼女の心を恐怖と当惑で乱すことのないようにしていたかったのだ。
彼の言葉を、行動を評価し認める者など、もう彼女を置いて他にいなかったのだから、男が「彼女のための全て」になる準備を始めていたとして、それは当然のことだったのだろう。

少女はリザードンに、男はドンカラスの背に乗ってセキタイタウンを飛び去った。
風の音が徐々に大きくなった。二人は何も言わずにただ、互いのポケモンの背からカロスの夜を見下ろしていた。
東の空にまだ太陽の兆しすら感じさせない、早朝、と呼ぶことの憚られる時間帯だった。
暗闇に飲まれたカロスの、町らしき場所にある無数の星が異様な眩しさで目を穿ち、男は思わず目を背けた。
けれどその隣で、少女は心を奪われたようにじっとカロスを見下ろしていた。瞬きすら忘れているようであった。
彼女自身を悉く恐怖させたこの町を、彼女がどこまでも拒み続けてきたこの土地を、彼女はまるで憎いものの死を見るように、茫然と、しかし確かな歓喜をもって見ていたのだ。

「朝が来なければいいのに」

時の流れが等しく訪れることさえも忘れている、忘れたいと思っている。そうした、悉く異常な姿だと思った。
けれど男はいい加減に、それを「異常」とすることを止めなければならなかった。
何故ならこれが、彼女の「正常」な姿である筈なのだから。この彼女との、彼女だけとの異常な生活が、彼にとってこれからの「正常」になっていくのだから。

夜明け前のミアレシティに降り立った。まだ、町は少女の好む暗い色をしたままだった。
路地裏からそっと顔を出し大通りを窺ったが、まだ朝4時半ということもあり、杖を突いた老紳士がトリミアンと並んで歩いている他は、誰も見当たらなかった。
足早に大通りを抜けて、角を曲がり、無人のフラダリカフェに立ち寄り、必要最小限の貴重品を持って、名残を惜しむ間もなく駆け出した。
ほんの数分、目を離すことすら恐ろしかったのだから、彼もまた、悉く歪であったのだろう。

肌寒い灰色の路地裏、その奥で少女は一歩たりとも動かず、怯えるように身を折って屈んでいた。彼女に寄り添うように、ドンカラスとリザードンがその翼を畳んで待っていた。
大丈夫だ、と少女に目配せをした。互いのポケモンをそれぞれボールに戻してから、男は少女に手を伸べた。
尚も「畏れ多い」と首を振って拒絶の意を示す彼女から強引に右手を奪い取れば、いよいよ激しく拒んで泣き出した。

「やれやれ、君は何を恐れているんだ?わたしはそんなに怖い顔をしているだろうか?」

「そうじゃないんです、私が、勝手に怖がっているだけで」

「わたしの隣に並ぶという行為を周囲に非難されることが恐ろしい、ということであるならば、もうその必要はないだろう。
これから君とわたしは、我々の価値を誰も知らない場所へ行くのだから。君を非難し軽蔑する人間などもう誰もいない、だから、」

「貴方がいます!」

再び伸べようとした男の手は、しかしそうした怒声と共に物凄い力で振り払われた。
自分だけはこの少女の恐れになるまいと努めてきたつもりだったにもかかわらず、目の前の彼女は、この男こそが最も恐ろしいのだと訴えている。
その途方もない認識の乖離に眩暈がした。彼は今この時まさしく、絶望していたのだ。

「貴方に見限られることが、一番怖い。私は貴方を引き留めるための全てを何も持っていない。貴方に見限られたら私は生きていけなくなる!」

……この少女の歪み過ぎた認識を改めさせるために、果たしてどれ程の時間が必要だったのだろう。どれだけの言葉を重ねれば、彼女は安心できるのだろう。
果てしない未来へと伸びる長い問答の道を思い、男はすっと目を細めた。呆れたのではない。嫌気が差したのでも勿論ない。彼は自身の覚悟を思い返していたに過ぎなかったのだ。
その茨の道を歩く覚悟ならとうにしていた。おそらくはあの穴の中で、少女が限りなく美しい笑みを浮かべたあの瞬間から、ずっと。

「……そうだな、君のその恐怖を少しでも軽くしたいのであれば、君はカロスに残るべきだ。君を必要としてくれる人は、この土地に大勢いるだろう。その方が君はおそらく満たされる。
だが、実を言うとわたしは君にそうしてほしくない。何故ならわたしも、君なしでは上手く生きられそうにないからだ」

「……」

「わたしも同じだ。わたしだって君に見限られてしまえば生きていかれない。我々は同じところにいるんだ。どうか忘れないでほしい」

できるだけ平易な言葉で、しかし説得力を持たせつつ、他の誰でもないこの少女が男にとってこの上なく大切なのだと言い聞かせる。君でなければいけないのだと言葉を尽くす。
男は少女から目を逸らさなかった。少しでも彼女の心が動いた瞬間を、決して見逃すまいと気を張っていたのだ。
触れれば弾けてしまいそうに緊張した時間が二人の間にはあった。夜が、明けようとしていた。

「嘘を、言わないでください」

「では何度でも言おう。君に嘘吐きだと罵られなくなるまで、君がわたしの言葉を信じられるようになるまで、何度でも」

さあ、と手を伸べた。長すぎる沈黙の後で少女は恐る恐る手を伸べた。しかと握り締めて「行こう」と告げた。彼女が頷いたのを見届けてから大通りへと踏み出した。
彼女はその不安そうな呼吸に似合わない、しっかりとした歩幅でミアレを歩いた。俯いていた少女の顔はいつの間にか上がっていた。男は、黙っていた。

ミアレステーションに入る直前、少女は立ち止まり、くるりと振り返ってミアレの町を見渡した。
ライトグレーの目が果たしてこの町の「何」を見ていたのか、男には推し量ることができなかった。
けれど、おそらく少女は何も見てなどいなかったのだろう。何故なら彼女の視線はただの一度たりとも動かなかったから。
彼女は隣に立つ男にも聞こえないような小さな音で、その目に収まりきらないカロスの全てに、別れを告げていたに過ぎなかったのだから。

「突然足を止めてしまって、ごめんなさい」

「構わない。いつまでも待とう。わたしは君がいないと生きていかれないのだから」

何度でも、を現実のものとするように意識して繰り返せば、少女は大きく目を見開いた。
冗談だと、本当に繰り返す筈がないと思われていたのかもしれなかった。
「あれは強情な私に向けたあやし文句だったのだ」と、そうした彼女の歪んだ認識を推測することは驚く程に簡単だった。

ミアレステーションには、大通りよりも多くの人が散見されたが、大きな荷物を抱えて自らの旅に夢中になっている者ばかりであったため、二人に目を留める者は一人もいなかった。
切符売り場へと向かい、彼は少し迷ってからとある地方へ向かうための、少々高めの切符を購入した。
時間など有り余る程にある筈なのに、彼は特急列車に乗るためのそれを選んだのだ。
あれ程拘泥したこのカロス地方から、一刻も早く去らねばならないのだと、そう思い焦っている自分に気付かされ、一人笑った。

「君の分の切符だ。しっかり持っていなさい」

「!」

彼女はその言葉に、雷を打たれたかのように硬直した。
シェリー」と、長い沈黙にそっと手を掛ける形で声を掛ければ、彼女は我に返ったようにぱちぱちと瞬きを繰り返し、そして、クスクスと笑い始めた。
至極楽しそうであるにもかかわらず、どこまでも自らの吸い込む息を恐れているような、そうした、次の瞬間には消え失せてしまいそうな、危うく歪な笑い声だった。

「私、本当は、貴方の切符が欲しかったんです。だから、貴方の手からこうして、貴方と一緒に向かうための切符を受け取ることができて、嬉しい」

その「切符」の意味するところに思い至らない程、男は愚鈍な人間ではなかった。
彼は暫しの躊躇いの後で少女の帽子をそっと取り上げ、頭を撫でた。彼女はただそれだけのことに肩をびくりと跳ねさせ、しかしやがて彼の手を喜ぶようにすっと目を細めた。

『君は切符が欲しいのか、それともわたしを止めるのか、勝負にて示しなさい。』
あの時、この少女の口から前者を請う呟きが発せられたなら、喜んで差し出すつもりであったのだと、今、男が告げれば彼女は驚いたのだろうか。


2016.10.3

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