◇
「貴方と、もっと話がしたかった」
暗闇に放たれたその柔らかい言葉が、彼女の嘘偽りのない本音であると、解っていた。
「そうだな、そうしよう」という彼の相槌に、彼女がはっと顔を上げたことが気配で分かった。
見えなくとも彼女の動きなど見て取れた、そうした距離に二人は在ったのだから当然のことだった。
周りを確かめるようにフラダリは手を動かし、特に危険なものがないと判断したところで少女の手を探した。
ぱたぱたと仰ぐように動かされていた己の右手に、少女の冷たい指が触れた。ただそれだけのことが彼には堪えた。この上なく嬉しかったのだ。
「怪我は?」
「ありません。……フラダリさんは?」
「少しぶつけた程度だ、動く分には何の問題もない。君を此処から出してやるくらいの力は残っているから安心しなさい」
その言葉が虚勢でないことを示すように強く彼女の手を引いた。バランスを崩して腕に飛び込む形となった彼女は、やがてクスクスと先程のように、至極幸福そうに笑った。
ああ、まだそんな風に笑えてしまうのかと、男は少しだけ不安になる。恐ろしくなる。
今、この閉鎖空間において天井が大きく崩れてしまえば、間違いなく二人は助からないだろう。地面というものがひどく重い代物であることを彼はよく知っていた。
カロスを旅した少女も土の重さを解っている。「貴方に殺されたくて此処にいる」とまで告げた少女が、一歩間違えれば死というこの状況を理解していない筈がない。
彼女は死がすぐ近くにあることを弁えている。だから微笑んでいるのだ。
つまるところ、彼女は今も、男と一緒に死んでもいいと思っていたのだ。そうした覚悟などとうに決めていたのだ。彼女にとって、この男と共に迎える死は祝福そのものであった。
けれど男は違う、彼にはまだ覚悟がない。この少女と共に死にたくなどなかった。
だからまだ、笑うことができなかった。笑う代わりに彼女をしっかりと腕に抱いた。
彼女がもしこの瓦礫の中で死ななければならなくなるのだとしたら、それは少なくとも自分よりも後の話でなければならないと思ったのだ。
自分が、彼女が受ける傷の全てを引き受けようと思った。彼の力は今、正しくこの少女のためだけにあったのだ。
「少し歩こう。先ずは、此処から出なければいけない」
「どうしてですか?」
ほら、彼女はそんなことを言うのだ。
ホロキャスターを取り出したのだろう、振り向いた先にいる彼女の手元は青白い光に照らされていて、その光を受けてそっと佇む少女は、やはり彼の夢見た表情をしていた。
彼がずっと願っていた笑顔だった。しかし決してこのような状況で花開くことをしてはいけない笑顔だった。そんな、美しく危うい笑顔だった。
「貴方は生き残りたいんですか?」
その言葉の裏に隠されていたのは、「貴方はこれだけのことをしておいてまだ生きたいと望むのか」という叱責だったのだろうか。
それとも「貴方が死にたいのであれば私も共に行きますから、寂しくなんかありませんよ」という甘美な絶望への誘いだったのだろうか。
解らない。読み取れない。普段から言葉を尽くすことをしてこなかったこの少女の、ここにきてようやく開くことの叶った言葉の花は、危うく頼りなく、情報に欠け、不正確だ。
読み取れないから、彼女がその問いに対してどういった答えを求めているのかも推し量ることが叶わない。叶わないから彼はそのまま、自らの思いだけを淡々と告げる。
「……わたし一人なら死を選んだかもしれない。この身を閉じ込められたそのままに封じておくこともできただろう。だが、君がいる。わたしは君に生きてほしい」
今の彼女は常軌を逸していた。微笑むことは普通の人にとって当然のことであったのかもしれないが、少なくともこの少女においては悉く異常なことであった。
だから男は彼女に対して、「正常」な言葉を紡ぐことは許されなかったのだ。異常な彼女と同じ地面に靴底を揃えて、異常な彼女に届かせるべき異常な言葉を選ぶべきであったのだ。
その結果が「わたしは君に生きてほしい」という懇願にあり、カロスの何もかもを滅ぼそうとした男が紡ぐ言葉として、それは悉く異常であったのだ。解っていた。
けれど異常な彼女に向ける言葉として異常な言葉を選んだ男はおそらく正しかったのだろう。何故ならその効果は直ぐ後に現れたからだ。
彼女の笑い声が、止んだ。
男の腕からするりと抜け出し、一歩、また一歩と後ろへ足を引いた。ホロキャスターの青白い光に照らされた彼女は、いつもの、男の見慣れすぎた表情をしていた。
驚愕、恐怖、不安、そうしたネガティブな何もかもにどっぷり浸かった、少女らしい表情だった。アンバランスな子供らしい震えが、暗闇を伝って彼の肌にまで届いた。
「死ぬことができる」と悟れば彼女は笑い、「生きてほしいと懇願されている」ことが分かれば彼女は泣く。あまりにも歪な姿を、しかし男はもう哀れだとは思わなかった。
この、触れれば壊れてしまいそうな小さすぎる存在が、どこまでも愛しかった。自分はこの少女とこうして語り合う時間を得るために、あの兵器に手を伸べたのかもしれなかった。
「君が生きるためにわたしの存在が必要であるならば喜んで尽くそう。だから、……今は手を引かれてくれないか」
もう一度、彼女の腕を強く掴み直そうとしたが、それより先にパチン、と大きな音を立ててその手が振り払われてしまった。
激しすぎる拒絶に彼は面食らいかけたが、彼女が示したのは拒絶などではなかった。ホロキャスターを取り落とし、少女はこの男に縋ったのだ。細い指は彼の両腕に伸びていた。
「本当に、貴方は私と生きてくれるんですか?私だけと生きてくれるんですか?貴方のような……立派な人が」
「!」
「だって私、そんなことあり得ないんだってずっと思っていて、だから、生きることが叶わないなら、いっそ此処で終わらせてしまえば、って。
私は、此処で貴方に殺されることが一番幸せなんだって、そう信じて此処まで来たんです。なのに……」
この少女はこの場に及んで、何もかもを否定され奪われた男のことを「立派」などと形容する。
彼女にとってこの男の存在はどういった意味を持つのか、その言葉があまりにも克明に示していた。彼女は神に許しを請うように縋っていた。
神は、暫く迷った。
「……わたしは立派などではない。現にこうして君に敗れた。君がわたしと生きたいと思ってくれるのだとして、それを決定する権利はわたしではなく君にあるんだ、解るね?」
「……」
「わたしが君を傍に置くのではない。君が、わたしを連れて行くのだ」
君はわたしを置いていくことも、わたしを殺すことも、わたしと共に生きることもできる。
だから選びなさい。君がどうしたいのか解らなくなった時にだけ、わたしは君の手を引こう。君の代わりに君の最善を選んでみせよう。
自らの持ち得る何もかもを少女に譲渡し、男は少女の次の言葉を待った。
足元に転がっていたホロキャスターの光が再び落ちた頃、顔を見られる心配のなくなった少女は再び笑い始めた。
男はまだ、笑えなかった。しかしその笑い声をもう恐ろしいとは思わなかった。
やがて笑い声が徐々に小さくなり、その声が震え始め、別の音が混ざり始めた。男はようやく安心して彼女の手を探った。今度は振り払われなかった。
この少女の笑顔が見たいと望んでいた筈なのに、いつもの嗚咽の音を、彼女が恐怖と不安に身を強張らせていることを証明するその喉の震えを、拾い上げてようやく安心できる。
そんな彼もその実、随分と歪んでいたのだろう。構わなかった。
異常な者の前で正常に振る舞うことはひどく難しく、異常を呈することこそが自然だったのだろうと思えた。
許すことを悉く拒んできた筈の男は、しかしこの少女の全てを許す準備を始めていた。
「貴方と生きたい。貴方だけと生きたい。私はもうカロスには居られない。私や貴方を誰も知らない、遠くへ行きたい。
フラダリさん、貴方は……カロスを捨てられるんですか?」
「カロスを捨てる?……少し違う、わたしがカロスに見限られたのだ。君がそうであるのとはまた別の理由で、わたしももう、カロスには居られない」
少女の足元に落ちたホロキャスターを拾い上げて、彼女の手にそっと落とした。彼女はあまりにも強くそれを握り締めてから、空いている方の手を男に伸べた。
真っ直ぐにこちらを見上げる目が、あまりにも覚悟に満ちた色をしていたから、男は心から安堵してその手を取った。彼女は嗚咽の余韻を暗闇に落としながら、歩き始めた。
たった一人を守ること、たった一人に希望を抱かせ生きたいと思わせること。ただそれだけのことがこれ程までに労を要することであったのだと、男は初めて知った。
神の力を手にしたところで彼女を救うことなどできなかったのだ。
……たった一人を救えないのに、どうしてこんなにも広大な美しい何もかもを守れると思ったのだろう。
……たった一人を殺す度胸さえなかったのに、どうして全てを滅ぼすことが美しさを保つために必須であると考えていたのだろう。
彼は思い上がっていたのだ。彼は図り違えていたのだ。そのことに気付くまでに、あまりにも長い時間がかかってしまった。
長い思い上がりの果てに、彼が救うことの叶ったのはたった一人だ。
けれどこの愚行で、この少女とこうして語り合うだけの時間を手に入れた。長い時間、このカロスで足掻き続けて、ようやく、二人には十分すぎる猶予が訪れたのだ。
それで十分だと思えた。今の彼等には他のものなど何も要らなかった。
「私と生きてください」
半歩前を歩く少女から、嗚咽混じりのそんな言葉がかけられた。少女が笑えなくなって初めて男は笑うことができた。
悉く相容れなかった筈の、二人の時間がこの闇の先へと伸びていた。
2016.9.30