1-2

シェリー、と繰り返し少女の名前が呼ばれていた。
しかし彼女は「シェリー」というその音が彼女自身を示す記号であることを、すっかり忘れてしまっているかのように茫然と立ち尽くしていた。
悲痛な子供達の叫びなど聞こえていないかのように、少女は深く俯いていた。
細く小さな手から、伝説ポケモンの入ったマスターボールがするりと抜け出し、地面にコロコロと転がって止まった。
駆け寄ってきた少年は彼女の腕をぐいと掴んだが、顔をゆっくりと上げた少女に何を見たのか、顔色を青ざめさせてぱっと手を放し、くるりと踵を返して走り去ってしまった。

彼等の足音が完全に消えてしまった頃、少女は長い髪をふわりとはためかせながら、男の方へと振り向いた。ストロベリーブロンドのカーテンに隠れていた彼女の顔が、見えた。
そしてようやく男は、あの少年が顔を青ざめさせていた理由を知る。

少女は、笑っていたのだ。今のこの状況が悉く幸福であるかのように、喜びを噛み締めるように、全てを諦めたように笑っていた。
起動の準備を始める、花の形をした最終兵器の轟音が、彼女に聞こえていない筈がない。
これを死の足音と聞くことは簡単にできる筈なのに、そう捉えることこそが妥当である筈なのに、少女はその足音こそ、自らにもたらされた祝福であるのだという心地を崩さない。

少女は逃げない。この空間から出ていかない。

「逃げなさい、シェリー。君が死ぬ必要など何処にもない!」

轟音に掻き消されないよう、大声でそう促せば、しかし少女はおどけたように肩を竦めてクスクスと笑い始めた。
美しい笑顔だと思った。男は彼女のそうした笑顔を見たかった筈だった。そのための力を手に入れるため、男はこの美しい土地から何もかもを奪った筈だった。
しかし少なくとも、それは今であってはいけなかった。死の足音を聞きながら作る表情としては、その美しい微笑みはどこまでも不相応なものだったのだ。
彼女が何もかもに怯えない世界が、この兵器を使えば実現するのだと信じていた。この力を手に入れれば、彼女の、不安に陰ることのない笑顔を守ることが叶うのだと思い込んでいた。
そして事実、彼女はこうして笑っている。けれど、違う。

「貴方は何か勘違いをしています、フラダリさん」はっきりと大きな声で紡がれたその音は、どこまでも彼女らしくない、尊大で傲慢なものだった。
……ああ、君らしくない。君はそんなにはっきりとした音で言葉を紡ぐことの叶う人だったのか。君のか細い喉は、そんなにも大きな幸福の音を奏でることができたのか。

「私を殺すのは他の誰でもない、貴方です。私は貴方に殺されたくて此処にいるんです」

彼女はこの空間で死ぬことができるからこそ微笑んでいる。自分に殺される幸福を噛み締めている。その事実は男に息が止まる程の衝撃を与えた。
自らの選択が間違っていたのだと、誰にどんな叱責を受けるよりも、彼女の笑顔が力強く彼の過ちを浮き彫りにした。立っていられなくなる程の強烈な眩暈が男を襲った。

この少女が笑うためには、彼女が死ななければならなかった。
命という重いものを背負って微笑むには、彼女の心はあまりにも小さく非力で、脆かった。
大きすぎる程の力を携えている筈の彼女は、しかし誰よりも無力だったのだ。自らを自らで支えることができない程に、脆い存在だったのだ。
そうした少女の全てを、しかし男は受け入れることができない。その事実が微笑みという残酷な形で優しく差し出されても尚、違う、と駄々を捏ねるように拒み続けている。

「……貴方の命は貴方だけのものだけれど、私の命は貴方のものだから」

己が持つべき何もかもを男に譲り渡した少女は、どうしようもない程に美しく微笑んでいる。男にはその笑みを咎めるだけの言葉がない。
男は拳を強く、強く握りしめた。彼女がいつもそうしていたように、手の平に爪を食いこませていた。
痛覚に激情を訴えればいくらか冷静になれたが、それは今の状況を好転させてなどくれなかった。

男には死ぬ覚悟があった。
この機械が暴発して、己の命に永遠を与えるどころか、寧ろ命を縮めてしまう、あるいは一瞬にして奪ってしまう可能性さえもあるのだと、
そうした想定ができない程に男は愚かではなかったのだ。そうした覚悟ならとっくに済ませていた。
けれどそうした覚悟を決めていた男は、自らを殺す覚悟を決めていた男は、しかし少女を殺すだけの覚悟を持っていなかったのだ。彼女と共に死ぬ覚悟などできる筈がなかった。

わたしは、この子を生かすために神の力を手にしたのではなかったか。カロスから奪った何もかもは、少なくともこの少女を微笑ませる力を持っているのではなかったか。
神の力が何もかもを消し去ってしまえば、少女はようやく微笑んで、そしてこの地で生きることを選んでくれるのではなかったか。

カロスの全てに心を開くことの叶わなかった臆病な少女だった。そんな中で、しかし自分にだけはようやく心を許してくれるようになった、控えめで繊細な少女だった。
カロスへの恐れを抱えながら、それでもこの地を見限ることなく己と戦うことを選んでくれた、か弱く儚い、けれど力強い少女だった。

そんな彼女を、何もかもを持ちながら何もかもに欠け過ぎたこの少女を、この冷たい空間の中に己と共に埋めてしまうなどということが、決してあってはならないのではなかったか。
彼はこの少女を救いこそすれ、決して殺してはいけないのではなかったか。
この、二人しかいない冷たい空間において、唯一この男だけが、この少女に手を伸べることができるのではなかったか。
男は殺すためではなく、彼女を救うために手を伸べなければいけないのではなかったか。

わたしは最初から間違っていたのだと、そう悔いた時にはもう遅かった。美しい兵器は暴発の準備を既に始めており、花の額には目を穿つ鋭い光が瞬き始めていた。
後悔に震える足を叱咤して暗い地面を蹴った。嬉しそうに微笑む少女の腕を縋るように取った。

「来なさい!」

夢中で彼女の腕を引いた。冷たい床を蹴ってドアから冷たい廊下に飛び出した。一歩でも遠くへと夢中で足を動かした。
彼女の靴が脱げるのと、天井に大きなひびが入るのとが同時だった。ガラガラと音を立てて崩れていく何もかもから、この少女のみを守るように両腕で強く抱き込んだ。
花の爆音と、崩壊していく施設の雑音。それらは大きく鋭く彼等の耳をつんざいた。
けれど、この大きすぎる音の嵐の中にあっても、男は腕の中の少女がはっと息を飲む音を聞くことが叶っていた。それが彼の全てであったから、当然のことだったのだ。

男の背中を強い衝撃が襲った。けれど彼は呻き声一つ上げることなく、ただ一層、少女を抱き締める力を強くするのみであった。
少女は男の腕の中でただじっと身を固くしていた。おそらくはこの時、少女の息は止まっていたのだろう。
「貴方に殺されたい」と美しい笑みでそう告げた彼女は、しかし男の腕から抜け出ることはしなかった。ただ驚愕にその目を見開いて、彼の強い腕に閉じ込められていた。

彼が手にしていた筈の何もかもが崩れていった。
瓦礫と化しつつあるこの空間の全てが、彼のしたことなどただの徒労に過ぎなかったのだと訴えていた。ガラガラと崩れ落ちる全てが彼を裏切り、彼を傷付け、彼を嗤った。
構わない、と思った。誰もに見限られようと構わなかった。誰が彼を嗤おうと知ったことではなかった。
誰もに称賛され、美しいカロスに迎え入れられたとして、けれどそこに彼の望んだものがなければ何の意味もない。
多くに手を伸べすぎたが故に、たった一人を、それを他でもないこの少女を取り零すようなことがあってはならない。そんな後悔は許されない。

長い、長い時が流れ、男はそっと目を開けた。
電気はこの崩落で完全に落ちてしまっているらしく、視界を完全な闇が覆い尽くしていた。
遠くでまたガラガラと瓦礫が崩れる音が聞こえた。吹き荒れていた轟音の嵐はぴたりと止んでいた。

「……すまない」

やっとのことで吐き出したその音は、少女が飲んだ息のように震えていた。
少女は自分と、自分を庇うように抱き締めたこの男が、生き埋めとなったこの状況下において尚、規則正しい呼吸をしていることにただ驚いていた。
互いの命の音が聞こえる距離に二人は在った。抱き締めた腕はまだ、緩められなかった。

「君を殺せなかった」

「……」

「君の勝ちだ、シェリー。わたしは君に敵わない。敵う筈がない」

暗闇の中に男の嗚咽が響いていた。少女の嗚咽は、聞こえなかった。
この暗闇で何も見えていないにもかかわらず、少女は男の方へと手を伸べた。彼の水がどこから溢れているのかを彼女は解っていたのだ。
真っ直ぐに男の頬に、目元に触れて、いつしか男が少女にそうしたように、あまりにも自然な調子で、彼の後悔が溶けた液体を拭い取った。

「わたしを許してくれ」

少女はもう片方の手を男の背にそっと回した。僅かに力を込めれば何倍もの力で抱き締め返された。息が止まってしまいそうだと思った。構わなかった。
けれどこの人が生きてくれるのなら、息を止めなくてもいいのではないかと、彼女は少しだけ、そう思えた。
大きな背中の震えが収まるまで、二人はずっと、こうしていた。彼等に与えられた時間を割く者は誰もいなかった。


2016.9.27

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