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町の通りに植えられた緑の、四角に切り揃えられた低い塀のような木は、死ぬまでずっと虚しい緑のままなのだろうと、何故だか私は当然のようにそう思っていた。
だからその、ブロックのような無骨な木を話題に出したあの人が「もう直ぐ花が咲くんだよ」と告げて笑った時、私は息が止まるほどに驚いたのだ。
けれど私の心はあの人の言葉を信じていなかった。驚愕の後に浮かび上がったのは感動ではなく、憐憫だった。
ああ、この人はこの、緑に生い茂るしか能のない植物が花を咲かせると思い込んでいるのだと、なんてめでたい、滑稽な人間だろうと、本気でそう思い、憐れんでいたのだ。
そして、このめでたい人よりは優れた心を持っているであろう私の諦念が、ほんの少しばかり、誇らしかったのだ。
私は悉く醜い人間だった。花を結ばない木のような、見苦しく息苦しい人間だった。

『赤と白の花を咲かせるの、とっても綺麗な春の一等星よ。』

歌うようにそう告げて笑ったあの人は、今、どうしているだろう。
あれから私は一度も彼女に会っていない。あれ程お世話になったにもかかわらず、私はその全ての恩を忘れたかのように、この地から遠く離れた場所でのうのうと生きていた。
彼女の言葉を忘れた訳ではなかったけれど、それでも自らの歩みをたった一人で振り返ることはとても恐ろしかった。
けれど、私と共にいてくれるのなら誰でもいい、と無差別に縋れる程に私は恥知らずな人間ではなかった。

歪に膨れ上がり過ぎたプライドを、きっとあの人なら笑ってくれたのだろう。笑いながら、優しい言葉を掛けてくれたのだろう。
その、何もかもを見透かしたような彼女の笑みに、「貴方に何が解る」と憤るだけの激情はもう残っていなかった。心はただ穏やかで、寂しかった。
凪ぎすぎた心の理由はよく解っている。会わなかったせいだ。会えなかったから、寂しかったのだ。それだけの話で、しかしそうした寂しさも、慣れてしまえば呼吸の一部になった。
私はずっと寂しかったのだと、今日もこれまでと何ら変わりないのだと、そう言い聞かせれば私の苦痛などなかったことになる。

人は、苦しみすぎると苦しみを忘れるという。自らが苦しんでいることすらも忘れてしまう程に、人はただ愚かであり、私だってただの人に過ぎなかった。
私が愚かだったから、こうして驚く程に落ち着いた呼吸を続けることが叶っている。会いたい人が現れずとも、生きている。
「彼」のいない世界に意味などないと、あの時確かにそう思った筈なのに、……今では彼が戻ってきたとして、この世界に意味を見出せるかどうかも解らない。
私は苦しみを忘れたと同時に、「彼」がいた世界にもたらされていた幸福も忘れてしまったらしい。とても性格の悪い人間だと思った。

『人は自分が苦しんでいることを忘れることができるけれど、自分が幸せだってことも簡単に忘れてしまうの。人はそうした、業の深い生き物なのよ。』

業、という言葉が何を意味するのかよく解らなかった。今もよく、解らない。考えることは私にとって悉く難しく、皆の思考に及ばない私自身にほとほと嫌気が差すばかりだった。
学ぶことは恐ろしく、踏み出すことは私にとって針の山を歩く程に苦痛だった。

世界を閉じてはいけないと知っていた。歩き続けなければいけないのだと解っていた。
けれど嫌だった。苦痛だった。どうしようもない程に恐ろしく、恐怖に震える足で確かな歩幅など刻める筈がなかった。
世界を一つ閉ざす度に、何処かで誰かが私を責めた。みっともないと非難の声がした。弱い子だと嗤う音が耳を穿った。

逃げてもいいよと、貴方のしたいようにしてもいいよと言われても、私はなかなかその自由を認めることが叶わなかった。
そんな放任的なことを言われるなんて、私はついに見限られたのだ。見捨てられたのだ。だから貴方は私に優しくなったのでしょう。
そうした言葉を並べること、残酷な事実を認めることは、死ぬことなんかよりずっと恐ろしい。私が私で在ることの意味を奪われる虚しさは、きっと多くの人には解るまい。

恐怖に急き立てられ、私は努力し続けた。努力し続ければ皆は優しくなった。私に力がなくとも、私の虚しい努力に応えてポケモン達は強くなった。
貴方達も、私が努力をやめれば私を見限るの?……私を慕う彼等にそう尋ねることすらできなかった。
私は私に近しい存在程、恐ろしかった。ポケモンも、博士も、親友も、全て恐ろしかった。
だから私は努力した。努力している振りを続けた。……そうして、私は疲れていった。

人と喋れない私、努力をしない怠惰な私、言葉を尽くせない臆病な私、全て、全て嫌いだった。
けれどそうして、私が一番私を嫌っているにもかかわらず、私は「私を嫌わないで」と誰彼構わず無差別に懇願を続けていた。
声に出したことはただの一度もないけれど、そのたった一つの懇願だけが私の確固たる、揺らぎようのない主張だった。

『いつか、貴方を苦しめたあの土地で、貴方の大好きな皆と、楽しいことをしてごらん。
貴方は笑ってあの町を歩けるようになっているから。貴方は何処でも、生きる場所を選べるようになっているから。』

そんなことあり得ない、と、真っ向から否定したその言葉が、しかし今、現実のものになりかけている。
私は、赤と白の花が咲き乱れるこの優しい土地から離れて、遠く、この花の咲かない土地へと向かっている。
あの時と同じ、8両編成の車両の3両目に乗って、一番前の座席に座った。ブロックのような植え込みに咲く赤と白を見送っていた。
冷たいガラスにぴたりと手を貼り付けて、ただ茫然とそれを眺めていた。瞬きすら忘れていた。

「綺麗でしょう」

弾かれたように顔を上げた。
座席の向かいには一人の少女が座っていた。誰もいない座席を選んだ筈なのに、いつの間にか音もなく現れていた人間の存在に私は驚き、狼狽した。
けれど狼狽することさえも間違っているのだと言わんばかりの、何もかもを飲み込むような琥珀色の瞳に見つめられて、私は怖くなった。ふい、と目を逸らした。
彼女のことが嫌いだった訳ではない。断りを入れずに座席へと腰掛けたことを怒っているのでもない。ただ、恐ろしかったのだ。
私が他者を拒絶する術など、この身を縛る恐怖の他にありはしなかった。

彼女はそんな臆病な私を笑うことはせず、ただ沈黙を守って窓の外へと視線をずらした。まるで私の見ているものを追っているようなその慈悲深い視線に、気持ちが悪くなった。
早く何処かへ行ってくれないかしら、と思った。いや、いっそ私が席を立てばよかったのかもしれなかった。平日の昼間、空いている席はこの他にも沢山あるのだから。
そう、彼女の視線から逃げることは簡単にできたのに、臆病な私はそうして然るべきであった筈なのに、そうできなかった。私は座席から身を浮かせることができなかったのだ。

「この時期だけ、自然公園からミツハニーがこの町に飛んでくるんだよ。あの花の蜜はとても甘いの。私も真似をして吸ってみたことがあったけれど、とても甘くて美味しかった」

「……」

「今日は特にミツハニーが多いね。明日、雨が降ることをポケモン達は解っているのかな」

「雨が降ると、花の蜜を集められなくなるんですか?」

何故か私は口を開いていた。彼女から目を逸らしたままにそう尋ねて、自分の口から思わず零れ出てしまったその音を恥じるように、深く、深く俯いた。
けれど彼女は私の、そんな言葉を喜ぶように笑った。まるで「私が此処にいると認めてくれたことがとても嬉しい」とでも言うような、とても無防備な、真摯すぎる笑みだと思った。
恐ろしい。この少女が恐ろしい。あの子に、あの人に、少しずつ似ているこの少女が怖い。

「雨が降るとあの花は萎れてしまうの。とても脆い花だから、強い雨や日差しに曝されるとあっという間に枯れちゃうんだ。だから今日が、あの花の蜜を集められる最後の日なのよ」

やわらかく発せられたあまりにも残酷な言葉に、一瞬、頭の中が真っ白になった。
今日、今日しかないのだ。明日には雨が降る。雨が降るとこの花は一斉に萎れてしまう。たった今、会ったばかりの少女の言葉を鵜呑みにして私はショックを受けた。
明日、枯れてしまう。……ということは、私は「彼」とこの綺麗な花を見ることが叶わないのだ。ささやかな、些末な約束さえも果たすことができないのだ。
無残に萎れた赤と白の花を見て、彼はどんな顔をするのだろう。見たくないと思った。けれど同時に、見なければならないのだと知っていた。

「雨が降らなければいいのにって思う?」

「……貴方は、そうは思わないんですか?」

「ええ、思わないわ。明日という日に雨が降ることにはきっと意味があると思うから」

歌うようにそう告げて彼女は笑った。不気味な、不思議な人だった。
彼女の、針金細工のように細い指が、小さな白い傘を愛おしむように何度も撫でているのを、ただ茫然と眺めていた。私の意識はいつの間にか、あの花から遠く離れていた。
やがて彼女は立ち上がり、「さようなら」と告げて小さく首を傾げた。首元で二つに結ばれたダークブラウンの髪が、彼女の動きに合わせてぴょこんと動いた。
まるであの花の死期を告げるためだけに現れたようなこの少女が不気味だった。不思議だった。悉く神秘的な少女だった。
だから私は、この少女ならきっとあの花の全てを知っているのだろうと、思ってしまった。

「あの花に名前はあるんですか?」

咄嗟に飛び出たその言葉を、しかし去り際の彼女は拾い上げてくれた。ポケットからメモ帳と変わった形のペンを取り出して、メモ帳にすらすらと書きつけてくれた。
小さなメモを更に折り畳んで、彼女は「はい」と私に差し出した。受け取ろうと手を伸べれば彼女の細すぎる指に触れてしまった。氷のように冷たい手だった。
メモを開けば、あの花の名前らしきものが、赤いインクで私の目を穿ったけれど、私はその文字を読むことができなかった。

読み方を尋ねようと顔を上げれば、彼女は既にいなかった。

『明日という日に雨が降ることにはきっと意味があると思うから』

平易な言葉で紡がれていた筈の彼女の言葉、それはしかし悉く難しいものだった。
明日に雨が降ることの意味。私と「彼」との約束を雨が破る意味。花が枯れる意味。何もかもずっと美しいままではいられないのだという、悲しい真実が存在する、意味。
難しいことは考えたくなかった。だから私はメモ帳をぎゅっと握り締めた。くしゃり、と赤い名前が歪んだ。

もし私がこの花の名前を読めたなら、明日、雨は止むかしら。


2016.9.25

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