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「外へ出ないか」という誘いに応じてくれる回数が、少しずつ増えていることにフラダリは気付いていた。
臆病な目と卑屈な言葉はそのままに、彼女はフラダリのすぐ隣を付いて回った。手を差し出せば取ってくれたが、握られはしなかった。
あまりにもささやかな、遅すぎる変化は、しかし彼を安堵させるに十分な温もりを持っていた。
その確かな変化を噛み締めるように彼は握った手に力を込めた。握り返されないと解っていながら、そうせずにはいられなかったのだ。
ポケモンとトレーナーが共に歩くという風習に馴染み過ぎているこの町で、しかしポケモンを1匹も持たない少女と、ポケモンをボールから出さない男の姿は少しばかり目立つ。
彼女もそれを解っているのか、深く俯く癖は程度を増した。肩が凝るのではないかと心配になる程に首を曲げ、決して顔を上げようとしなかった。
それが恐怖に支配された彼女がなし得る「精一杯の処世術」であるのだと、解っていたからフラダリは、アスファルトを睨み下ろすばかりの彼女を咎めなかった。
前を見ることができない少女の代わりに、フラダリはその小さな手を引いてゆっくりと歩いた。
盲目の少女を介助しているようなその姿が、次第にこの町の名物になりつつあるのだということを、二人はまだ知らなかった。
お好み焼きや焼きそば、散らし寿司といった、ジョウト地方では割と有名であるらしい食べ物を、その日の気分で購入した。
晴れた日は北のゲートを抜けて、自然公園で昼食を摂った。日差しにより温められた木製のベンチに腰掛ければ、彼女はようやく顔を上げて、息を吐いた。
紫色の丸い身体をした、大きな赤い目を持つポケモンが、こちらをひょいと覗いたかと思うと、すぐに背の高い草むらの中へと消えてしまった。
焼きそばをまるでパスタであるかのように、フォークを使ってくるくると巻き取る二人の姿を、少年達がからかうように嗤い、走り去っていった。
手酷く傷付いた表情を浮かべるのだろうと思われていた彼女は、しかしその小さな背中を見送りながらクスクスと笑っていた。
男の予測を裏切った彼女は、「貴方でも嗤われることがあるんですね」と告げて肩を竦めた。
鉛色の目をすっと細めた彼女は、自分の恥ではなく寧ろ男の醜態の方に意識を移すことで何とか平静を保っているようだった。
それを嬉しく思っていたのだから、いよいよ彼だっておかしかったのだろう。
自然公園を抜けた先、エンジュシティにも何度か立ち寄った。
歌舞練場という建物からは、和楽器の音が絶えることなく聞こえていた。
その音色に呼ばれるように足を踏み入れれば、美しい衣装を身に纏った女性が舞台の上で、シャワーズやサンダースといったポケモンと共に踊る姿が二人の目に飛び込んできた。
エンジュのゆるやかな方言を操り微笑む5人の女性、彼女達が着ていた「着物」は、カロスでも稀に見かける「振袖」のルーツであるらしい。
年若い少女達が着ていた、丈の短いあでやかな振袖に比べて、エンジュの女性達が身に纏うそれは随分と重く、硬く、窮屈そうに思われた。
後日、朝食の席でそう口にすると、クリスは笑いながら「試しに着てみませんか?」という提案と共に、着付け体験のチケットを2枚譲ってくれた。
重い衣服に袖を通し、窮屈そうに見える帯を締め、キラキラとシャンデリアのように輝く重いかんざしを頭に刺した彼女は、しかし存外、眩しかった。
とてもよく似合っているとありのままを伝えれば、彼女は呆れたように笑いながら「ごめんなさい」と歌うように告げた。
そう紡ぐことで彼女が幾ばくか楽になれることを知っていたから、この謝罪は彼女が、フラダリの賛辞を受け取るために必要なものであると心得ていたから、
彼は息をするように謝罪をする彼女を、ただ笑って許した。
着物もさることながら、足元を飾る下駄というものもかなり履きにくい代物であった。
足枷としか思えないその履物に足を通した彼は、あまりにも小さな歩幅でしか歩くことが叶わなかった。
普通に歩くことすら困難を極めていたフラダリを見ながら、歩くことを完全に諦めた少女はクスクスと笑っていた。彼女は当然のように、赤い鼻緒の下駄を選んでいた。
以前、フラダリが一人でこの町に赴いた際に購入した羊羹、あの店にも少女を連れてもう一度立ち寄った。
同じ羊羹を再び購入し、「他に欲しいものはないか」と尋ねれば、フラダリの予想に反して、彼女は次から次へとその細い指で美しい和菓子を指さし始めた。
星のような形をした小さい砂糖菓子、きな粉と呼ばれる大豆の粉を贅沢にまぶしたわらび餅、黒蜜をかけて食べる葛切り、角砂糖のような白さを持つ淡雪かん。
竹製の籠に次々とそれらを入れ、気が付けば溢れんばかりになっていた和菓子を見て少女はさっと青ざめたが、
フラダリが何食わぬ顔で「これを」とレジへ差し出せば、申し訳なさと驚きと、そして少しばかりの歓喜を滲ませた声音で「ごめんなさい」と告げた。
「沢山買ってくださったからおまけしておきますね」と、鶯色の着物を着た女性は笑い、練り菓子と呼ばれる美しい細工の施された菓子を2つ、追加で袋の中へ入れてくれた。
赤と白の、星のような花を模した生菓子だった。
帰り際、自然公園に寄り道をして、いつものベンチでその生菓子を食べた。
楊枝で切り取り口に運ぶのが正しい食べ方である……と、同封されていたパンフレットにはそのように記されていた。
しかしフラダリが楊枝を手に取るより先に、少女は微塵の躊躇いも見せることなく、ひょいとその赤い生菓子を取り上げて口の中へと放り込んだ。
思わず声に出して笑いそうになったのだが、それより先に少女が「美味しい」と嬉しそうに告げたので、彼は自らの中に吹き荒れた衝撃を押し留め、静かに微笑んだ。
そして彼もまた、楊枝の存在をなかったことにして白い生菓子を取り上げ、口に運んだ。
百合を模しているとばかり思っていたこの生菓子にはまた別の名前が付けられているようであったが、難解なその文字を、フラダリは読むことができなかった。
自然公園とエンジュシティを繋ぐ道路には、カロスでは見ることの叶わない不思議な木が自生している。
季節にかかわらず常に実をつけているらしい、その丸い実を、少年達が競うように拾い集めていたため、フラダリも気になって2つ程、持ち帰っていたのだ。
これは調理できるものなのかとクリスに問いかければ、彼女は困ったように笑いながら、
その木の実は「ぼんぐり」というものであり、食用ではないこと、南の町でモンスターボールに加工してもらえることを教えてくれた。
コガネシティの南に広がる暗い森を抜けると、ヤドンが生息する静かな町に辿り着いた。
ぼんぐりをボール職人に預けてその日は引き返し、翌日、再び職人の家を訪ねれば、威勢のいい掛け声と共に2つのボールを譲ってもらえた。
黒と青のヘビーボールと、黄色と黒のレベルボールが、実際の捕獲でどのような効果を持つのか、フラダリも少女も知らないし、尋ねなかった。
ぼんぐりがボールになるという素晴らしい伝統工芸に触れるためだけにこの町を訪れたのであり、手に入れたボールを実際に使用するなどという考えは互いに毛頭なかったのだ。
寧ろ彼女は「モンスターボール」という、カロスでの旅を連想させる道具を拒むのではないかと思われたが、
フラダリのそうした危惧を裏切り、彼女は「一つ貰っていいですか?」と確認を取ってから、青と黒のボールを選び取った。
「君は青が好きだったのか?」と尋ねれば、しかし彼女は激しく首を横に振った。表情を凍らせた彼女の、こちらを見上げる鉛色の目はただただ依存を極めていた。
ヤドンの町とコガネを繋ぐ薄暗い森の中で、フラダリはいつものように少女へと手を伸べた。彼女は珍しく握り返してきた。
この日、この瞬間には「珍しい」と思われていた彼女のその、ささやかな手の力は、しかし数日も経過すれば当然のこととなった。握り返されることに、彼は慣れ始めていた。
名前も解らない見知らぬ町、初めて歩く森や小道、見たことのないポケモン、伝統衣装に伝統工芸、美味しい和菓子。
男と少女はこの土地での生活をあまりにも穏やかに過ごしていた。ジョウト地方の人間は気さくで、陽気で、ポケモンのことを心から愛していた。
そうしたジョウトの中心地、コガネシティに留まり続ける二人を、アポロもクリスも歓迎した。
このままずっとこうしていることが許されているかのような、そうした優しすぎる時間が流れていた。
けれど時折、思い出したように少女は顔をさっと曇らせ、重く暗い言葉を零す。
私はこんなところにいてはいけないのだと、貴方は私の隣にいるべき人ではないのだと、逃げてきた身である私が、簡単に「楽しい」なんて思ってはいけないのだと、
時に悔いるように、時に許しを請うように、時に自らを責め立てるように、戒めるようにそう零した。
少女の憂いは悉く深かった。男は憂えていない振りをして少女と真剣に向き合い続けた。
コガネシティの通りに生える木が、エンジュよりも少し遅れて色付き始めていた。その赤は、二人がカロスを出てから既に2か月が経ったことを、あまりにも鮮やかに示していた。
「それ」が必要な時間だったのかと問われれば、おそらく男にとっては不要なものであったのだろう。
彼はもう随分前に、己を省みることをやめてしまっていた。
そうした課題はとっくに終えていたのであり、あとは彼が自らの罪を償うための場に赴くだけで、その覚悟を決めるだけでよかったのだ。
だからこそ男は弁えている。これは自らのための時間ではなく、彼女のための時間であることをいつも、いつでも心得ている。
臆病と卑屈を極めた彼女が、それでいて一度心を許した相手には際限なく凭れ掛かる悪癖を宿した彼女が、しかし少しずつ、本当に少しずつその心を開いていく姿を、見守っている。
一度は極限まで世界を閉ざし、フラダリ以外の何もかも、……そう、自分の存在さえも拒んでいた彼女が、
旅を連想させる道具を、彼女を愛するポケモンを、彼女の親友を、彼女自身を、受け入れられるようになる日を、待っている。
ともすれば永遠を費やしても叶わなかったかもしれなかったその「変化」は、飽きる程に緩徐なそれでありながら、しかし確かに存在していた。
彼女にその変化をもたらしたものの正体など、彼には見当もつかなかった。けれどそれが「何」であろうと構わなかった。
重要なのはその変化こそが彼女を生かしているという事実にあり、彼にとっては真に、彼女が生きていてくれるだけでよかったのだから。
彼女を喪ったことなどないにもかかわらず、彼はどういうわけか「彼女が生きている」ことの尊さを知っていたのだから。
2016.11.13