◇
子供が泣いていた。指針を失った船のように、右へ左へよろよろと歩きながら、しきりに「お母さん」と彼の指針を呼んでいた。
彼のパートナーらしきガーディが、小さな尻尾を頼りなげにアスファルトへと垂らし、心配そうに彼を見上げていた。
彼女はそこにポケモンがいることも、自らが悉く空虚な存在であることも忘れ、ただ「子供が泣いている」という事実だけをその目に映し、駆け出した。
随分と痩せて細くなった彼女の足は、けれど迷うことなく子供の方へと向けられていた。彼女は夢中で男の子のところへと駆け寄り、膝を折ってその喉を震わせた。
「どうしたの?」
その瞬間、少女の顔色がさっと青ざめたのを、フラダリは確かに見た。
「お母さんが見つからない」と嗚咽混じりに告げる男の子と、愕然とした表情で硬直する少女の図式はあまりにも歪で、危ういものであった。
フラダリは慌てて駆け寄り、少女が本来紡ぐべきであった筈の言葉を引き取る。男の子は大柄な男性の登場に少しばかり怯みながらも、か細い喉を震わせて懸命に助けを乞う。
「では君のお母さんを探さなければいけないね。さあ、泣き止みなさい。そんな目では君のお母さんを見つけられないよ」
努めて優しい言葉を選ぶフラダリの背に少女はさっと隠れた。
先程までの勇敢さを忘れたかのようなその行動が、しかし彼女のどういった心理によるものであるかを、解っていたからフラダリは彼女の奇行を許した。
彼女は自分が臆病であったことさえも忘れていたのだ。
疲弊による感情の麻痺は彼女から怯えを取り除いた。だから彼女はあの部屋を出た。フラダリの手を取った。子供へと駆け寄った。
それまでの彼女の勇敢さが異常だったのであって、今の彼女は、何もかもに怯える目を取り戻した彼女は、何もおかしくなどなかったのだ。
寧ろおかしいことがこの少女にとって正常であったのだ。だからフラダリは驚かない。彼女の臆病を咎めない。自らの臆病を思い出してしまったこの少女を、責められない。
長い時間、子供が泣き止むのをフラダリはじっと待っていた。
臆病な少女と泣き虫な男の子を連れて、この賑やかな町を歩くことは少々、骨の折れることであるように思われていたのだが、その心配は杞憂であった。
そうした覚悟を決めるより先に、少年の名前らしき単語を繰り返しながら、大通りを早足で渡る女性の姿を見つけることができたからだ。
フラダリはその長身を生かして片腕を大きく挙げ、「すみません」と女性に男の子の位置を示した。女性はその顔をわっと崩して駆け寄ってきた。
すっかり泣き止んだ男の子とは対照的に、女性は張り詰めていた恐怖の糸が切れたかのようにわっと泣き始めた。
自らを窒息させる程の安堵を飲み下すことができず、安堵を吐き出すように嗚咽を漏らしていた。男の子は不思議そうに母を見上げていた。少女は、目を逸らしていた。
「お姉ちゃん、ありがとう!」
そうして去り際、男の子は彼女の言葉を引き取ったフラダリにではなく、異常な勇気を発揮した臆病な少女へとお礼の言葉を告げて、微笑んだ。
彼女は驚いたように立ち尽くしていたが、やがて激しく首を振った。けれど彼女が否定の意を示した頃にはもう、親子は二人に背を向けて歩き出しているところだった。
「世界は勇敢な人を歓迎するように出来ている」
その背中を見送りながら、フラダリは徐にそんな言葉を口にする。少女は何も言わず、沈黙で僅かな相槌を示すのみであった。
「勇気を振り絞って一歩を踏み出す、それがどれだけ大変なことであるかを、皆、とてもよく解っている。
……君は、あの美しい土地に招かれるに相応しい人間だったのだよ、シェリー」
「私が勇敢であるように見えたのなら、きっとその勇敢な姿の中に本当の私はいない」
つい数分前の勇気ある自身の行動を完全に否定するかのような、あれは私ではないと先程の歩みと時間をばっさりと切り捨てんとするような、冷たい、淡々とした声音だった。
男の子の「ありがとう」という優しい言葉は、彼女の勇気を称えるあの感謝は、しかしこの少女の身体を風のように素通りしていくばかりであったのだ。
何も変わらない、何も変えられない。
「私は、ポケモントレーナーになれば、旅をすれば、シアのように皆から愛されるんだと思っていました。
ジムバッジを7つ手に入れた私を、皆は凄いと褒めはやしてくれました。けれど褒められる度、称賛される度に、苦しかった。それは本当の私じゃないから。
どれだけその場凌ぎの勇気が正しいものであったとしても、本当の私はそんなこと望んでいない。そこに私はいない」
「シェリー、」
「本当の私は臆病で、卑屈で、怠惰で、あの美しい土地から早々に見限られる筈の、貴方とこうして話をすることなんか二度と叶わなかったような、そうした、酷い人間です。
でもそんな私には何の意味もなかった。私は私のままじゃ愛されなかった。あの旅には、……そうした悲しい事実を知るだけの価値しかなかった」
他者の口喝を訴えるように、少女は淡々と、感情を表に出すことなく語っている。そのように傍目には見えている。
けれど、強く握り締められた彼女の両手が、その内にある激情を、憤りを、諦念を、あまりにも雄弁に語っている。
今の彼女には何を言っても火種にしかならないのだろうと解っていた。けれどそうした推測を裏切る形でフラダリは言葉を選んだ。
「君はわたしが、君が勇敢であるから大切に思っているとでも思ったのか?」
わたしはきっとこの少女に嫌われるだろう。彼女は今からわたしを憎むだろう。
構わない。君がわたしを拒んだとしてもわたしは君を拒まない。
「だって勇敢じゃなきゃ、貴方は私を嫌いになってしまうでしょう?私は、見限られてしまうんでしょう?」
「何故そんなことを、」
「私のようなみっともない人間を置いておけるような貴方だったら、セキタイタウンにあんな花は咲かなかった!」
その言葉に、フラダリの意識はあの町へと戻されていく。大きく開いた美しい花、あれは醜い存在を淘汰するための猛毒だった。
その淘汰される存在の中に「私」も入っている筈だと、この少女は声高に叫んでいる。
臆病で卑屈で怠惰な「私」はカロスに招かれるべきではなかったのだと、漫然とあの土地に留まっていた「私」こそあの花に裁かれるべきだったのだと、訴えている。
少女らしい叱責だと思った。自分のことしか考えていない少女の言葉は、どんなナイフよりも鋭くフラダリの胸を穿る筈であった。
それはフラダリに憎悪を突き付けるための言葉であり、憎悪の槍を突き刺すことに成功した少女は、いよいよこの男を嫌う準備を整え始めるのではないかと思われた。
「貴方は私を見限らなければいけなかったんですよ、フラダリさん……」
けれどその言葉の裏に、「私を嫌わないで」という、悉く彼女を極めた懇願が隠れていることを、他の誰もが知らずとも、この男だけは解っていた、解ってしまったのだ。
だから彼は少女の叱責を肯定しつつ、首を振った。少女の固く握り締めた手はいつしか緩み、解かれていた。
「ああ、そうだ。そうかもしれない。けれどわたしはこうして君の前にいる。この意味を、君は解ってくれないのか?」
解ってほしい、という懇願の疑問符を投げながら、それでも、少女がその意味を解さずともよかったのだ。
何故ならフラダリは言葉を紡ぐことを厭わないからである。
この少女がフラダリの真意を読めないのであれば、彼の心を解さないのであれば、代わりにありのままを伝えてみせる覚悟があったからである。
「見限りたくても見限れないんだ、君はもう、美しいか否かの判別だけで簡単に切って捨てられるような存在ではなくなってしまったから。
たとえ君が、君自身の評価に違わぬ臆病で卑屈で怠惰な人間であったとしても、君が今此処で生きてくれている、そのことにこそわたしは喜びを見出しているから」
彼はもう、歩み寄るための言葉を惜しまない。そうして双方の理解と妥協を諦めたが故にあの花が咲いてしまったのだと、彼自身がもう既に分かっているから。
あのカロスで、自身に欠け過ぎていたもの、足りなかったものを、誰にどう諭されずとも、彼自身がこの穏やかな時間の中で認められるようになっていたから。
つまるところ、この時間はフラダリのためのものではなく、真にこの少女のためだけのものだったのだ。
彼が彼女のために心を砕き言葉を尽くしたとして、それは少なくとも、この少女のところへ留まることを選んだ彼にとっては、至極当然のことだったのだろう。
「たとえ美しくなかったとしても、わたしにとって君はかけがえのない存在だ」
さあ、と伸ばした手を少女は取らない。ただ恐れを宿した目で縋るように、拒むように、祈るように憎むように、そうした混沌を極めた動揺の視線をこちらに向けるのみであった。
困ったように眉を下げつつ、硬く握り締められた右手を取った。少女は、振り払わなかった。
「ありがとう、君の思いを聞かせてくれて」
『私のようなみっともない人間を置いておけるような貴方だったら、セキタイタウンにあんな花は咲かなかった!』
『貴方は私を見限らなければいけなかったんですよ、フラダリさん……。』
あの悲痛な叫びもあの諭すような言葉も、彼女が勇気を振り絞って喉を震わせた結果の産物であると、解っているからフラダリは敢えてはっきりと感謝の言葉を告げた。
その「ありがとう」は、けれど先程の少年の言葉のように彼女の身体を素通りしたりはしなかった。彼女は驚いたようにフラダリを見上げた。彼は暫く迷った後で、笑った。
2016.11.10