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「いつの間に、彼等とこんなにも仲良くなったのですか?」
「私、ポケモンと友達になるのはとても得意なんです。一週間もあれば大親友にだってなれますよ」
膝の上にフラエッテを乗せて彼女は得意気にそう告げる。
小さな白い頭を人差し指でくいと撫でれば、フラエッテは至極嬉しそうにクスクスと笑い声を漏らした。
噴水の傍でゲッコウガとリザードンがじゃれ合っていた。ジョウトでは珍しいそのポケモンに、近くを通った少年たちが驚いたように駆け寄ってくる。
ゲッコウガは彼等に「みずしゅりけん」を見せて得意気に笑う。リザードンは飛んできたそれを「エアスラッシュ」で軽くあしらい大きく咆哮する。
あまりにも自由で穏やかな姿だった。本来のトレーナーに拒まれて此処に在ることを、彼等はすっかり忘れてしまっているのではないかと、そう疑ってしまう程の幸福があった。
「貴方はたった一週間でこれだけのポケモンの心を癒しているというのに、わたしはまだ、あの子を癒すための策がまるで解らない」
「……」
「わたしの誠意が彼女に届かない。彼女は日に日に歪になっていく。わたしはそれを止めることができないし、そうなっていく彼女を見限ることもできない」
彼女は何も言わなかった。傾聴の沈黙であると、解っていたからフラダリは更に続けた。
少し、焦っていたのかもしれなかった。彼女の服に染み込んだ水の色が、薄くなり始めていたからだ。
もう直ぐ彼女の服は乾き、彼女は「それじゃあさようなら」と、にこりと笑って席を立つように思われたからだ。
「笑ってください。たった一人を救うことくらい、容易いことだと思っていたのですよ」
吐き捨てるようにそう口にした。
自分の無力さを思い知らされ、心を折りかけている男の姿を、この女性は黙って静かに見つめていた。ぱちぱちと、緩慢な瞬きが2回繰り返された。
世界を、カロスの全てを救えずとも、もっと小さなことなら為せるのだと思っていた。
ホロキャスターを開発、提供する組織の長であり、多くの団員を率いて最終兵器を起動させるために全力を尽くしたこの男には、
「たった一人」の手を引きまっとうな道へ、思考へ、人間へと導くことなど、造作もないことであった筈なのだ。
たった一人。そんなこと、誰の目にも簡単で些末な事象に映ったことだろう。だから男がそのように思い上がったとして、それは彼の過失では断じてない。
過ちがあるとすれば、そのたった一人があの少女であったという、ただそれだけのことなのだ。それだけのことが彼を此処まで苦悩させているのだ。
けれど男はその苦悩から逃げない。逃げようがない。何故ならその苦悩は男にとって不条理なものでは決してなかったからである。
彼は苦しむことに意味を見出していた。たった一人があの少女であることは、彼にとってどうしようもない不幸であると同時に、どうしようもない幸福でもあったからである。
彼はその苦悩を、誰かに譲り渡すつもりなど更々なかったからである。
けれど男の心は折れかけていた。彼の意志を悉く折る彼女の拒絶は、彼を疲弊させていた。
「あら、容易いことじゃないんですか?私、貴方ならできるって信じていましたよ。勿論、今も」
だから、彼女のそうした何気ない励ましが、自らの首を絞める縄のように思えてしまったのだ。
勢いよくベンチから立ち上がった。両手を強く握り締めた。空色の目を大きく見開く女性に、男は努めて静かに、けれど抑えきれぬ激情を滲ませつつ、吐き出した。
「何も知らない貴方が、解ったような口を利かないで頂きたい……!」
「知っていますよ」
まるで男がそう激昂することを読んでいたかのような、間髪入れぬ返答にフラダリは毒気を殺がれた。
それは、いつかあの少女に向けられた「それならずっと此処にいればいいよ」という言葉の温度に似ていた。そこ、に込められた空恐ろしさが、彼の心臓を締め付けた。
「解っています、あの子はいつ逃げ出してもおかしくなかった。貴方がいなければ、あの子はあの子を棄てていました。
あの子は沢山愛されていたのに、そのことに長い間気が付けませんでした。あの子が、愛されていることを喜べるようになったとき、あの子の世界には貴方しかいませんでした」
彼女はそうした柔らかい言葉で少女やフラダリの何もかもを許しながら、その実、彼等の何もかもを許してはいない。
少女もフラダリもこの女性に許されない。この女性の歌うような裁きはまだ、終わらない。
「カロスはとても美しい土地でした。優しく親切な人で溢れていました。多くの人があの子に手を差し伸べたのだと思います。
その善意や親切こそ、カロスが美しいとされる所以なのだと解っています。私は、解っているつもりです。……けれどあの土地は、繊細なあの子には難しすぎたのかもしれませんね」
「……」
「カロスの皆さんが悪い訳じゃないんです。寧ろ原因はあの子にある。だから先ずはあの子の恐れを取り払わなきゃいけない。それにはフラダリさん、貴方じゃなきゃ駄目なんです。
今、あの子に拒まれていないのは貴方だけだから。彼女を救うための全てを持っているのは、私ではなく、貴方だから」
何もかもを持っている筈の彼女は、しかし自分にはその力がないのだと告げて笑う。貴方でなければいけないのだと、全能である筈の彼女が訴えている。
裁くついでに、罰さえも取り上げてしまえばいいのにとさえ思えた。
無力である自分にそうした役目を押し付けることなどせず、もういっそ、彼女自身がその手を少女に伸べてしまえばいいのにと、そう、願わずにはいられなかった。
「そのための場所と時間は私があげます。だから沢山、悩んでください」
悩んでください。
男の罪、男の罰、それらを笑顔で飄々と告げる彼女に、フラダリは憤ることができない。無理だ、と拒むことすら許されない。
ここで「できない」と駄々を捏ねることは、明日やってくる雨雲を何処かへ弾き飛ばしてほしいと願うことと同程度に、悉く利己的な、不自由な行為であったからだ。
そうした拒絶のできない人間であると、解っていたからこそこの女性はそうした罰をやわらかく押し付けて笑っているのだ。
彼女の判決からは逃れられない。フラダリはあの少女を救うため、悩むより他に道がない。
けれど彼女は同じように笑いながら、公正かつ公平な判決ではなく、彼女個人の慈悲を下す。
「貴方が生きていてくれてよかった」
彼女の目に映るフラダリはもう驚いていない。この超自然的に生きている彼女が、今更、何を見抜いていたとして、もう彼は驚かない。
驚くことで、この女性のおかしさをこれ以上肯定したくない。「私は、おかしくなんかない」といつも通りの笑顔で告げた彼女を、これ以上、否定したくない。
きっとこの女性は全てを知っている。そして、きっとそれでいい。
「貴方はとても賢い人、裁かれる権利を持った幸福な人。かけがえのない誰かを救える、強い人。だから諦めないで、フラダリさん」
その華奢な体に、弾けてしまいそうな程のエネルギーを宿している少女だった。一人の妻となり、一人の母となっても、その類稀なる輝きは失われないのだろうと心得ていた。
彼女の原動力は何処にあるのだろう。この女性をいつ何時たりとも微笑ませているものは一体、何処で息を潜めているのだろう。
「そうだ、貴方に手紙が来ていましたよ」
彼女は思い出したようにそう告げて、ポケットから手紙を取り出した。
薄いポリ袋に入れられたそれは、噴水の水を免れていた。驚く程に完璧なその用意に、フラダリはしかし驚かなかった。驚かないよう、努めていた。
はい、と彼女は袋から手紙を取り出して渡す。青い封筒の中に、白い便箋が2枚入っている。2枚目の便箋は白紙だった。1枚目には、……たった一行だけ綴られていた。
『シェリーを助けてくれてありがとう。』
美しい、流れるような文字だった。力強い筆圧は、2枚目の便箋にまでペンの跡を残していた。
その青い文字をそっとなぞってフラダリは笑った。彼女は、照れたように肩を竦めた。
「あの物騒な言葉は何処にもありませんね。……それとも、予言を外すことまで貴方の計算通りだったということですか?」
「いいえ、この手紙の送り主が私の予測を遥かに超えた、素敵で優しいお友達だったというだけのことですよ」
自らの計算が外れたことを喜ぶように、クリスは両手を合わせてふわりと笑う。
祈るような言葉は調子外れな歌のように上擦っていた。その目は悉く幼い輝きでフラダリを見上げていた。
「貴方が、シアちゃんの信頼と献身に足る人間であることを願っています」
あの少女が拒み、この女性が願った「シア」という女の子が、今、カロスで命を懸けた暴挙に出ていることを、フラダリもクリスもまだ、知らなかった。
2016.11.5