1-13

コガネシティでの生活を始めて2週間が過ぎた。少女は相変わらず外へ出ようとしない。
リビングや洗面所、浴室にも必要最小限しか出向かず、あの部屋の、窓に近い方のベッドに寝転んでは何事かを考えている。
彼女がベッドで寝返りを打った数だけ、ベッドにはしわが一つ、また一つと増えていく。今では元のピンと張られたシーツの面影など、もう何処にも残されていなかった。

クリスとアポロはこの2週間、何か大きな仕事を請け負ったらしく、かなり忙しそうにしていた。
昼食を多忙な彼等が摂れているのかは定かではなく、また夕食はいつも作り置いた状態で二人分、冷蔵庫に入っていた。
当然のように、フラダリと少女の分だった。彼等の分の夕食など端から用意されていなかった。

一体、何時まで働いているのか、そんなに大きな仕事なのかと、クリスのことを以前から知っていたフラダリは、彼女と彼の、多忙を極めすぎた生活を少しばかり案じていた。
そう、「少しばかり」案じていたのだ。「少し」以上の心を彼女に向けるだけの余裕はフラダリにはなかった。
彼の世界は正しく、あの世界を閉ざした少女を中心に回っていたからである。

それでも、朝食は揃って食べるのが彼女の「我が家のルール」であるらしく、どんなに多忙を極めても彼女と彼は朝7時にリビングで食事を摂る。
そのため、フラダリと少女は少なくとも1日に1回、この時間だけは彼等と顔を合わせ、挨拶をし、彼等の他愛もない穏やかな世間話に耳を傾けることとなった。

昼と夜の多忙を忘れているかのように、あくせく走り回っている彼女自身がまるで赤の他人であるかのように、彼女は朝の時間をこの上なく贅沢に使う。
トーストとサラダの簡素な食事を、時間をかけてゆっくりと食べる。ノンカフェインのコーヒーを飲みながら、図書館から借りてきたらしい洋書の文庫本を楽しそうに読む。
フラダリがその様子を眺めていると、その視線に気が付いた彼女は肩を竦めて少しばかり得意気に「私がこの中にいるんです、素敵でしょう?」と告げて笑ったが、
果たしてその言葉が彼女の冗談だったのか、それともただただ真実を極めていたのか、フラダリには判別する術がない。

そんな彼女は今日、図書館に出かけている。週に一度の休日を、彼女はやはり贅沢に使うことを選んだらしい。
あの分厚い、大量の本をいつの間に読んだのか、「読み終わった子たちを返してきますね」とアポロに告げ、それらを両手に抱えて至極幸福そうに微笑んだ。
アポロは呆れたように「フラダリさんに頂いた紙袋はどうしたんです、そんな風に持っていてはまた転んでしまうかもしれませんよ」と告げて、
けれどやはり笑顔でその紙袋を手渡し、「気を付けて」と短い挨拶で彼女を送り出した。

多忙ながらも幸福な世界、小さくささやかな、けれど確かな温度をもってこの町に佇む箱庭。
その箱庭の中で、しかし、自らの息を殺して生きながらえている少女がいる。その圧倒的な格差にくらくらと眩暈がした。どうなっているんだと絶望したくなった。

「……シェリー、わたしは少し町を歩いてくる。君はどうする?」

「ここにいます」

「何か、食べたいものは?」

そうした日曜の朝10時。クリスが意気揚々と図書館に出かけ、アポロがのんびりと新聞を読んでいるゆるやかな休日の一幕。
けれど彼女の幕は上がらない。この部屋のカーテンはずっと閉じられたままだ。彼女は陽の光を嫌うようになった。彼女の朝は、果たしていつ訪れるのだろう。

「……甘いものが、欲しい」

けれど彼女の口から聞くことの叶った「要望」に、フラダリはおや、と少しばかり驚いた。
あらゆるものを拒み続けていた彼女が、何かを求めたのは随分と久し振りだった。

「では君の気に入るものを探してくることにしよう」

そう告げて部屋を出る。できるだけ音を立てずにドアを閉める。階段をゆっくりと下りて、玄関の片隅に隠すように置いている靴を取り出す。
ドアを開けて、気付いた。日差しが弱くなっている。もう夏は終わっていたのだ。
空は高く、雲はものすごい速度で流れていた。今日という日を押し流すかのように、残酷な平等を保ったまま時は流れていた。
近くのフラワーショップから飛んできたのだろう、小さな黄色い虫ポケモンがフラダリの周りをくるくると飛び、そして、直ぐに去っていった。

コガネシティの北には、自然公園と呼ばれる大きな公共施設がある。
週に幾度か、虫ポケモンを捕まえてその強さを競う「虫取り大会」が行われるらしい。
今日はその日ではないらしいが、それでもポケモンを連れて公園の草むらに分け入る少年少女の笑い声が、公園の入り口に立っただけでも聞こえてきた。
そうした、小さな子供の笑い声に交じって、ひどく聞き慣れたメゾソプラノがフラダリの鼓膜をくすぐったため、彼は歩幅を大きくして声のする方へと向かうこととなった。

「こら、ゲッコウガやめてよ、濡れちゃうじゃない!」

公園の中心、大きな丸い噴水の前で、クリスがずぶ濡れの状態で困り果てている。犯人は噴水の向こう側で至極楽しそうに笑うゲッコウガだ。
水色のワンピースが、本物の水を吸って色を濃くしている。彼女の緩やかなウエーブがぺたりと崩れ、彼女の輪郭を細いものにしている。
土砂降りの雨に降られたような姿で、「やめて」「冷たいよ」と抗議しながら、それでも彼女は笑っている。噴水の水を掬い上げ、向こう側のゲッコウガにかけようとまでする。

年端もいかぬ子供のような行動を、醜態を、笑顔を、ここまで躊躇いなく晒すこの女性はやはり、異質なのだろう。
その異質さを恐ろしいと思ったこともあったが、今は違った。ただ、美しいと思えたのだ。
美しさを極めると恐ろしさが付随することをフラダリはよくよく解っていたから、その、ともすれば対立しそうな形容に違和感など抱かなかった。

水かきを持つ特徴的な手で、更に噴水の水をこちらへと飛ばそうとしてきたため、咄嗟に彼女の手を引き背中に庇えば、予想以上の水量がフラダリの背に降ってきた。
呆気に取られたように目を見開いていた美しい女性は、しかし髪までぐっしょりと濡らしたフラダリを見て、堪え切れないと言ったように声を上げて笑い始めた。

「あはは、もうフラダリさん、びっくりさせないでください。それに、……ふふ、貴方まで濡れてしまうなんて!」

言うべきことは山ほどあるように思われたが、彼女にここまで屈託なく笑われてしまうと、フラダリにはどうしようもなかった。ただ困ったように笑うことしか、できなかったのだ。
ポケットから取り出したハンカチでは最早、この服や髪の水を拭き取ることなど叶いそうになかった。

ゲッコウガが駆け寄ってきて、心配そうにフラダリを、かつて戦った相手である人間を見上げる。
クリスには許された戯れをこの男も果たして許すのか、憤られてしまうのではないかと不安だったのだろう。このポケモンにも恐怖という情が宿っているらしかった。
真っ直ぐに、けれど怯えたようにフラダリを見上げるその目に、このゲッコウガの「本当のトレーナー」を重ねることは驚く程に簡単だった。

「君を責めている訳ではない。気にしないでほしい」

そう告げればゲッコウガは安心したように視線を落とす。
クリスがクスクスと笑いながら、「ごめんなさいって言っているんですよ」と告げて、僅かに首を傾げてフラダリの次の言葉を伺う。
濡れて質量を増した青い髪は、いつものようにふわふわとは揺れない。

「まるでこのゲッコウガの声を聞いているかのようですね」

「え?……ふふ、変なの。フラダリさん、貴方にも聞こえているでしょう?」

ね、と笑顔で同意を求められ、彼女と同じ耳を持たないフラダリは困り果ててしまった。
常軌を悉く逸した彼女に、そうした姿を悉く醸してきた彼女に、今更どんな能力が備わっていても驚くまいと思っていたのだが、
こうも「貴方も同じものを持っている筈だ」と当然のように問われてしまうと、やはりその大きすぎる壁に圧倒されざるを得なかった。

「この子たちの想いは私達の使う言語の形を取らないけれど、でも伝わってくるものは確かにあるでしょう?
言語化できる想いなんてほんの一握りです。私達はその奥を読まないといけない。彼等の言葉を聞くためには、言葉に頼っちゃ駄目なんですよ」

……これが、多忙の中でも週に10冊の本を読み耽る彼女の言葉なのだ。活字に、言葉に、文字に溺れるように生きている彼女の、声なのだ。
その強烈な乖離にフラダリは恐ろしくなった。この女性が「何処に在る」のか、いよいよ解らなくなってしまいそうだったのだ。

「それにほら、貴方だってポケモンの想いを拾えているじゃないですか。あの子のサーナイトがどれだけ悲しんでいるか、苦しんでいるか、貴方にも解っている筈です。
それと同じことだから、何もおかしなことなんてないんですよ。私は、おかしくなんかないんですよ」

「!」

私は、おかしくなんかない。
まるであの歪な少女を思い出させる音の並びにフラダリは瞠目した。
彼女は相変わらず飄々とした笑みを湛えていたけれど、やがて諦めたように笑って「ごめんなさい」と紡いだ。違う、と否定の意を示すためにフラダリは首を振った。

わたしは貴方を奇異の目で見たい訳では決してないのだと、ただ驚いてしまっただけなのだと。
貴方のような飄々とした、奔放でマイペースな人間は、誰に何を言われようと全くそれを意に介さないのだと、自らに刺さる視線がどのようなものであろうと笑っていられるのだと、
つい先程までそのように思っていたからこそ、彼女の、縋るようなその言葉に胸が締め付けられる思いがしたのだと。

「……貴方も、あの子のようなことを言うのですね、クリス

「ふふ、いけない?」

今度こそ驚きを挟まずに首を振った。
「貴方はとても優しい人ですね」と呟きながら、彼女はゲッコウガの手を引いて公園のベンチへと向かう。フラダリもその後に続く。
草むらから赤いフラエッテが飛び出してきて、クリスの周りをくるくると回った。空から降りてきたリザードンが、彼女の服を乾かすために尻尾の炎をそっとかざした。

クリス、貴方の服と髪が乾くまでで構わない。わたしの話を聞いてくれませんか」

彼女は「ええ、勿論!」と、先程と全く同じ笑顔で頷いた。
少女の手持ちが至極幸福そうに微笑んでいるこの場所に、しかしサーナイトはいない。彼女だけはこの幸福な女性に懐かず、少女の傍で過ごすフラダリの手から離れない。


2016.10.30

© 2024 雨袱紗