私には先輩がいる。
4つ年上の彼女は、カノコタウンに住んでいる。私の母と彼女の母とが知り合いで、私は母に連れられて、たまに彼女の家へと遊びに行った。
小さい頃は、双子のお兄さんと彼女とで、よく一緒に遊んだ。
気が強くて豪胆な彼女は「私のことは先輩と呼びなさい」と満面の笑顔でそう言い、私の肩を乱暴に抱いた。
私はそれに従い、その日から彼女のことを「先輩」と呼び、敬語を使っている。
2年前にポケモントレーナーとなった彼女は、それ以降、鳥ポケモンに乗って突然遊びに来ることがあった。
今日も今日とて私の家にやって来た彼女は、私の姿を見るなり、まばたきを数回繰り返した後で目を擦るという失礼極まりないことをする。
「あんた、変わったことをするようになったのね。何?それ」
数か月ぶりに再会したトウコ先輩の第一声は、素っ頓狂な声音で発せられた。
キッチンに充満する甘い香りはその存在を十分に示している筈だが、彼女はつかつかと歩み寄り、そのポットの中を覗き込む。
「お久しぶりです、トウコ先輩!これは紅茶ですよ」
「シア、紅茶なんて飲むの?」
あんた、甘党じゃなかったっけ?と首を傾げる先輩に、私は昨日描いたものと同じ笑みを浮かべた。
子供だから、ではなく、甘党だからそんなもの飲めないだろうと揶揄した4つ上の彼女は、私という捻くれた人間をよく理解している人だ。
そして、この決して優しくない世界、理不尽で厳しい世界で、強く生きることを選んだ強い人だ。
だから、自然とその幸せに身を委ねる。
「勿論、砂糖を入れますよ。トウコ先輩も飲みますか?……Nさんも、よかったらどうぞ」
私は玄関の方を見遣って、そんな声を投げる。
首元のアクセサリを指に絡めていた長身の青年は、私の視線に気付くと、
「ボクにもくれるのかい?ありがとう」
やや早口でそう紡ぎ、首を傾げる。若草色の長髪がふわりと揺れた。
カップを口に運ぶ度に「いい香りだね」と呟くNさんに、私は喜ばずには居られなかった。
トウコ先輩は特に紅茶についての感想を発さないが、一気に飲み干さず、少しずつ味わってくれているその姿に自然と笑みが零れてしまう。
お茶菓子として出したクッキーを、トウコ先輩はあっという間に平らげ、彼の分のクッキーにまで手を出した。
彼が紅茶の香りを楽しんでいる時に、そっと彼のお皿に手を伸ばす。ひょいとクッキーを摘まみ上げ、口に運んだ彼女を、しかし彼はしっかりと横目で見ていたらしい。
「……トウコ、気付かれないとでも思ったのかい?どう考えてもそのクッキーはボクの分だろう」
「食べるのが遅いからいけないの。世はサバイバルなんだから、ぼーっとしていると何もかも持って行かれるわよ」
「キミの言うことが、ボクは未だに解らなくなる時があるよ」
私はそんなやり取りがおかしくて笑いながら「トウコ先輩、まだクッキーはありますから」と告げて、キッチンの方へと向かった。
彼女は私と同じように、理不尽で厳しい世界を知り、大人を嫌っていた。
2年前の春、ポケモンを貰ってカノコタウンを飛び出した彼女は、季節が変わる頃にはその名がイッシュ中に知れ渡り、「英雄」として称えられる存在になっていた。
『私は私の為に戦ったの。ポケモンと一緒に居たいから戦ったのよ。
何処の誰とも知らないポケモントレーナーを助ける為なんかじゃないのに、救世主だなんて馬鹿げた言い方をしないでほしいわ。』
彼女は昔、冷たくそう言い放った。
その力を持たない大人が、その全てを子供である自分に押し付けるやり方を、彼女は極端に嫌い、軽蔑した。
彼女を、彼女の意志を無視して「英雄」に仕立て上げ、英雄にふさわしい振る舞いを強いた狡い大人を、彼女は鋭い眼光と冷たい声音で拒んだ。
その理由は違えども、同様に大人を嫌う私のことを、彼女は同士のように思っていてくれたのかもしれない。
先程の「先輩と呼べ」という発言は、きっと私が彼女を慕うことを認めてくれるものだったのだ。
そんな豪胆で毒舌な彼女が、実は旅に出るまでは、孤独を酷く恐れる臆病な少女だったことを、私は最近まで知らなかった。
『きっとあいつに変えられたのよ。』そう話す彼女の目はどこまでも楽しそうだった。
その「あいつ」が、今、トウコ先輩とクッキーの取り合いをしている。
彼女がポケモンとの未来の為に対峙した相手。二つの季節を跨いで、ようやく再会が叶った青年。
Nと名乗ったその人は、彼女の嫌う言葉を借りるのなら、もう一人の「英雄」だったのだろう。
「トウコ先輩、いいなあ」
「……どうしたのよ、いきなり」
「だって、幸せそう」
私は追加のクッキーをお皿に出しながらそう言って笑う。
豪胆で毒舌な彼女は「はあ?そんな訳ないじゃない」というありふれた切り返しは絶対にしない。
得意気に笑って、クッキーを指で摘まみ、Nさんを指差すようにそれを向けて口を開く。
「まあね。こいつは役に立つわよ。煮込み料理をトウヤが作っている時に、あと何分で吹き零れるかを教えてくれるの。未来が見えるって便利よね」
「メロンの食べ頃を聞かれた時には流石に答えられなかったけれどね」
彼は「ポケモンの声が聞こえる」「未来を見る」などの、私のような凡人からすれば到底信じられないような能力を持っているらしい。
1年前に彼を紹介された時に、そんなことを説明され、私はとても驚いた。
しかし、私よりもその能力をずっと近くで目の当たりにしてきた筈のトウコ先輩が、彼を全くと言っていい程に特別視していなかったので、私もそれに倣うことにした。
彼女曰く、Nさんは「ちょっと便利な力がある、ただの世間知らずのお坊ちゃま」らしい。
「私と彼とは同じよ、何も変わらないわ」そう言って笑う彼女は、彼とどのような時間を過ごしてきたのだろう。
私はその全てを知っている訳ではないが、彼女の旅立ちから2年が経過した今、彼女が以前よりもやわらかく笑うようになったことがその答えを示している気がした。
「……なんかあんたのその頭を見ていたら、またメロンが食べたくなっちゃった。この間のメロンはあまり甘くなかったもの」
そう言って、Nさんのライトグリーンの長髪を引っ張る。……そう、彼女は旅を経て、毒舌なだけではなく、少し暴力的にもなった。
しかし、Nさんもそんな彼女とは長い付き合いだ。仕返しだと言わんばかりにトウコ先輩のポニーテールをわしゃわしゃとかき混ぜる。
私はその動作に、思わずあの白い手を重ねた。
「何かあったの?」
「!」
そんな風に直ぐに指摘されてしまう程に、私はみっともない顔をしていたのだろうか。
Nさんの髪を引っ張っていた筈のトウコ先輩は、しかし私を真っ直ぐに見据えていた。
真っ直ぐに私を見つめるその目は……大切な人との別れを知っている色をしている。彼女は人との出会いと別れに敏感だ。
「知りたい人ができました」
彼女がこの世界を嫌うように、私も大人を嫌っていた。
子供としての待遇、半人前、弱者としての扱い。彼等との間にそびえる大きな壁。
それらを全て排して、ただ向き合ってくれる人が居た。私を子供としてではなく、一人の人間として見てくれる人がいたのだ。
彼の傍は、ただ優しい。
そんな彼から、知りたいことが沢山あった。
子供のこと、大人のこと、世界のこと、強く生きるということ、彼のこと。
だから私は、誤魔化すことを止めて、彼女に思うままを投げる。その心地よさを造る底には、あの白い手があるのかもしれなかった。
彼女は少しだけ驚いた様子を見せ、しかし楽しそうに微笑んだ。
「へえ、意外ね。あんたを子供扱いしない大人がいたんだ」
「え、……どうして大人だって解ったんですか?」
「だって、シアみたいな頭のいい子には、同い年の子供じゃ釣り合わないでしょう?」
よかったね。
自分を肯定してくれる人の、自分が知りたいと思える人の存在の尊さを知っている彼女のその言葉を、私はゆっくりと噛み締めて、頷いた。
2014.11.12
スープル しなやかに