カーテンを開ける。窓から覗く高い空を、鷲掴みにして飲み込んでしまいたくなった。
「行ってきます!」
雨が止むまであのプレハブ小屋で雨宿りをしていた私は、帰って来てからずっと悩んでいた。
『お待ちしていますよ。』
そう言われたものの、いつ向かえばいいのか解らなかったのだ。
私の心に任せれば、直ぐにでも行きたかった。1日と空けず、再びあの不思議な空間を訪れたかった。しかし、それはあまりにも遠慮のない行動であるような気がした。
けれど、次の日にやって来なかった私を、彼はどう思うだろうか。そんな懸念が私にはあった。
飽きっぽい子供らしく、もう此処での話など忘れてしまったのかもしれないと、彼に少しでも思わせることはどうしても避けたかった。
そう、子供は一様にして飽きっぽいのだ。熱しやすく冷めやすい。
そんな子供を大人はよく理解していて、中途半端な約束をよくする。「また一緒にケーキを作りましょうね」とか「じゃあ、またいつか連れて行ってあげるよ」とか、そんな言葉だ。
大人の約束を信用してはいけない。彼等は私達が飽きっぽいことを知っているのだ。だからこそ、その約束にもいつか飽きてしまうだろうと期待している。
それ故に、平気で大きな約束をする。守る気のない約束を交わしてしまう。
しかし、子供は期待に胸を躍らせているため、その約束の大半を忘れない。大人と子供の想定は大きくずれている。そして多くの場合、子供はそんな大人に反論する術を持たない。
何故なら子供は総じて飽きっぽいからだ。そうしたいい加減な振る舞いが許されるのが子供だと、大人達は認識している。
そうしたいい加減な子供に対して、誠実にならなければいけない理由を彼等は持たない。だから嘘を吐く。誤魔化す、軽くあしらう。
だからこそ、そうした認識が当たり前であるからこそ、私は彼に「子供とは飽きっぽいいい加減な人間だ」という認識をさせたくはなかった。
彼という大人に、私を子供ではなく、一人の人間として扱ってくれる彼に、見限られたくはなかったのだ。
私は彼に対して誠実でありたかった。それは、彼が私に対してどこまでも誠実だったからだ。
だから私は、彼に誠実であるために、先ずは自分の心に誠実になることにした。
水溜まりをひょいと飛び越えて、軽快に駆け出す。
まだそう長い距離を走った訳ではないのに、心臓は既に高鳴っていた。
プレハブ小屋のドアを小さくノックする。暫くして、こちらへと近付く足音が僅かに聞こえた。
「おや、シアさん。こんにちは!」
「こんにちは!」
両手に分厚い本を抱えて現れた彼は、笑顔で私を招き入れてくれた。
私は驚いた。プレハブ小屋の中の様子は、昨日と全く変わってしまっていたからだ。実験器具らしきものが大量に置かれていたには、大量の本が積まれている。
彼は手元の本を机にドサリと置いて、私に向き直った。
「散らかっていてすみません。貴方にも読める本を探していたのですが、すこし難しすぎるものばかりですね。用意しておくと言ったのに、申し訳ありません」
私は息を飲んだ。そして彼の言葉に驚いてしまった自分を、心の中で叱責した。
大人が私のような子供のことを信用していなかったのと同様に、私もまた、大人のことを信用していなかったのだ。
蔑ろに扱われているという経験は簡単に私の自尊心を砕いた。だから私は、私の事をそんな風に扱う大人のことを信じないようにしていたのだ。
だから、私に誠実であろうとしてくれた彼のこともまた、反射的に私は疑っていたらしい。
どうして、そこまでしてくれるんですか?
その言葉を私は飲み込んだ。どこまでも私に誠実であろうとしてくれる彼に、それを尋ねるのはルール違反だと理解していたからだ。
代わりに私は、好奇心のままに口を開いた。
「じゃあ、アクロマさんがしている研究の話を聞かせてください」
すると彼は困ったように笑った。
「わたしの研究ですか……。実は今、その研究に煮詰まっていましてね。貴方を待っていたのは、それが理由でもあるのです」
「……?」
「シアさん、わたしの研究にアドバイスを頂けませんか?」
私が?
彼の考えていることが分からずに私は首を捻る。
きっと彼が研究していることは、とても高度で、私には理解できないようなものなのだろう。
机に積まれた本の背表紙をざっと見ただけでも、聞いたことのないような難しい言葉達が羅列されている。こんなものを私が理解できるはずがない。
理解できないものを、語ることができる筈がないし、ましてやそれを専門とする彼に有効なアドバイスを贈ることなど、不可能であるように思われたのだ。
しかし彼は人差し指を立てて笑う。
「勿論、貴方に私と同じ知識を求めている訳ではありません。
ただ、わたしのような専門に特化し過ぎた人間にとって、貴方のような方が持つ広い視野は、時にわたしの知らないことを教えてくれたりするものなのです」
「そうなのかな……」
「ええ。それに貴方はまだ若い。思考も発想も柔軟ですからね。わたしには思いつかないことを、貴方は当たり前のようにひらめいてしまうかもしれません」
それでも快く承諾できずにいる私に、彼は何かを思い付いたかのように手をポンと叩き、しかし予めその言葉を用意していたかのように得意気に微笑む。
「では、こうしましょう。わたしは貴方に、貴方が興味を持ったことを何でも教える。貴方はわたしに、その中で気付いたことや自分の考えを逐一報告する。
これなら、双方に利益がありますし、どちらかが相手に申し訳なさを感じることもありません。……如何です?」
「!」
それは、今まで私が受けた事のなかった交渉の仕方だった。
今までの私は、ただ生温い現実を与えられるだけか、理不尽に期待を奪われ、砕かれるかのどちらかであったのだ。
大人が子供に与え、奪う行為はどこまでも一方的で、それは時に子供の主体性や希望や自尊心を失わせる。
「甘えてもいいんだよ、まだ子供なんだから」「我慢しなさい、まだ子供なんだから」
そんな矛盾に溢れた彼等の言葉が私は大嫌いだった。そして、そんな大人に庇護され生きていくしかない自分のことも、あまり好きではなかった。
しかし彼は私に、私の望んだものを与えてくれる。そしてあろうことか、私に彼が望んだものを与えてほしいと欲しているのだ。
そうした相互利益のある、ウィンウィンの状況に持ち込み、私を納得させる交渉を行う。そこには私の意志と尊厳とが守られていた。
彼は私を子供としてではなく、一人の人間として見てくれているのだと、ようやく確信する。
そして、彼が思いついたその交渉は私に、ここにいてもいい理由をも差し出してくれるのだ。どうして私がそれを拒むことができただろう?
「お願い、します」
そう紡いだ私の声は、驚きと歓喜と高揚とに震えていた。
彼は優しく笑い、手袋をはめた真っ白の手を差し出す。
「では、シアさん。宜しくお願いします」
「……こちらこそ、宜しくお願いします」
私はその手を取った。彼は何故か驚きに目を見開き、しかし直ぐに微笑んだ。
彼が私の手の小ささに一瞬だけ怯んだことを、この時の私はまだ知らなかった。そこまで私は他人の心を読む力に長けている訳ではなかったし、何より私はただ嬉しかったのだ。
この、とても素敵な大人の前で、私が子供としてではなく、一人の人間として見られているということが、何よりも嬉しかったのだ。
その歓喜に私の心は震えていた。
「さて、そうと決まれば、貴方の席を用意しなければいけませんね。
座る場所は、昨日のパイプ椅子があるからいいとして、……先ずは、この本を片付けましょうか。少し掛けてお待ちください」
「どうして?私も手伝います」
その言葉に再び彼は、その金色の目を見開き、しかし直ぐに笑ってくれた。
「それではお言葉に甘えましょう。しかし本は重いですよ?」
「はい、頑張ります!」
そして私は彼の後に続き、本の山を抱える。
今はその、手に痺れをきたす程の重さすら心地よかったのだ。
これは何処に持って行けばいいですか、と尋ねようとした私は、彼が私をじっと見ていることに気付く。
彼の目は太陽のような金色だった。
「シアさん、貴方の目は海の色をしているんですね」
そんな彼が、私に海を見たことに驚き、それがおかしくて思わず笑ってしまった。
それは直ぐに忘れてしまうような些細な例えで、しかしその後もずっと、彼は私に海を見ていたのだと、私が知らされることはなかったのだけれど。
2014.11.11
アレグロスピリトーソ 速く生き生きと