彼は徐に立ち上がり、ポケットからモンスターボールを取り出した。
「シアさん、わたしが手紙に書いた「ヒウンシティでの私用」とは、貴方とポケモンバトルをすることだったのですよ」
「え、……ポケモンバトル?」
「わたしと戦って頂けますか?」
心臓が大きく高鳴った。
彼と、ポケモンバトルをする。憧れていた出来事が目の前に差し出されたにもかかわらず、私は直ぐに、その誘いに飛びつくことができずにいた。
それは、もっとずっと後のことだと思っていたからだ。
今の私が、この人にポケモンバトルで勝てる保証はどこにもない。もしかしたら彼はトウコ先輩くらいに強くて、私のポケモン達では歯が立たないかもしれない。
あまりにも力の差を見せつけられることは、私の為にも、ポケモン達のためにも、良くないことなのではないかと思っていた。
しかし、私は長い時間をかけてたっぷりと悩んだ挙句、その申し出に、頷いてしまった。
「では、このヒウンシティを抜けた先の、4番道路でバトルをしましょうか。ここは人通りも多いですし、もしかしたら通行人を巻き込んでしまうかもしれませんからね」
私は頷き、彼の後に続いて歩いた。
「ロトム、でんきショック!」
「ギアル、ギアソーサーです!」
先手を取ったのはロトムだった。ギアルに命中したその技が決定打となり、その身体はぽとん、とアスファルトに落ちる。
彼はギアルをボールに戻し、白い手袋を嵌めた手でぱちぱちと拍手を送ってくれた。
「お見事です!ポケモンの力を引き出した、素晴らしいバトルでしたよ!」
手放しで褒めてくれる彼に、ロトムは嬉しそうに私の周りを飛び回った。
私もお礼を言い、……しかし、本当は気付いている。彼がまだ、実力を出し切っていないことを。
手持ちはコイルとギアルの二匹だけ。一緒に19番道路へと向かった時に一緒だったロトムの姿は、此処にはなかった。
そして、彼のポケモンを見る目は、トウコ先輩のそれによく似ていたのだ。
やわらかな金色の目が、居るような鋭さを湛えていたその瞬間を、私は見逃さなかった。
この人はきっと、もっと強い。
「わたしの申し出を受けてくださり、ありがとうございます。
貴方と貴方のポケモンの力は、わたしの想像以上でしたよ。わたしが本気を出さなければいけない日はそう遠くないようだ。
先程捕まえたばかりのズバットとも、もう打ち解けているようですし、貴方はポケモンとのコミュニケーションが上手なのかもしれませんね」
「やっぱり、手加減していたんですね」
「そんな顔をしないでください、シアさん。……よく考えてください、わたしは貴方よりもずっと長い間、ポケモンと付き合ってきているのですよ?
もしここでわたしが本気を出して、貴方に負けるようなことがあっては、わたしの矜持が保てなくなってしまいます。
今はまだわたしに「本気を出していないから負けたのだ」と、思わせてください」
彼は難しいことを言って、おどけたように笑ってみせた。
ずっと後で、彼が、自分の置かれた立場をかけて私と戦わなければならなくなるということを、彼は既に視野に入れていたのだ。
勿論、何も知らない私が、そんなことに思い至る筈もなかったのだけれど。
「ところで、この岩はわざと此処に置かれているんでしょうか?」
私は4番道路を完全に塞いでいる、その大きな岩に触れてみた。
とても大きいそれは、ちょっとやそっとでは動きそうにない。
私が首を傾げていると、彼はポケットから小さな機械を取り出した。
「シアさん、これは岩ではなく、イワパレスというポケモンなのですよ」
「え、……ポケモン?」
そういえば、彼がくれた本の中にそんなポケモンが居たような気がする。確か、虫タイプと岩タイプのポケモンだった。
彼はその機械を岩にかざし、得意気に微笑む。
「見ていてください。わたしが造った、ポケモンを活性化させる装置で……」
彼はその機械を起動させた。
その瞬間、岩だと思っていたそれが、突如として動き出したのだ。
その岩の下から、可愛い顔がひょこり、と覗く。私とアクロマさんを見上げた彼等は、4番道路の奥へゆっくりと歩き出した。
「彼等は大きな岩を背負うことで自分の力を誇示するのですが、その岩があまりに重すぎて、移動の途中でこのように力尽きてしまう場合があるようですね」
「ふふ、おかしいですね」
「ええ、欲張りなのは人間もポケモンも同じだということでしょうか」
そんな会話を交わして私は笑った。笑って、しかし次の瞬間、目を見開いて沈黙した。
彼が「人間もポケモンも同じだ」と言ったことに、強烈な違和感を抱いたのだ。
人間を嫌っていた彼は、そうした人間の影をポケモンに重ねることをずっと避けていた筈だった。
だからこそ、ポケモンに人間のような個性が宿るという私の考えに、彼は拒絶を示したのだ。
しかしその彼の口から、何の躊躇いもなく「同じだ」という言葉が紡がれたことに私はただ驚き、しかしそれは直ぐに喜びへと変わった。
「ポケモンの力を引き出す研究、上手くいっているんですね」
「……いえ、そんなことはありませんよ」
「だって、力尽きていたイワパレスを動けるようにしてあげるなんて、私にはできないもの。きっと、アクロマさんが取り組んだ研究の成果の一つでしょう?」
彼はその言葉に驚いた表情を見せ、それから暫くして、ふわりと花を咲かせるように笑った。
こんなにも優しい彼の世界を、私は、変えられたのかしら?
「……さて、わたしはこれで失礼します。お手紙、お待ちしていますね」
「はい、ありがとうございました」
私はどんな顔をしていたのだろう。
彼は苦笑して私の頭を撫でた。私は彼を見上げることができなかった。きっと彼の美しい金色の目には、みっともない顔をした私が映っているからだ。
大丈夫ですよ、と囁く彼は、しかしどこまでも優しい。
「また会いたいと望む二人をずっと引き離しておく程に、運命とやらが残酷な性格をしているとは思いたくありませんから」
難しいことを言って、彼は笑う。
その意味を、彼が思う通りに咀嚼できたかどうかは解らない。けれど辛うじて解ったのは、彼も私に、また会いたいと思ってくれているということだ。
いつ、どこでといった再会の約束を、旅をする私が交わすことはできない。だからこそ彼は、二人の意志の力を唱えたのだ。
それを私は理解している。だから、何も不安になることなどなかったのだ。
「また会いましょう、シアさん」
なのに。
どうして、こんなにも苦しいのだろう。
砂嵐が吹き荒れるこの場所で、彼の姿は直ぐに見えなくなってしまった。
一向に動こうとしない私を、ロトムが怪訝そうに見つめる。大丈夫だよと囁きながら、私はそれが嘘だと理解していた。
『シアさん、貴方は旅を続けて、あらゆることを知るでしょう。そして全てを知った時、きっと私を軽蔑します。
それが今は、少しだけ恐ろしい。』
私の知らない彼は、どんな姿をしているというのだろう?私は、次の彼との再会を素直に望んでもいいのだろうか?
次に会う彼は、本当に、今のままの彼なのだろうか?
『では、きっとわたし達は似ているのですね。
ですからこう考えてください。貴方がわたしを思っているように、わたしも貴方を思っているのだと。』
私が思っているのと同じように、彼も、思っているのだとしたら。
「……」
私は狡いお願いをした。とても卑怯な祈りを歌った。
私が「今のままの彼でいてほしい」と願っているということは、きっと彼も、「今のままの自分でいたい」と思ってくれている、ということだ。
そんな、とても狡い解釈をして、だから大丈夫だと、卑怯なことにそうやって言い聞かせていたのだ。
それは私の、とても拙く愚かで子供っぽい、欲張りな我が儘だった。
2014.11.18
トロイメント 夢見るように