その真っ白な陶器の底には、角砂糖が二つだけ転がっていた。
彼はその一つを長い指で摘まみ、私のティーカップを取り上げて、その中にポトンと落とした。
熱い紅茶に角砂糖はあっという間に溶けていくかに思われたが、どうやら暫く時間が掛かるらしく、彼はスプーンで紅茶の中をかき混ぜて砂糖を完全に溶かしてから、私に渡した。
「さあ、飲んでみてください」
「……」
私は首を傾げた。蛋白過ぎる味の紅茶の中に角砂糖を落としたのだから、間違いなくそれは甘くなっている筈だ。
それ以上でも以下でもない筈なのに、どうして彼は得意気に微笑んでいるのだろう?
私は彼の思惑が解せないままに、そのカップに口を付ける。……そして、絶句した。
「苺の味がする……」
彼は満足したように微笑み、私はそんな彼に詰め寄る。
「ど、どうしてですか?さっき入れたのは、苺の味がするお砂糖だったんですか?」
彼は何も言わずに、最後の角砂糖を摘まみ上げて、私の掌に落とした。
私は真っ白なそれを口の中に入れる。……何の変哲もない、普通の砂糖だった。勿論、苺の味などするはずがない。
しかし、私がさっきまで飲んでいた淡白な味の紅茶が、この角砂糖を入れただけで苺の味に変わってしまったのだ。
普段、私が飲みなれている普通のストロベリージュースよりも上品な甘さを持った、温かいその飲み物は、言うなればホットのストロベリージュースのようになってしまっていた。
その理屈が全く解らずに私は沈黙する。縋るように彼を見上げたが、彼はまだ答えを教えたくないらしい。
「この紅茶に、仕掛けがあるんですか?」
「いいえ。しいて言うなら、苺の香りがする、ということでしょうか」
……それは、当たり前のことだ。苺の香りがする茶葉を使っているのだから。
「それじゃあ、苺の香りがするものに、甘いものを足すと、苺の味になるってことですか?」
半ばやけになってそんな強引な結論を出す。
すると彼はぱっと顔を輝かせ「いい発想ですね、とても素晴らしいですよ!」と微笑み、私の頭をぽんぽんと軽く叩いた。そして、その長い指で私を指差す。
「貴方は最初にこの茶葉の香りを嗅いだ時、どう思いましたか?」
「……苺の、甘い香りだなって、思いました」
「そう、貴方はこの香りに苺を連想してしまった。苺は甘酸っぱいフルーツですが、その香りが頭にインプットされている貴方は、この茶葉の香りにこう思った筈です。
『この紅茶は、きっと苺のような味がするのだろう』と」
その通りだ。私はそう思っていた。
こんなにも甘くて素敵な苺の香りがする茶葉を使った飲み物は、さぞかし甘くて美味しいのだろう、と勝手に判断していたのだ。
そして、そんな期待を持って紅茶を口にした私は、そんな甘さなど微塵も感じさせない淡白な紅茶の味に驚き、当惑した。
「この紅茶の色も、苺を連想させたのでしょうね。嗅覚と視覚の両方で貴方は「苺」を感じていたのに、それが味覚によって裏切られてしまった。
ですからわたしは、貴方の「苺」を連想する心のお手伝いをしました」
「……?」
「砂糖を入れることによって、紅茶は甘くなりました。決して、苺の味になった訳ではありません。しかしその甘さは苺に近付いていた。
苺のような甘さと、苺のような香りと、苺のような色。……貴方の頭は、五感で受け取ったその刺激に対して「これは苺だ」という間違った結論を出したのです。
本当は、苺など、この飲み物の何処にも使われていないのに」
私は彼のその不思議な話に聞き入っていた。首を縦に振って相槌を打ち、解らない言葉には首を捻りながら、彼の説明を聞いていた。
その話はとても新鮮だった。上手く言い表せられないが、今まで私は、大人にこういった類の話をされたことなど一度もなかったからだ。
どうして、砂糖しか入っていない筈のこの飲み物を、私は苺の味だと思ってしまったのか。
それに対する彼の説明は私の好奇心をこれ以上ないくらいに刺激した。彼の説明は私に、私が今まで知らなかった新しい世界を差し出したのだ。
「本物がそこになくとも、私達はそれに似た刺激を五感で受け取れば、後は脳が勝手に本物を作り上げてくれるのですよ。
私達の脳はとても複雑で優秀ですが、このように単純で騙されやすい部分もあるのです」
「……」
「苺の香りや色を持つものに、甘いものを足すと、苺の味になるのではありません。苺の味だと、私達の頭が錯覚するのですよ。……お解り頂けましたか?」
唖然とする私に、彼はにっこりと微笑んだ。
彼がしてくれたその、きっと素晴らしく聡明で神秘的な謎解きと説明を、しかし私は記憶にしっかりと留めておくことができずにいた。
その美しい言葉達は、あっという間に私の中を嵐のように掻き回していった。
私の心臓は高鳴り続けていた。
私達の脳はそんな風に勘違いをするの?苺は何処にもないのに、私達の頭がそれを作ってしまうの?
それを理解し、目の前にある紅茶の何処にも苺は存在しないと心の中で唱えても、やはり口に付けたそれは紛うことなき苺の味だった。
「騙されている」という知識を身に付けて、それでも尚、私の脳はこれを苺だと認識することを止めない。
これが彼の言う、脳の錯覚なのだろうか。
一気に開けた新しい世界に眩暈がした。
「ところで、シアさん」
だから私は、彼がくれた世界に陶酔していた私は、長い沈黙の末にそう名前を呼ばれてようやく我に返ることができたのだ。
「そんな解説はさておき、美味しいですか?」
「!」
「苺味の紅茶は、お嫌いですか?」
私は慌てて首を振る。
それはよかった、と笑った彼に、聞きたいことが沢山あった。
どうしてそんなことを知っているの?とか、他にも人間の脳は間違ったものを本物だと勘違いすることがあるの?とか、どうすれば私の脳は騙されなくなるの?とか。
しかし、湧き上がる好奇心とは裏腹に、私はあまりの衝撃に言葉を発せずにいたのだ。
こんなにもわくわくする世界があるなんて、知らなかった。それを先ずは彼に伝えようとしたのだが、やはり胸がいっぱいでそれは音になることをしてくれなかった。
世界には、私の知らないことで溢れているらしい。
彼は苺の香りがする紅茶を飲み終え、ソーサーにカップを戻してから再び口を開いた。
「シアさん、研究を生業としている人に出会うのは初めてのようですね。
人間やポケモンの謎を解明する科学を一般に「生物学」と呼びます。わたしはその研究をしているのですが、興味がおありですか?」
「は、はい!」
「では気が向いたら、また此処にお越しください。それまでに、貴方にも解りそうな資料を用意しておきましょう」
わたしとしても、自分の専門分野に興味を持っていただけることは嬉しいですからね。
そう付け足して彼は笑った。私はいきなり交わされた再会の約束が信じられずに目を見開いて沈黙する。
この人は何を言っているのだろう。どうして私のような子供をそんなにも笑顔で迎え入れてくれるのだろう。
彼が研究を仕事としているというのなら、ここはまさしく彼の仕事場の筈だ。そこに私が入るということは、邪魔をする以外の何物でもないのでは、と思ったのだ。
大人達は、構ってほしいとねだる子供を疎ましがる。
食事を作っている時に話し掛けると「外で遊んできなさい」と背中を押され、大人達の話の輪に入ろうとすると「子供が聞いて楽しめるようなお話じゃないわよ」と拒まれる。
彼等には不可侵の領域があり、そこに無理矢理入ろうとすることは彼等の機嫌を損ねることになると、私は気付いていた。
私にとって、大人の世界と子供の世界は深く断絶されていたのだ。
しかし、この人は違う。この人は子供に対する接し方を知らない。この人は私を子供のように扱わない。
私と彼との間には、きっと隔絶などなかったのだ。
だからこその彼の甘美な誘いがそこにあり、つまるところ、私はまたここを訪れることになるに違いないのだ。
「来ても、いいんですか?」
「ええ、お待ちしていますよ」
その時の私は、知らなかったのだ。
彼が研究に煮詰まっていたこと。それ故に、私に付き合ってくれる時間が十分にあったこと。味の解説に夢中になる私を、彼が心から喜んでくれていたこと。
それは双方の偶然と興味と、やわらかな喜びとが生んだ再会の約束だった。
それはもし、双方が持つ要素が一つでも異なっていたら交わされなかった筈の約束で、だからこそ、そこに言葉では言い表せない尊さが含まれているのだと、私はまだ、知らなかった。
2014.11.10
シンティヤン きらめくように