2 misterioso

家と称するには余りにも粗末な其処は、幸いにも防音設備だけは一流だったようで、ピタリと止んだ雷の音と同調するように私の嗚咽も収まった。
彼は数少ない家具の一つであるタンスからタオルを2枚取り出し、その内の1枚を私の肩に掛け、もう1枚のそれでわしゃわしゃと私の髪をやや乱暴に拭いてくれた。

「全く、酷い雨でしたね」

落ち着きましたか、と続けざまに為された問い掛けにこくりと頷く。それは良かった、と優しい声音が返ってきた。
しかしよく見れば彼の眉は不機嫌そうにひそめられ、自分の服も雨を吸っていることに気付くと、不快感に舌打ちさえした。
思わず顔が緩む。ふわふわした幸せの中を漂った。何故だか解らなかったが、心のままに任せるとそうなったのだ。

「ありがとう」

「どういたしまして。……冷えたでしょう?何か温かいものを淹れますよ」

何が良いですか、と尋ねてくれた彼に、私は少しだけ背伸びをしたくなった。

「貴方と同じものを」

笑われるだろうか。猫撫で声で宥められるだろうか。
だって今までずっとそうだったのだもの。それが子供である私に為すべき当然の反応であり、私が嫌悪して当然の運命であったのだもの。
私はその冗談を一笑に付される覚悟を決めていた。夢を見ることを期待されていた私は、けれども諦めることをすっかり覚えてしまっていた。
しかし彼は、私にそうした「期待」を押し付けなかった。「解りました」と頷いて、当然のように微笑みさえしたのだった。
私が「いいの?」と確認を取れば、彼は「何故そんなことを尋ねるのか」とでもいうように、首を捻りつつもう一度頷いてくれるのだった。

「わたしはアクロマといいます」

唐突にされた自己紹介に、私もまだ名乗っていないことに気付かされた。慌ててこちらも自分の名前を紡ごうとしたその時、私はもう一つの気付きを得る。
苛立ちを感じないのだ。大人を前にした時の確かな苛立ち。子ども扱いされることへの強烈なそれを、私が彼に対して抱くことはない。

どうしてだろう、と思った。苛立ちを感じないことへの疑問ではなく、私が子供扱いされないことへの疑問だ。
普通の大人なら、12歳を迎えたばかりの、背の低い自分に対して、子供扱いをする筈だ。
何故なら大人達は、そうすることが子供への気遣いだと信じているからだ。
そうした優しすぎる扱いに、苛立ちを覚えるなどという感情を、私のような子供が持ち合わせている筈がないと信じているからだ。
舐められている、馬鹿にされている、と思った。私はそれが大嫌いだった。

シア、です」

「ではシアさん。わたしは紅茶をストレートで飲みますが、貴方もそれで良いのですね?」

しかし目の前の男性、アクロマさんは、私にそうした気遣いを一切しない。……いや、私を気遣ってくれているけれど、そこに「子供」というフィルターは存在しなかった。
普通の大人ならしてしまう「子供扱い」を、彼はしない。猫なで声で話しかけてこないし、オレンジジュースを勧めたりもしない。
背の低い私に対して丁寧な言葉を使い、子供が普通なら飲まないであろう紅茶を、何の躊躇いもなく勧めてみせる。
ストレート、の意味は解らなかったが、そんなことは最早どうだってよかったのだ。私は彼の、気遣いをしない気遣いがとても嬉しかった。

「勿論です!」


透明なガラスのティーポットに私が見とれていると、彼はその中に苺の香りのする茶葉を入れた。
沸騰したお湯をその中に注ぎ、時計を見ながら「3分だけお待ちください」と笑った。
くるくると回る茶葉は、お湯を少しずつ染めていく。暫くそれを食い入るように見つめていたが、ふと彼の気配を感じなくなって、私は顔を上げる。
どうやら隣の部屋へ行ってしまったらしい。私はきょろきょろと室内を見渡した。

散らかってこそいないが、沢山の物に溢れ返ったその空間は、どれだけ見ても見飽きるということの起こらなさそうな場所であった。。
しかし残念ながら、その沢山の物、きっと何かに使うのであろう道具達は私の知らない、用途が全く想像出来ないものばかりだったのだ。
Y字の先が塞がったガラス管。水鉄砲にしては威力の低そうな、目盛りが振られたガラス管。大小様々の、ガラスでできたスポイトのようなもの。
静かな音を立てている機械には細い針が付けられており、それは勝手に動いて、紙によく解らない、ギザギザした絵を描いている。
壁には幾枚もの紙が画鋲で張られている。先程の細い針が描いた絵を、彼は大切に保管していた。

それらをじっくり観察し、用途を想像していると、彼が手に二つのティーカップとソーサーのセットを持って帰ってきた。
柔らかな白を呈したカップとソーサーは、まるで波のように緩やかな曲線を描いていて、何の装飾もなかったけれど、ただあまりにも美しくて、
ポケモンの絵がプリントされたプラスチック製のマグカップとは、何もかもが異なり過ぎているように思われたのだった。

「雨、止みませんね」

「……はい」

ポツン、ポツン。雨漏りのように呟かれる双方のやり取りを、私は心地良いと感じていた。
外を見ようと立ち上がると、……この部屋は恐ろしく乾燥しているらしく、随分と水を吸った筈の服が軽くなっていることに驚く。
そこで私は初めて、部屋の隅にあるエアコンが物凄い風音を立てて稼働していることに気付いた。

早々に濡れていない服に着替えた彼に、除湿は必要ない。それが私への心遣いだと理解し、急に申し訳なくなる。
胸をくすぶる苦しさ。申し訳ない、という気持ち。しかし、

「アクロマさん」

「どうしました?」

「ありがとうございます」

ごめんなさい、よりも、ありがとう、が、互いにとって良い形だと、私は知っていた。
もう殆ど乾いた服の裾を摘んでそう紡ぎ、笑えば、彼は私のそんな動作で全てを理解したのか、

「ええ、どういたしまして」

と、優しいテノールが返って来た。

時計の針が丁度3分経ったことを示し、彼は紅茶を真っ白なティーカップに注ぎ始める。私はそんな彼をただ静かに見ていた。
白衣を纏ったその背中に、心のままに任せたとすれば、きっと私は「縋った」のかもしれなかった。

「さあ、どうぞ」

「いただきます」

私の頬は高揚で僅かに赤く染まっていた。紅茶を飲むのは初めてだったのだ。
それは私にとって、コーヒーと並ぶ「大人の嗜好飲料」だった。無論、私がそれを飲む機会など与えられる筈もなかった。私の胸は期待に高鳴っていた。
恐る恐る、口を付ける。

「……」

味が、しない。
こんなにも鮮やかな芳香を漂わせているのに、その味はとても蛋白で、甘さの欠片もなかった。
愕然とする私に、彼は首を傾げる。
味があまりしませんね、と正直な感想を述べると、彼は少しだけ驚いた後で苦笑した。

「紅茶はその香りを楽しむものですから」

「そう、だったんですね」

「飲むのは初めてでしたか?」

大人の嗜好飲料に子供が線引きをされていたのには、それなりの理由があってのことだと、私はこの時、身をもって知ったのだ。
大人は、この味のない飲み物を美味しいと感じるらしい。しかしどう足掻いても、私にはまだその魅力が理解できそうになかった。
折角、彼が自分と同じ飲み物を用意してくれたのに、一口だけしか飲まないままにリタイアしてしまうなんて、と私は益々彼に申し訳ない気持ちになる。
しかし、先に謝罪の言葉を紡いだのは、私ではなく彼の方だった。

「気が付かなくて申し訳ありませんでした。貴方のような方と接する機会がわたしにはないものですから」

「!」

彼の「気遣いをしないという気遣い」は意図的なものかとも思ったが、どうやら違ったようだ。
この人は、私のような子供に対する気遣いを知らないのかもしれない。私のような子供と、あまり接したことがないのかもしれない。
変わった人だ、と思った。けれどそれ以上に、そのことが嬉しかった。
この人は私を子供として、半人前の人間としてではなく、彼と同じ一人の人間として扱ってくれているのだという確信は、私にやわらかな充足感と自信を与えた。

「そうだ!少しお待ちください」

彼は突然、ぽんと両手を叩いて微笑み、大きな棚の奥の方から白い陶器の入れ物を取り出した。


2014.11.10

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