21 fermata

私達は、19番道路を更に歩き続けた。
アクロマさんがロトムと呼んだそのポケモンは、彼の白衣を引っ張りながら先へと進んでいく。
いつの間にか、私達は手を繋いでいた。

シアさん。貴方はポケモントレーナーになったことがないと言っていましたが、ポケモンと接する機会はあったのですか?」

「はい、お母さんがポケモントレーナーなので。それに、2年前に旅に出た先輩も居ますから」

「では、その方達は、過去にポケモンを奪われた経験がありますか?」

思いもよらぬ質問に心臓が跳ねた。
反射的に首を振ると、彼はそうですか、と安堵の溜め息を吐く。

「そういう過去を持つ人間は、ポケモンと関わることがトラウマになってしまう事例があるようですから」

私は近所に住む、一つ年上の幼馴染のことを思い出していた。
彼は、彼の妹が大切にしていたチョロネコを奪われたことで、ポケモンが居なくなることに対して過剰に反応するようになった。
そんな彼のことを考えていた私は、気付かなかった。彼のその口調が、とても歯切れの悪いものであったことに。明らかな違和感をその時、私は拾えずにいたのだ。
しかし彼は、今度は言外に滲ませる形ではなく。直接的な言葉で私に疑問を投げかける。

「『ポケモンはモンスターボールによって人間に支配されている。』」

「!」

「2年前にイッシュを震撼させた、プラズマ団の言葉です。……貴方は、どう思いますか?」

脳裏を過ぎったのは、つい最近ヒオウギを訪れた2人の「英雄」の姿だった。
トウコ先輩が2年前に、どんな形で、Nさんを「王」とするプラズマ団と戦ったのかは解らない。
でも、プラズマ団を解散に追いやり、あの人を探す為に地方を旅した彼女の真っ直ぐな瞳は想像に難くない。
私が求めている、この世界で強く在るための生き方。きっと彼女は、それに一番近いところに居るのだろう。

「ポケモンと人間を区別し、白と黒にはっきりと分ける。そうして初めて、ポケモンは完全な存在になれるのだと、彼等は謳いました。
……まだポケモンを連れていない貴方に、その善悪を問うのはまだ早すぎましたね」

すみません、と苦笑して彼は紡いだ。
しかし考えずとも、その答えはすんなりと現れてくる。
私はそれをそのまま彼に伝えるべきかどうか少しだけ迷い、その迷いのままに、しかし声音だけは揺らがずに紡いだ。

「間違っています」

アクロマさんはその歩みを止めた。ロトムが訝しげに振り返る。
私は、自分の中で再び吹き荒れ始めた言葉の嵐を、混沌としたまま吐き出すことにした。

「私には解りません。ポケモンと私達はどう生きていくのが良いのか、とか、完全な存在になることはそもそも幸せなのか、とか、そんなことちっとも解りません。
解らないから、私はそれを知りたいと思います。自分で考えて、自分で在り方を決めたいです」

彼の白い手が私の視界を塞いだ瞬間のことは、まだ記憶に新しい。
振り解くべきだったのだ。止めてとその手を拒絶すれば良かったのだ。
……そして、そうできなかったことへの責任は、自分で取らなくてはいけない。

私は必死だった。私の拙い理論を、彼は笑うことなく、軽んじることなく、逐一拾い上げてくれる。
そのことに甘え過ぎていた私は、やはり、気付けなかったのだ。
「間違っています」と私が紡いだその瞬間、彼がとても悲しそうな表情をしたことを。

「真実を探す人の目を無理矢理塞いで、大切なものを奪うことは許されない」

『大人達は、理由もなく貴方の目を塞いでいる訳ではない。』
『しかし、貴方にはそれを拒絶し、知りたいことは知りたいと言える権利があります。』
どこまでも私の意志を尊重する、その彼の言葉はどこまでも優しかった。
私は必死だった。それは焦燥と懇願が錯綜した言葉だった。

私なんかよりもずっと苦しみ、悩んで、懸命に生き続けてきた人。
理不尽な世界で生き抜く為に、人間への無関心を決め込み、彼等を拒絶して生き続けながら、それでも私に駆け寄り傘を差し出せる、とても優しい人。
私のことを信頼してくれて、私が信頼した、ひたすらに誠実な人。
この人に、私と同じ世界が開かれていないなんて、そんなこと、ある筈がない。あってはいけない。

「アクロマさんは、それを解ってくれています。綺麗な世界は、きっと貴方にも開かれています」

後は、彼がそれを選ぶだけ。


暫く歩いていると、先に進んでいたロトムがふわふわと戻って来て、彼の白衣のポケットを探り始めた。
カサカサと小さな音を立てて取り出されたそれは、クッキーのようだった。彼は苦笑して、ロトムからそれをひょいと取り上げる。
封を開け、その一枚を私に差し出してくれた。ふわりと特殊な芳香がする。

「紅茶のクッキーです。ダージリンという茶葉を使っているのですよ」

「ありがとうございます!」

紅茶は甘いものとばかり思っていた私は、その不思議な香りに心を奪われていた。
そのダージリンが、紅茶の王道であり、苺やリンゴの香りがする紅茶の方が特殊であることを、私はまだ知らなかった。
香りは甘くないけれど、クッキーの味は甘い。私は「美味しいです」と笑顔で感想を述べてから、しかし何処かおかしくなって首を傾げる。

「でもこの紅茶、本当は甘くないんですよね」

「ええ、そうですよ。ストレートで甘い紅茶は基本的にありません」

「でも、最初にダージリンをこのクッキーの味でインプットしてしまったら、私の脳は「ダージリンは甘いもの」って、認識してしまいそうです」

すると彼は目を見開いて沈黙した。彼の手から食べかけのクッキーの破片がぽろりと落ちる。
私は不安になって彼の名前を呼ぶ。

「……まだ、そんな話を覚えていてくれたのですね」

「どうして?忘れませんよ、だって世界が変わったんだもの」

彼は私の頭をそっと撫でた。
その手に込められたものを、私が全て汲み取ることはできなかったけれど、それでも、寄り添いたかった。

「実はダージリンは、わたしの一番のお気に入りなんです。
甘い香りではないので今はまだ馴染めないかもしれませんが、シアさんがもう少し大きくなったら、是非、ストレートで飲んでみてくださいね」

「え……」

私は言葉を失う。ダージリンという紅茶の種類を、私は今、初めて聞いたからだ。
春が始まり、もう直ぐ夏が訪れようとしている。この一つの季節の間、ずっと彼の元へと通い、彼と一緒に紅茶を飲んだ。
しかし、彼がこの不思議な芳香を持つ茶葉を出してきたことは一度もない。
何故だろうか。しかしその浮上した疑問は、その彼の言葉を反芻すれば直ぐに氷解した。

『甘い香りではないので今はまだ馴染めないかもしれませんが、』
私は、彼が甘い香りのする紅茶が好きだから、ずっと甘い香りの茶葉を用意していたのだと思っていた。しかし、違ったのだ。
それは私への配慮だったのだ。甘いものが好きな私に、甘くない香りの紅茶を出さなかった、彼の精一杯の気配りだったのだ。

……どうして、こんなにも優しい人が、あんな風に傷付かなければならないのだろう。

遠くでポケモンの鳴き声が聞こえる。近くの草むらを小さな影が駆け抜けていった。
ヒオウギの街に居ると、彼等の存在はとても遠いものだった。
きっとこれからは、彼等を視界に据えるのが当たり前になっていくのだ。ポケモントレーナーになり、旅をするとはそういうことだった。

足を踏み入れる事を許されなかった世界。目を塞ぐ人物の手が届かない世界。私が、強く生きる在り方を探す広大な舞台。
望んでいた筈だった。自分の目で全てを見ることを、強く願っていた筈だった。
なのに、

「……アクロマさん」

「はい」

「どうしよう」


涙が止まりません。


真っ白な腕が幼子をあやすように私の背中を小さく叩く。
私は声をあげて泣いた。押し殺すことができなかった嗚咽は、白衣の胸が拾ってくれた。
背中に回された腕の力が強くなる。

……どうか、彼に綺麗な世界が開かれますように。


2014.11.16

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