20 fantastisco

私が、彼と出会って変わったこと。

一つ目。
日常のちょっとしたことにも「何故?」と疑問を持つようになった。そして、それを本で調べるということを覚えた。それでも解らない疑問は、彼が解決してくれた。
その度に広がる世界に私は陶酔していた。彼がメッセージカードに書いてくれた言葉通り、彼が私にくれた本は、私の世界を急速に広げていたのだ。

二つ目。
私は彼と重ねた時間で、主体性と希望と自尊心とを取り戻していた。
それは私が、大嫌いな大人達によって奪われてしまった筈のものだった。彼は私を子供扱いせず、一人の人間として扱ってくれた。それが何よりも嬉しかった。
半人前としてではなく、彼と同じだけの権利を有し、自由に振舞えることに私は慣れ始めていた。
彼との間には、確かな信頼関係が構築されているのだと信じられたのだ。

三つ目。
そんな彼が「人間を信用していない」と言った時、私は強烈な絶望と焦燥を抱いた。
信じていたものを根底から覆されたショックと、どうしたらこの人を助けてあげられるのだろうという焦りだった。
しかし彼は、人間が嫌いだと言ったその口で、私のことを信頼していると紡いだのだ。
私が彼に信頼を委ねるまでの過程が、そのまま彼の中でも起こっていたことに気付き、私達は笑った。
私達はとても似ていて、だから何も案ずることなどなかったのだと思うことができた。

四つ目。
しかし、彼も私の目を塞いでいた。
彼は、私の嫌う大人達が理由もなく私の目を塞いでいる訳ではないこと、その行為には、未来を生きる私達に希望を託す意味が含まれているのだということを教えてくれた。
そして、自分も、私が嫌う大人の一人だと言って、とても悲しそうに笑ったのだ。
私にはそれがどうしても受け入れられなかった。
私に託された希望を受け入れることはできても、それがアクロマさんに与えられていないという事実を受け入れることができなかったのだ。
だから私は、懇願した。しかし私と彼と隔絶は、予想以上に大きいことを思い知らされていたのだ。

私と彼とを隔てたものは、一体、何だったのだろう?
私はそれが未だに解らずにいた。
子供である私と大人である彼との年の差だったのだろうか?それ故の経験の差だったのだろうか?
それとも、科学者としての彼と、何の知識持たない私の認知や発想の差だったのだろうか?
あるいは、その全てだろうか。

五つ目。
そんな彼の傍はとても優しく、それ故にとても悔しい。
だから私は、彼と同じ地面に靴底を揃えるために、彼と同じ目線で世界を見るために、隔てられた壁を乗り越えるために、旅に出ることを選んだ。

それはとても拙くて幼い、愚かな思いだった。けれどその思いに嘘は決してなかった。
私は彼との時間を愛していた。愛しすぎていた。


さく、さく。
肩に下げた鞄の中で、タマゴが小さく揺れている。草むらを進む私の足取りは覚束ない。
アクロマさんはそれに苦笑しながらも、彼の白衣の裾を掴み、はぐれないように縋ることを許してくれた。
その隣で、私と同じように彼の白衣を引っ張る気配がする。

「ロトム、白衣が伸びてしまいますよ」

半ば引きずるように彼を先へと誘導するポケモンは、昨日貰ったタマゴのように冷たくひんやりとしている。
キャッキャと笑いながら宙を踊る姿に思わず笑みが零れた。

唐突に「シアさん、少しフライングをしませんか」と切り出した彼は、私を連れてヒオウギシティの北にある19番道路を訪れていた。
ポケモントレーナーである母に連れられて、もう少し東へ進んだところにあるサンギタウンやサンギ牧場に行ったことはあったが、それも随分と前の話だ。
いつ野生のポケモンが飛び出してくるか解らないという緊張感を、私はかれの白衣の裾を強く掴むことで誤魔化していた。
彼の目が何の恐れの色も湛えていないのは、彼が私よりも多くの経験を重ねているからだろうか。それとも、ポケモンがいてくれるからだろうか。

「わたしは昔、有名な大学の研究機関に所属していました」

草むらを歩いていた彼は、ふいに口を開いて彼の話を始めた。
私は唐突なそれに少しだけ驚いたものの、静かに相槌を打って続きを求める。

「そこではわたしのような科学者達がしのぎを削って、日夜研究に没頭していました。
大勢の研究者で溢れ返るその場所で、自由に研究を行う為には権力が必要でした。
大学の教授や准教授、ないし助教授になるか、そうした強い権力を持つ人間に、自分の研究成果を認められる必要があったのです」

彼はその過去を懐かしむように、その金色の目を細めた。
そうした研究者が働く大学の研究機関を、私はテレビで見たことがあった。あの立派な建物で彼が働いていたのだと思うと、その知識の量にも納得がいった。

「わたしは苦しい環境の中でそれなりに研究成果を上げ、その成果を教授が目に留めてくれました。
ようやくそれなりに自由な研究環境が確保できると安心したのですが、実際にはそうはなりませんでした。
寧ろ逆に、周りの研究者たちがわたしの研究の邪魔をしたり、わたしの評判を貶めるような噂を流したりといったことを始めました」

「……」

「それまで、教授の目に留まる範囲に居なかったわたしは、知らなかったのです。
研究者同士のそうした足の引っ張り合いが行われていたこと、そのようにして、優秀な研究者達が何人も追い詰められていたことを」

そして私はようやく、彼の告白の真の意味を悟る。
『わたしは基本的に、人間を信用していません。』
あの言葉に含まれていた彼の思いを、私はようやく聞くことができているのだ。
こんなにも優しい人が、あんなにも冷たい言葉を紡がなければならなかった理由に、私はようやく触れようとしているのだ。

「わたしがそれらの嫌がらせに耐えながら、やっとのことで准教授のポジションに就いた時、周りの研究者は、手の平を返したように、わたしの機嫌を取り始めたのです」

彼はとても楽しそうに笑い、肩を竦める。
しかし私は彼との時間を重ねすぎていた。その金色の目に、笑顔を絶やさないその目に、失意の色を汲み取ることは容易かったのだ。
だから私は、笑えなかった。

「それまで研究のことしか頭に無かったわたしは、その時にようやく気付いたのです。
出る杭は打たれるということ、そして出過ぎた杭は、媚を売る対象となること。
この世界には、そうした理不尽なことを平気で行う、利己的で醜い人間で溢れ返っていることに」

「……」


「わたしにはそれがどうしても受け入れられなかった」


いつかと同じ言葉を紡いだ彼から、私は目を逸らすことができずにいた。
テレビで見た、あの立派な建物の、洗練された研究所の中で、そんなにも酷いことが行われていたのだ。
更に言えば、そうした酷いことを平気で行えてしまう人間が、この世界には数え切れない程にいるという事実に私は怯えていた。
『世界は、大人は、わたしは、貴方が思う以上に汚く醜い。』彼が苦しそうに零したその言葉の真の意味を、私はようやく理解するに至ったのだ。

「それらに無関心を決め込むには、彼等のそれはあまりにも執拗で、わたしの視界にそれらは否応なしに入り過ぎていました。
わたしは折角手に入れた准教授のポストを放り出し、大学を出ました。それと同時期に、知り合いから研究の手伝いを頼まれ、今はそこで働いています」

これが、私が人間を信用していないと言った理由の全てです。
そう最後に締め括り、彼は私の頬にそっと手を伸ばした。

「……ああ、すみません。泣きそうな顔をしていたものですから」

貴方が泣く必要などないのですよ。そう微笑む彼に私は背伸びをして、彼の頬にそっと手を伸べる。
「私が思っていることは、アクロマさんが思っていることだと思ったから」そう紡いだ私に、彼はその笑顔のままに首を捻る。
私は彼を真っ直ぐに見上げて、口を開いた。

「私が泣きたくなったってことは、きっと、そういうことなのかなって」

瞬間、その手が強い力でぐいと引かれた。
白衣に顔を埋められ、ふわりと甘い紅茶の香りがした。強く、強く抱きしめられた。
慌てて彼の名前を呼ぼうとした私は息を飲む。
「少し、じっとしていてください」そう懇願する彼の声が、あまりにも小さかったからだ。
私は両手をそっと彼の背中に回した。

いつか、こうやって彼に縋り付いたことがあった。あの時も彼は「ほら、間違っていないでしょう?」と、優しく笑ってくれた。
彼と同じようにすることはできないかもしれないけれど、それでも私は、そう在りたいと望むことを止めなかった。
彼は私の頭を優しく撫でる。

「けれど、わたしは貴方を信じられた」

「!」

「ですからわたしも、久し振りに貴方以外のものを信じてみようと思います。貴方が出会う全ての人が、貴方の旅路を支えてくれることを祈っていますよ」

彼のその言葉を噛み締める。
その声はもう震えてはいないのに、何故か泣きたくなってしまった。


2014.11.16

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