沢山の紙袋を提げ、私達はアールナインにあるカフェに立ち寄っていた。
私は迷わずにリンゴの香りのする紅茶を注文したが、彼は暫くの思案の後に「エスプレッソを」と紡いだ。
エスプレッソとは、コーヒーをもっと濃くした飲み物らしい。カフェインという成分が入っており、覚醒作用があるのだと彼は説明してくれた。
「人によっては毎日、常飲する場合もあるようですが、わたしは気分をすっきりさせたい時や、眠い時に飲みますね」
「アクロマさん、眠いんですか?」
「ええ。昨日はあまり眠れなかったものですから」
その言葉に私は青ざめた。身を乗り出して、彼の眼鏡を取り上げる。
驚きに目を見開く彼の、その目元にはやはりうっすらと隈があった。眼鏡の影だと思っていたそれは、寝不足を訴えるものだったのだ。
大丈夫ですか?と尋ねると、彼は苦笑と共にそっと眼鏡を取り返した。
「ええ、おかげで煮詰まっていた研究も捗りそうです」
「!……何か、解ったんですか?」
「聞いてくださいますか?」
注文した飲み物が運ばれて来る。
アクロマさんが頼んだエスプレッソのカップの小ささに驚いていると、彼はそのカップを掲げ、「エスプレッソはこうした小さな容器で飲むものなのですよ」と解説してくれた。
私は備え付けのシュガーパック1本開けて、紅茶の中に流し込んだ、さらさらと心地よい音が鼓膜を揺らす。
「本来、紅茶とコーヒーのような、お互いが強い香りを主張するものを近いテーブルで飲むのはあまりよくないことなのですよ」
「……香りを、お互いが邪魔してしまうからですか?」
「ええ。ですが今回だけは許してくださいね」
まるで次があるかのようなその言い方に、しかしそう指摘することは躊躇われた。
大丈夫です、エスプレッソもいい香りですよ。そう告げて私は紅茶を掻き混ぜる。テーブルの向かいから、確かにエスプレッソの強い芳香が漂ってくる。
しかし私はそれを不快に感じるよりも先に、彼からそうした苦い香りが漂ってくることに新鮮さを感じていた。彼はいつも、紅茶の甘い香りを身に纏っていたからだ。
「アクロマさんから苦い香りがするのって、なんだか新鮮ですね」
思ったままを正直にそう紡げば、「こんな私はお嫌いですか?」と返ってくる。
「どうして?」と尋ね返せば、彼はその目を大きく見開いた後で肩を震わせて笑い始めた。
苦い香りが、彼を彼でなくしてしまうというのなら話は別だけれど、そんなことはあり得ない。甘い香りがしても苦い香りがしても彼は彼だ。嫌いになる筈がない。なれる訳がない。
「わたしが人間を信用していないという話を、前にしたでしょう」
私はスプーンで紅茶を混ぜていた手をぴたりと止めた。唐突に切り出された新しい話題に私は当惑し、しかし直ぐに気を取り直して相槌を打つ。
私が嫌いなのではなく、人間が嫌いなのだと、その全てを拒絶した彼の記憶はまだ新しい。
そして、貴方のことは信用しているのだと、そう紡がれた記憶もまた、瞼の裏に残っていた。
「わたしは無意識に、ポケモンに人間との共通項を見出さないようにしていたのかもしれません。
人間に個性があるように、ポケモンにも一匹一匹の性格があること。それぞれの人が発揮できる力の種類も強さも異なるように、ポケモンの力もまた、多様なのだということ。
私はそれらから目を逸らし続けてきました。神秘的な力を持った素晴らしい生物であるポケモンを、わたしが嫌う人間と同じカテゴリーに収めてしまいたくなかったのです」
「……」
「無機物の実験に再現性が求められるのと同じように、生きているポケモンにもそれを求めようとしていました。
何故ならそれが化学だからです。実験や研究に求められる条件だからです。
……しかし、それは建前だったのでしょうね。わたしは無意識に、恐れていたのです。この神秘的な生き物に、人間の影を重ねることを、彼等を嫌ってしまうことを。
ですからわたしはずっと、ポケモンを止め絵のように、流れも変化も差異もない存在として扱ってきました。
本当は、彼等は生きているのに。全く同じ個体など、存在し得ないのに。変わらないものなど、ある筈がないのに」
彼の独白に、私は頷く事すら忘れていた。私はあの日のやり取りを思い出していた。
『……ではシアさん、貴方はポケモンに、我々のような個性があると考えているのですね?』
だからあの時、彼は驚いた表情をしていたのだ。
彼はずっとポケモンのことを、塩や10℃の水と同じ無機物のようなものだと捉えてきたのだ。
だからこそ、その無機物の実験において必須である再現性を、ポケモンにおいて確保できないことに悩んでいたのだ。
「ポケモンが生き物であることを忘れていたわたしは、貴方の言葉に愕然とさせられました。
きっとわたしの研究は、ポケモンという生き物を真っ直ぐに捉えることをしなかったその時点で、袋小路になっていたのでしょうね。
わたしは、それに気付くのが遅すぎた」
彼はそう零して、エスプレッソの残りに口を付ける。
私は微動だにできなかった。
自分の何気ない発言が、いつもの遣り取りのように感じられていたあの会話が、彼にとってそんなにも大きな意味を持っていた、だなんて、思いもしなかったのだ。
更に言えば、自分の何気ない発言が、彼の研究を、彼の視点を叱責するものだったなんて、そんなつもりは微塵もなかったのだ。
私は青ざめた。しかし彼はそんな私に微笑み、気にすることなく続きを紡ぐ。
「あの時、わたしの研究が、その土台から崩されたような気がしたんです。
半ばやけになったわたしは、貴方に尋ねました。貴方はどう思っているのか、と。ポケモンの力は、何によって引き出されると考えているのか、と」
私は再びあの日を回想する。……そうだ、確かに私は彼にそう尋ねた。
そして私は彼に、あんな言葉を投げてしまったのだ。
『強くなりたいっていう意志は、きっと、誰かの為に芽生えるものです。』
「貴方の着眼点は、わたしとは真逆にありました。
ポケモンのことに詳しくない貴方は、だからこそ、知能の高い彼等のことを自分になぞらえ、意志の力を私に説きました。
どれだけ最高の環境を用意したとしても、どれだけ最適な刺激を与えたとしても、そこに意志がなければ力を引き出すことは不可能です。
わたしはそれを知っていました。知っていながら、それについて追究することを避けていました。
そして貴方は、その意志の力は、自分ではない誰かのために芽生えるものだと教えてくれました。貴方にとって、そうした強さは、誰かのために得るものなのですね」
「……アクロマさん、私は、」
「わたしにはそれがどうしても受け入れられなかった」
エスプレッソの小さなカップが、静かに置かれる。
彼にとって、「ポケモンが誰かの為にその力を振るう」ということが何を意味するのか、それを私はようやく理解する。
彼にとって、それは二重の責め苦だったのだ。
ポケモンを無機物のように扱い、人間と同じような個性から目を逸らし続けてきたことで、彼の思う真実に辿り着けなかったという、一つ目の苦しみ。
そして、もし私の答えが正しいのならば、彼が夢中になり、その好奇心を総動員して探究したポケモンの力は、彼の嫌う他者との絆によって引き出されるということになる。
ポケモンにとってのそうした「他者」にはもしかしたら、人間も含まれているのかもしれない。そう考えるのは自然なことだろう。
彼が神秘的な生き物として神聖化していたポケモンという存在、その力を引き出すためには、彼が嫌う人間の存在が必要であるかもしれないという可能性。
それを認めなければならないという、二つ目の苦しみ。
「シアさん、貴方の仮説はきっと正しい。
この世界を、大人を嫌いながら、それでも人の為を思い、正しい答えに辿り着ける貴方のことが、わたしは本当に羨ましい」
泣きそうな顔をして、しかし彼は本当に優しく笑ってみせる。
彼を傷付けたに違いない私を前にして、彼は信じられない程、穏やかに笑うのだ。
「わたしは、認めたくなかったのかもしれませんね。他者の為にその力を振り絞るポケモンがいることを。
ポケモンが持つ力はもっと、本能的なものだと思っていたのです。極限状態に置かれた段階でこそ、彼等は真の力を発揮するのだと、信じていました」
「でも、私の考えが正しいかどうかなんて、解らないじゃないですか。
私はポケモンに関する知識を何も持っていません。研究者でも、ポケモントレーナーでもない、ただの子供です」
やっとのことで私はそう反論する。反論して、その言葉の中に懇願の音を込める。
だからお願い、私なんかの言葉にこれ以上揺らがないでください。これ以上、私なんかの言葉で傷付かないでください。
半人前の子供ではなく、一人の人間として扱われることの重さを、この時私は身をもって知ったのだ。
一人の人間として彼の前に立った私は、自身に対して責任を負わなければいけなかったのだ。私はそれを怠り、結果、彼を傷付けた。
にもかかわらず、彼はいつものように微笑んで私の頭を撫でるのだ。
「シアさん、貴方は自分の発言がわたしを傷付けたのではないか、わたしの研究を冒涜したのではないかと不安になっているようですが、それは杞憂ですよ」
「嘘、ですよね。そんな筈、ないもの」
「いいえ、本当です。確かにわたしは、自らの仮説が間違っていたことに気付き、愕然としましたが、やっと受け入れるための準備ができた。……きっと貴方のおかげですね」
彼はまたしても信じられないことを紡ぐ。
紅茶はとっくに冷めてしまっていた。
2014.11.15
フレッシービレ 流れるように