13 sentimentale

次の日、私のノックに彼は出てきてくれなかった。
暫く待ってはみたものの、不安になった私は思わずドアノブに手を掛けてしまう。すんなりと開いたそのドアに、留守ではないらしいと勝手に判断して、私は中へと入ることにした。
瞬間、感じた違和感の正体を探るべく、私は部屋中をくまなく見渡した。

「……」

テーブルの上に、二人分のティーセットが置かれている。それは特に不思議なことではないのだが、そのカップの底には紅茶が少しだけ残ったままだった。
昨日、私が帰った時の状態で、片付けられることなくそこに置かれていたのだ。こんなことは初めてで、私は首を捻る。

加えて、奥の部屋へと続くドアが大きく開けられていた。
普段の彼はその向こうの部屋で実験をしているらしく、「危険なものがあるから」と言って、その中を見せてくれたことは一度もなかった。
私はその部屋に彼がいるのかもしれないという期待と、その部屋を覗いてみたいという好奇心とに身を任せ、開いているドアを小さくノックしてから、部屋へ一歩、踏み入った。

「……」

目を閉じた。開いた。更に強く閉じた。その上から手で塞いだ。恐る恐る目を開くが、やはりその光景は変わらないまま、ただ其処にあった。
これは夢だ、なんて、とんでもない方向に逃げそうになった。それは、彼の前では絶対にすべきでないことだったのに。

その部屋は嵐の後のような有り様であった。
本棚にあるべきそれらは床一面に埋め尽くされ、数冊はページを破かれ、ぐしゃぐしゃに丸められていた。
カーテンと思しき布の破片が、椅子の上や本の山と同化するように散らばっている。
先が枝分かれしたガラス管や、多岐に渡る大きさのビーカーは、綺麗に切断されていたり粉々に割られたりと、一様にもとの姿を保ってはいない。
大きな水槽のようなものの中には、見知らぬポケモンが浮かんでいて、その身体には沢山のコードが付けられている。
私に気付いたそのポケモンは、その目を部屋の奥へと逸らした。私はそのポケモンの目線を追い、部屋の最奥で立ち尽くす彼を見つける。

「アクロマさん」

その声が震えていることに、気付いていたけれど、私は必死にそれを押し留める。
恐怖ではなく、ただ心配だけを表情に見せて、彼の方へと歩み寄ろうとした。

「来ないでください」

「!」

ぴたりと空中に浮かせたまま、不自然に止めてしまった足を、私はゆっくりと元の位置に戻した。
その声は掠れていて、しかし確かな鋭さをもって私の胸に突き刺さったのだ。拒まれた。そう認識すると、身体の芯から絶望が込み上げてきた。
しかし彼は素早くこちらに歩み寄り、私の肩を抱いて、一歩だけ部屋の外へと押し出した。

「ガラスの破片が散らばっていましたからね、スリッパを履かずに踏み入ると怪我をしますよ?」

「あ、ごめんなさい……」

「いえ、いいんですよ。わたしを心配してくれていたんでしょう?」

ありがとう。そう紡いでそっと私の頭を撫でる、その声にはしかし、覇気がなかった。
どうすれば、どうすればいいのだろう。私は今のこの人に何をしてあげられるのだろう。
こんなにも部屋を滅茶苦茶にする程に追い詰められ、にもかかわらず驚いた私を気遣うように笑ってみせる、この優しすぎる人に、私ができることはあるのだろうか。

「見苦しい部屋をお見せしてしまって、申し訳ありません」

「いえ、私こそ、勝手に入ってしまって……」

この部屋の惨状は、明らかに人為的なものだった。彼が、この部屋をこんな風にしてしまったという、その事実が受け入れられずに私は当惑する。
いつものように、ドアをノックしても返事を拾えなかった、その段階でおかしいと気付くべきだったのかもしれない。
そうでなくともせめて、片付けられていない昨日のティーセットを見た段階で、開けられることのなかった奥の部屋への扉が開けられていた段階で。
にもかかわらず、私はこのプレハブ小屋の中へと入ってしまった。入った事のない部屋へと踏み入ってしまった。

どうして入ってしまったのだろう。どうして歩を進めてしまったのだろう。私は数分前の私を悔い始めていた。
しかしその一方で、彼から目を逸らしてはいけないと強く感じていた。
私は知りたいと願った筈だ。大人を、世界を、彼を。
それを求めた今、信じられない光景と驚くべき彼の打ちひしがれた姿を前にして、見たくない、などと言って目を伏せることは許されない。

私は何をすればいいのだろう。何ができるのだろう。散らかった部屋で、彼を視界に入れながら私は考えた。
足の踏み場を無くしている本の山を、一冊ずつ片付けていこうか。ちぎれたページを拾い集めて、元の本にテープで修繕をしようか。
それとも、粉々になったガラス管を、箒とちり取りで掃除しようか。零れている液体は雑巾で拭こうか。
あるいはビリビリに破かれたカーテンの切れ端を集めて回ろうか。

冴えた頭は高速で回転しているのに、身体は指の先すら動かない。
全身にまとわりつく嫌な感情を必死に振り払う。醜い名前を付けてしまう前にと、必死で頭から追い出そうとする。
目を逸らすな、という暗示だけに身体は反応し、私はその金色に視線を突き刺していた。
睨んでいたのかもしれない。ただぼんやりと見ていたのかもしれない。残念ながらその感情はすぐそこまで来ている。
思考を緩慢にするそれを必死で否定する。

違う、違う。だって私は、この人が見せてくれる世界を、この人を知りたいと思ったのではなかったか。

「一度、家に帰ってもいいですか?」

やっとのことで絞り出したその言葉に、彼が不安気な目を向ける。縋るような、危うい目だ。
私はそのことに恐れを抱きそうになりながら、しかし何とか笑ってみせた。

「掃除道具を、持ってきます。私にも、お片付けを手伝わせてください」

彼の返事を聞かないままに、私は踵を返してプレハブ小屋を飛び出した。
早く、早く戻らなければ。でないと、私が彼から逃げたと思われてしまう。私が彼を恐れていたことが知られてしまう。
これ以上、彼の心を乱してはいけない。これ以上、彼を不安にさせたり、絶望させたりしてはならない。ましてや、それを私が与えることは絶対に許されない。

私は家までの道を一目散に駆け抜けた。
玄関に靴を脱ぎ散らかして、箒とちり取り、雑巾や布巾、セロハンテープ、スリッパなどを袋に詰め込んで、靴を履き直すのもそこそこに走り出す。
止まらなかった。立ち止まってはいけないと思っていた。
考える時間を自分に与えてはいけない。彼のことを恐ろしい、だなんて、絶対に思ってはいけない。

バタン、とドアを乱暴に開ける。
こちらを見たアクロマさんは、「おや、随分と早いですね」と、少しだけ驚いたような表情を見せた。

「……ただいま」

どうしてそのような言葉を口にしたのか、自分でもよく解らなかった。
それは自分に掛けた暗示だったのかもしれない。彼は恐ろしい人でもなんでもない、私が心から信頼した素敵な人なのだと、言い聞かせたかったのかもしれない。
あるいは、そんな突拍子もない挨拶をすることで、この重く張りつめた空気を取り払いたかったのかもしれない。
そして幸いなことに、そうした苦し紛れの一言を、彼は丁寧に拾い上げてくれる。

「おかえりなさい」

あの時と逆だ、……と思いながら、私は持ってきた掃除道具を掲げてみせた。


私はスリッパを履き、先ずは散らばった本のページを拾い集めた。同じ紙質、同じ字体のものを纏めて彼に渡した。
セロハンテープを彼に渡せば「用意がいいですね」と、どこか楽しそうに笑ってくれた。
散らかったガラスの破片を箒で掃き集め、ちり取りに入れた。小さくて拾えない破片は、彼が掃除機で綺麗に吸い取ってくれた。
カーテンは修復不可能だったため、新しく買い直すことにして、全て取り払った。

その間に、彼はぽつりぽつりと言葉を零してくれた。
ずっと、自分の研究に煮詰まっていたこと。ポケモンの力を引き出すための実験に限界を感じていたこと。その突破口を見つけられずにいたこと。

「わたしだけの発想では、これ以上の研究の成果は上げられないだろうと思ったのです。
もうずっと前に、貴方と取引をしましたよね。あれは正直なところ、最後の頼みの綱だったのです」

『では、こうしましょう。わたしは貴方に、貴方が興味を持ったことを何でも教える。貴方がわたしに、その中で気付いたことや自分の考えを逐一報告する。』
あの交渉が成立した日から、もう2か月が経とうとしていた。春がやって来て直ぐの頃に成立した、この不思議な関係は、もうそんなにも長く続いていたのだ。
そして、こんな私のことを「最後の頼みの綱」だと称したアクロマさんに私はただ、驚く。

シアさん、貴方の発想力は、わたしの想像以上でした。わたしが素通りしてしまうであろう小さな点に着眼し、ちょっとした些末なことにも疑問を持つ。
だからこそ、わたしには考えもつかないようなことをひらめいてみせる。……わたしは、貴方が羨ましくなる時があります」

信じられないようなことを零した彼に、私は言葉を失って立ち尽くしていた。
私が、羨ましがられていた。この素敵な人に?
何かの冗談だと思いたかった。しかし彼はそんな悪質な冗談を紡ぐ人ではなかったし、何より私は彼の言葉を信じていた。信じていたからこそ、その驚きは相当なものだった。
彼は私の頭をそっと撫でて、微笑む。

「お手伝い、本当にありがとうございます。少し、外へ出ませんか?お話の続きは、歩きながらしましょう」


2014.11.15

センティメンテーレ 感傷的な

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