「そもそも実験結果から何かしらの結論を導き出すには「再現性」が必要なのです」
アクロマさんは、新しい言葉を紡いで次の説明をしてくれた。
「再現性……?」
「同じ実験をすれば、同じ結果が出るということです。しかしポケモンに関する研究の場合、この再現性をなかなか持たせることができません」
彼は愛用している折り畳み式のタブレットを取り出して、丸い体に尖った耳が生えているポケモンの姿を2体描いた。
彼が図を描いて説明してくれる時は、いつもこの不思議なタブレットが使われていたのだ。
右のポケモンに「A」、左のポケモンに「B」とタッチペンで書き、名前を付けて区別し、そのタブレットをくるりと回転させてこちらに向けてくれた。
私はテーブルに少しだけ身を乗り出して、その図を見ながら彼の説明を聞く。
「仮に、Aという個体の力を発揮させようとするには、Aという種族が好む電磁波を浴びせてやることが最も適切であるという結果が出たとしましょう。
この実験結果は「電磁波を与えると、このポケモンは相当な力を発揮する」というものです」
彼はAのポケモンの傍に、黄色で電磁波らしきものを描いた。
そしてその電磁波を今度は黒で囲み、そこからBの方へと矢印を描く。
「この結果に再現性を持たせようとした場合、Bという別の個体で、同様の実験をしなければいけません」
「つまり、Bのポケモンにも、同じ電磁波を浴びせる必要があるんですね」
「ええ、そして、その時がBにとって最高のコンディションとなるということを証明しなければなりません。……ただ、これがなかなか難しいのですよ」
彼は力なく笑ってみせた。何処か疲れ果てているようにも見えるその表情は、私が今まで見たことのないものだった。
私は思わず息を飲む。しかし彼はそのまま話を続ける。
「Bが電磁波に全く反応しない場合もありますし、電磁波以外のもので最高のコンディションを持つ時もあります。
もし電磁波でBのコンディションを最高ラインに持って行けたとしても、そこから最高の力を発揮するかどうかは解りません。
そもそも、最高のコンディションでない場合にも、Bはかなりの力を発揮する個体であるかもしれません。
……ポケモンの実験には、このような不確定の要素が多すぎるのです」
私は沈黙した。沈黙して、彼の難しい言葉を咀嚼しようと努めた。
つまり、Aのポケモンの実験に再現性を持たせようと思うなら、Bのポケモンでも同じ実験をして、全く同じ結果を出さなければならないらしい。
Aのポケモンに電磁波を与えると強くなるという結果が出たのなら、Bのポケモンにも同じ電磁波を与えて、同じ強さを引き出せる状態でなければならないという。
私は暫く考えて、……その「再現性」を持たせることは、アクロマさんの言葉通り、かなり難しい、いや、もしかしたら不可能に近いのではないかと思い始めていた。
その確認をするために、私は一つの質問をする。
「簡単に再現性を持たせられる実験には、どんなものがあるんですか?」
すると彼は「何故そんなことを聞くのだろう」という疑問を表情に滲ませ、しかし肩を竦めて微笑んでみせる。
「化学や物理の本に載っている全ての実験は、再現性が確保されているものですよ。
前に、不可逆性の話をしましたよね?50℃の水と10℃の水を同じ量だけ素早く混ぜたなら、その温度は30℃に統一されてしまいます。これは再現性がある実験ですよ」
「……他には、何かありますか?」
「そうですね……。例えば塩の溶解度は、溶媒である水の温度によってあまり増減しないことが知られています。
他の化学物質、ミョウバンなどでは基本的に、水の温度が上昇するに従って、より沢山の物質を溶かすことができます。
しかし食塩は沸騰寸前まで水を加熱しても、その溶解量は100g当たり40g以上になることはありません。これは本に載っているデータですが、私達でも同じような結果が出せます」
丁寧な彼の説明を一つ一つ咀嚼しながら、私はとある結論を出しかけていた。
しかしそれは、あまりにも拙い気付きのような気がして、直ぐに話すことがどうしても躊躇われていたのだ。
しかし「何か解ったことがありましたか?」と期待に満ちた目で見つめられ、私はおずおずと口を開くことになる。
「私は化学や物理が好きですが、私の知り合いの先輩は大嫌いなんです」
「……?」
「ポケモンにも、そうした環境に対する捉え方の違いがあるのかもしれません。
穏やかな環境が好きなポケモンは、ちょっと神経質なところがある子で、過酷な環境が好きなポケモンは、逆境に立たされてはじめてやる気を出せる子なのかも」
すると彼は、先程まで期待に満ちていた目をぴたりと制止させ、固まってしまった。瞬きすら忘れて硬直する彼に私は慌てる。
呆れられてしまったかもしれない。弁明するように、私は慌てて口を開いた。
「ご、ごめんなさい。つまらないことを言って。
ただ、アクロマさんの言う「ポケモンの実験に対する再現性の難しさ」は、ポケモンが生き物だから起きていることなんじゃないかって、思ったんです」
「……」
「えっと、塩はどのお店で買っても塩ですし、50℃の水と10℃の水も、温度計が壊れていない限り必ず同じものを用意できますよね。
でもポケモンは違います。実験に再現性を持たせようと思ったら、きっとその実験をする時の条件も同じように揃えなければいけない筈です。
……それが、ポケモンのような、生き物の場合はきっと不可能なんだと思います。その実験に再現性を持たせようとしたら、Aのポケモンのコピーを用意するしかなくなるから」
私は机に置かれたタッチペンを取り、Aのポケモンの隣に、同じAのポケモンを描いた。
彼の言う「再現性」は、きっと全ての条件を揃えることで初めて成立するのだ。だからAとBのポケモンが違う個体である以上、その再現性はきっと確保されることはない。
だからポケモンの研究は難しいのかもしれない。
同じ種族であっても、共通項があまりにも少ない。Aのポケモンに当て嵌まったことが、Bのポケモンにも当て嵌まるとは限らない。
それはきっと、ポケモンが生き物だからだ。そこには個性があるからだ。そのポケモンを一般化して結論を出すことはあまりにも強引であるように感じられた。
「……ではシアさん、貴方はポケモンに、我々のような個性があると考えているのですね?」
「違うんですか?」
「何故、そう考えたのですか?」
彼にいつもの常套句を紡がれた私は、思わず身を乗り出した。
「アクロマさんは前に、「同じ親から生まれ、同じ家で育ち、同じように成長した兄弟でも、全く同じ人間になることはあり得ない」って、教えてくれましたよね。
違うのは当たり前だって、そう言ってくれましたよね。
それはきっと、兄弟が同じ人間ではないからです。個性があるからです。それと同じじゃないかなって、思ったんです」
私は、つい先日、私の心を軽くしてくれたその言葉をそのまま彼に返した。私の気付きで、彼の研究が少しでも開けますようにと祈りながら、しかし迷うことなく言葉を紡いだ。
そんな彼とのやり取りに夢中になっていた私は、気付いていなかったのだ。
私のそんな発言が、今までの彼の研究を否定してしまうものであったこと。
条件から間違っていたのだとする私の発言は、それまで必死にその研究に取り組んできた彼の心を砕くのに十分な威力を持っていたのだということ。
ポケモンは生き物であるのだから、そうした一般化は不可能だとする私の意見は、ともすれば、研究を生業とする彼の自尊心を簡単に奪ってしまう恐れがあったのだということ。
「……では、シアさんはどう思いますか?」
「え……?」
「わたしは、それぞれのポケモンにとって適切な環境を用意し、ポケモンの求める化学刺激を与えることで、彼等の力を引き出せるという仮説をずっと立てていました。
もしそれが仮に間違っていたとして、シアさん、貴方はどう考えていますか?ポケモンの力は、何によって引き出されると考えますか?」
その時、紅茶の甘い香りを私は思い出した。
「アクロマさんがこの場所に居なかった一週間、私が紅茶の入れ方を勉強して、練習していたのは、貴方に美味しいって言ってもらいたかったからです。
私はアクロマさんのような、沢山の知識をもっていないから、こんな憶測でしかものを言えないけれど、きっと、そういうことだと思います」
私は自分の思いを伝えようとして、少しだけ焦っていた。緊張もしていた。声は上擦り、心拍数は上がっていた。
こんな私の考えを、真摯に受け止め、吟味してくれる彼という存在を、かけがえのないもののように感じていたのだ。
「強くなりたいっていう意志は、きっと、誰かの為に芽生えるものです」
そこまで紡いで、私はやっと気付いたのだ。
彼が愕然とした表情をしていることに。
2014.11.14
プレステッツァ 急速に