ホロキャスターの電源を入れた。60通を超えたメールを見ることなく、私はたった一人に連絡を取った。
9時にミアレシティ、ノースサイドのカフェリテイクで、という私の申し出に、3分と経たない内に返信がやって来た。
『メール、ありがとう。直ぐに向かうね。』
久し振りに聞いた彼女の声は上擦り、震えていた。私は彼女がやって来るまで、この町で少し時間を潰すことにした。
やっと見つけた「彼」がいつ目覚めるかも気になっていたけれど、彼女がやって来るまであと1時間足らずしかなかった上に、私の胸は異様な程に高鳴っていたからだ。
私は旅をしていた時には絶対にできなかったことを、今ここでやろうとしていたのだ。
カロスエンブレムを付けておらず、パレードの頃とは髪の色も身に着けているものもかなり変わってしまった私を「シェリー」だと認識する人はいなかった。
夕暮れ時のミアレシティはまだ人で賑わっていて、私はその人混みに溶けるようにして、沢山の店や通りや広場に次々と立ち寄った。
前を向いて、両手は緩やかに解いて、ローラーシューズで颯爽とミアレの町を駆けた。風が頬を撫で、オレンジ色の髪を揺らす、その感覚が心地良くて私は笑った。
ローラーシューズで駆けながら、ミアレの空気を大きく吸い込んだ。遠くからガレットの匂いがして、私はまた笑った。
もう私は「シェリー」ではない。その栄光と期待を受け続けた名前を、その輝かしい立場を手放しただけで、こんなにも楽に息ができるのだ。
「すみません、ガレットを一つください!」
「ありがとう!焼きたてだから火傷をしないようにね」
堂々と町を歩ける。誰かと視線が交わることを恐れずにしっかりと前を向ける。こんなにも大きな声でカロスの言葉を紡げる。
恐怖と緊張で握り締めた両手が汗ばむことも、誰かと話をすることに恐れを抱く必要もない。
「シェリー」を捨てただけで、こんなにも幸せになれるのだ。
焼きたてのガレットを頬張り「美味しい!」と笑う。「そうでしょう?」と、売り子の女性は誇らしげに頷いてくれた。そんな些細なやり取りすら愛おしかった。
ああ、もっと早くに私を捨ててしまえばよかった!そうすれば、あんなに苦しむことも恐れることも、悲しむこともなかったのに。
私は少しだけ昔の私を悔いていた。けれどその後悔は実に小さな、取るに足らないものだったのだ。だって今の私は、とてもこの一瞬を楽しんでいたからだ。
自らの命が普通の人の何分の一にも縮められているという事実は、私に刹那的に生きることを許してくれた。一瞬の幸せに笑うことを教えてくれた。
ああ、私は自分の命を犠牲にしなければ、こんな風に自分の欲しかったものの全てを得ることができないような、どうしようもなく弱い人間だったのだ。
しかしそれでもよかった。私は弱い人間だったけれど、だからこそ、自らの命を投じる覚悟と勇気を振りかざすことができたからだ。
私のこの選択を、彼女は喜んでくれるだろうか。
そんな筈がないことは解っていた。けれど彼女には知ってほしかった。私、を理解してほしかった。
だから私は「シェリー」として、彼女を呼んだのだと思う。
*
「私はイベルダルにこの命の半分をあげたの。長くてもあと30年くらいしか生きられないと思う」
自らの余命を告白する、私の心臓は高鳴っていた。そこには少しの緊張と不安、そして紛れもない歓喜が潜んでいたのだ。
私は、私を永遠にするための手段を手に入れたのだ。これはフレア団と対峙し、最終兵器の秘密と伝説のポケモンを手にしている人間しか行えない、唯一無二の手段だったのだ。
私は穏やかに笑っていた。シアは愕然とした表情で私を見ていた。
「……どうして、」
その絶望に濡れた視線が私の心をくすぐり、私はふわりと微笑んでみせた。
ああ、こんなにも簡単なことだったのだと思い至る。そして、おかしさに一人また笑ってしまう。
この、何もかもを欲張った、努力家で勤勉で誠実は私の親友のことが、私はずっと羨ましかった。
私は彼女のことが大好きだったけれど、それと同じくらい、彼女の持つその力がどうしようもなく羨ましかったのだ。
私の手に入れられない何もかもに手を伸ばすその姿に、焦げ付くような痛みと羨望、そして嫉妬を抱くことは容易いことだったように思う。
一度でいい、一度だけでいいから、この少女を凌いでみたかった。
何もかも敵うことのない私が、たった一つでいいから彼女を凌駕してみたかったのだ。
そして私はよりにもよって、彼女の最大のアイデンティティである「欲張り」を上回ることが許されたのだ。
彼女は自らの欲張りを叶えるためなら、自分の苦しみや恐怖に嘘を吐くことだって厭わなかった。
私も、それと同じことをしてみようと思った。寧ろ彼女が捨て置いたものよりずっと大きなものを犠牲として、もっと大きなことを成し遂げてみたくなった。
イベルダルとあの花の秘密を手にした私にはそれが可能だったのだ。
そんな倒錯的な手法に縋ってしまう程に、私はきっと、疲れ切っていたのだ。
こうするしかなかったのだ。だって私の運命は、花が咲いてしまったあの日で袋小路になっていたのだから。
「貴方が羨んだ私は、そんな風に自分の命を蔑ろにしたりしない」
シアのその揺れる目は、確かに私をじっと見つめていた。その目に懇願の色を見るのは容易いことだった。
けれど私は穏やかな笑顔でその懇願を拒み、残酷な言葉を紡ぐことを選んだ。
「……それじゃあ、これは私だけの欲張りなのね。貴方をも凌駕することが許された、私の最初で最後の欲張りなのね」
私は自らの欲張りを叶えるためなら、自分の命を捨て置くことだって厭わないのだ。
紡いだ言葉にそんな思いを込めて、私は誇らしげに笑ってみせた。歓喜という名の甘い海が私の足を掬い、深い場所へと沈めていくのを感じていた。
いずれは、息ができなくなってしまうのだろう。けれどよかった。それでもよかった。寧ろそれを望んでいたのだ。
私はここまでしなければ、この強く優しい親友を凌駕することが許されない。私は自分の命を捨てなければ、こんなにも誇らしく穏やかに笑うことができない。
その事実にやるせなくなったけれど、それはもう過去の話だ。今の私はもう、その力を手にしている。私はもう誰にも屈しない。私はもう、誰の声にも耳を貸さない。
「命の焦げる音がしたのよ、シア」
わっと泣き出したシアに私は微笑む。
どうか泣かないでほしい。だって私は死にたかったのだから。私はこれ以上、この土地で器用に生きていくことができない人間だったのだから。
その茶色の美しい髪に手を伸べて、そっと頭を撫でてあげたかった。けれど私はその手を強く握り締めることで耐えた。
「シア、泣かないで。私は自ら望んで死ぬのよ。人間がしたことへの責任を、この命をもって償うの」
その言葉に彼女は、その嗚咽を強引に止めるようにして大きく息を吸い込んだ。その音すら震えていて、ああ、私が彼女にこんな顔をさせたのだと気付き、胸に大きな穴が開く。
私はカロスの全てに溶けることができなかったけれど、その全てに私の死をもって報復しようなどと思ってはいたけれど、彼女のことは大切だった。
あまりにも多くのものを持ちすぎている彼女に、羨望と嫉妬の念を抱いていたことは確かだけれど、けれどそれ以上にシアのことが大好きだった。
「ふざけないで、シェリー」
だから、彼女が私に向けた明確な怒りの声音に、私は息が止まるのではないかと思う程に驚いたのだ。
シアは私の何が許せないのだろう。私の何に対して憤っているのだろう。
解っているつもりだった。私だって、突然シアに呼び出され「私はあと30年の命なのよ」と言われれば当惑し、狼狽えるのは当然のことだ。
憤るだろうことも容易に想像がついていた。普通の人間ならその、唐突な宣告に怒りを見せるだろうと解っていた。
けれど私は不安になった。それは彼女がとても聡明な人間だったからだ。
彼女はそうした単純な道理で怒りを露わにするような人間ではないと、私は誰よりもよく知っていたからだ。
私の親友は欲張りで聡明で勤勉で、それでいてとても誠実で優しい人間だったのだ。
「貴方はそんな理由で命を、半生の時間を他者に捧げられるような人じゃない」
つまるところ、私のような人間では、彼女のような賢い人の心を読むことなどできなかったのだろうと思う。
彼女は泣き腫らした海の目で私を見据えた。少しだけ赤く腫れたその目は、まるで夕焼けを映した波のように私を飲み込もうとしていた。
「私の知っているシェリーは、絶対にそんな理由で命を投げ捨てたりしない」
くらくらと眩暈がした。それは今の私が絶対に手にしてはいけない感情だった。
カロスに関わる全てに、私が叶えた「永遠」を突き付けようと目論んでいた私が唯一、本当の私を知ってほしいと望んだ人物が彼女だった。
私が彼女に向けていた感情の多くは醜く鬱屈していた。私は彼女に対してひどい劣等感を抱き続けてきた。この目に羨望と嫉妬を映し続けていた。
それでいて、私は彼女のことを信頼していた。誰よりも、何よりも信じていたのだ。私は自らの捻じ曲がった感情と同じ、……いや、きっとそれ以上に彼女のことが大好きだった。
私のその信頼は正しかった。彼女は私の隠していることを全て見抜いていたのだ。
その、当たり前である筈のその事実を噛み締めるように、私は両手を握り締めた。短く切ったばかりの爪は手の平に傷を付けてはくれなかった。
この少女の聡さと強さと優しさに、私が敵う筈がなかったのだ。
2015.4.5