11(C)

金木犀の木は、そこにあるだけでとても素敵な芳香を漂わせていた。
一つ一つの花はとても小さくて控え目なのに、集まって一本の木を構成したそれは素晴らしい存在感を放ち、人の心に留まり続けている。
シェリーはきっと、この木のようになりたかったのだろう。何にも揺らがず、ただそこにあるだけで愛される、控え目で素敵な存在になりたかったのだろう。

途中でコボクタウンの近くにあるきのみ農場に向かい、挿し木のコツを教わってから改めてセキタイタウンに飛んだ。
セキタイタウンに植えられていたその木から、教わった通り、挿し木に適した枝を選んで切り取った。
ふわりと漂って来た芳香を抱くように、その枝を新聞紙で包んだ。クロバットの背中に飛び乗り、イッシュへと戻る空を駆けた。
涙は全部、カロスに落としていこうと誓っていた。私はもう泣かない。泣くことは許されない。この素敵な枝が誰からのプレゼントなのかを、誰にも話すことができない。
彼女の意志を尊重するために、私は沢山の隠し事をしていた。私の大切な人達にも、彼女のことは一切話さなかった。

シェリーがフラダリさんにこの秘密を隠し通したように、私も世界に「シェリー」との時間を隠し続けると約束したのだ。

イッシュに戻った私は、彼女に託された300通の手紙を順番に開けていった。
この行為が彼女の冒涜になるかもしれないということは解っていた。けれど私は止められなかった。
手紙を全て読ませてほしいという私の申し出に、彼女が「いいよ」と笑って答えた、その言葉に私はどこまでも甘えておきたかった。
彼女を構成したものを、私はできるだけ理解しておきたかったのだ。

空を飛ぶ船の執務室で大量の手紙のコピーを取り続ける、そんな私の姿はどのように映ったのだろう。
構わなかった。遠慮だとかそうした類のものを抱え込んだままでは、私は大切なものを取り零してしまうと解っていたからだ。
私は数時間をかけて全ての手紙のコピーを取った。
あまりにも多すぎるその手紙を、一度に全て読むことはできそうになかった。長い時間を掛けて、彼女の想いを少しずつ読み解いていけばいいと思っていたのだ。

『皆に愛されたいと願うあまり命を投げ出すような愚かな過ちを、もう誰も繰り返すことの無いように、貴方が語り継いでくれるのね、シア。』

私の伸ばした手は、確かにチャンスを掴んだのだ。「彼女を語り継ぐ」というチャンスを、私は欲張ることで手に入れた。
だから絶対に逃しはしない。私はこの300通の手紙から、彼女の全てを拾い上げてみせる。

傲慢な言い方をするならば、きっと誰かを救いたいと、手に入れたいと思うなら、躊躇ってはいけなかったのだと思う。
遠慮だとか尊重だとか、そうしたものなど放り出して、ただ自らのエゴのために手を伸ばせばよかったのだ。そうすれば、私は彼女を救えたのかもしれない。
あの日、彼女の意見など何も聞かずに、嫌がる彼女を医療機関に放り込むことができたなら。
私に、彼女の嫌がる声音と私を憎む表情を看過できるだけの精神と覚悟があったなら。
けれど私はそうできなかった。私は最期まで彼女の親友でいることを選んだのだ。
彼女が「死にたくない」「助けて」と弱音を零さない以上、その鉛色の目に死を思う恍惚と覚悟が映っていた以上、彼女の意志を無視した行動を取ることはできなかった。

そしてあれから5年が経ち、全てが手遅れとなってしまった今でも、私はあの日の自分の選択が本当に正しかったのか解らずにいる。
無理にでも彼女の自由を奪って、彼女を救うために奔走すればよかったのだろうか。けれどそんなことをすれば彼女は私を恨むだろう。憎むだろう。
最悪、こんな風にして生きながらえる意味など何もないのだとして、自ら命を絶ってしまうかもしれなかった。
そんな可能性が私には見えていた。だから、何もできなかった。私の運命はあの日で袋小路になっていたのだ。逃げ場など、救いなどどこにもなかった。
私はあの日、自分に最善の選択をしたのだと、そう言い聞かせながらも悔い続けていた。

彼女は最期まで笑っていた。それで十分だと思うようにしていた。けれど欲張りな私は今でも「もっと」を探し求めているのだ。
もっと、彼女が笑顔で生きられる選択があったのかもしれない。私はもっと、彼女に何かをしてあげられたのかもしれない。
不毛なシミュレーションを重ね続けていた。結局はそれらの考えは渦を巻き、同じところに戻って来るのだけれど。
つまるところ彼女は死にたかったのだからという、その大きく鋭い真実により両断されるだけだったのだけれど。

だから私は最後に「手紙を読ませて」と欲張った。自分のエゴのままに手を伸ばした。そして私のエゴは叶ったのだ。
だから私は「彼女」を語り継がなければならない。この欲張りな私のエゴを、エゴのままで終わらせたりしない。

その日から2週間と数日が経った頃、私は再びカロス地方へと赴いていた。誰にも連絡を入れることなく、単身、クロバットの背中に乗って夜の空を駆けたのだ。
シェリーはもういないという確信を真実にしたのは、あの病院の空になったベッドだった。
解っていた。だから私は泣かなかった。私はそのまま、彼女とフラダリさんが暮らしていたというカフェへと向かった。

今日、私はシェリーの手紙を届けるつもりだった。

フラダリさんが寝静まった頃に、私はそっと、カフェの扉に手紙を貼り付ける予定だった。
そうして姿を見せずにイッシュへ戻り、彼は扉に貼り付けられた手紙に驚く筈だった。
けれどその予定は少しだけ狂った。夜の1時を回った頃に訪れた私は、ミアレシティの小さな広場で彼の姿を捉えてしまった。

『フラダリさんから、メガシンカを使えるようになった時にお祝いのメールが来たの。』
私はその「フラダリさん」の姿を、シェリーのホログラムメールでしか見たことがなかった。オレンジ色の髪と首元の高級そうなファーが印象的な男性だった。
紳士的な喋り方で、シェリーに「おめでとう」と告げていた。
あれから、シェリーは髪を染め、姿をすっかり変えてしまっていた。そして、姿を変えたのは彼女の方だけではなかった。
フラダリさんもまた、世間から姿を隠すために姿や身に纏うものを変えていたのだ。
だから彼の姿がそこにあったとして、それを私は「彼」だと判別できない筈だった。事実、彼の姿は驚く程に変わっていた。にもかかわらず、私は「彼」だと確信していた。
何故なら彼の手元には、私が今日、届ける予定だった封筒と同じものが握られていたからだ。

そして私はようやく察する。彼女はフラダリさんに、これまでも手紙を書き続けていたのだと。
私に託した300通の手紙は、その手紙の続きに過ぎないのだと。

カロスの言葉を苦手とするシェリーが、カロスの言葉で何万、いや何十万にも及ぶ文字を綴り続けてきたというその事実を私は改めて噛み締める。
彼女が書き続けてきたこの手紙の重さを、私は理解しなければいけなかったのだ。それは彼女の「命を懸けたメッセージ」だった。
私は何があっても、この手紙を最後まで彼に届けると誓ったのだ。

『もしシアさえよければ、いつかフラダリさんにも会ってみてくれないかな。私の話をしてもいいし、しなくてもいいよ。』
彼女の、私に宛てられた唯一の手紙の一節が脳裏を掠めた。私は彼の元へと歩み寄り、その背後に立って月明かりを遮った。

「意地悪してごめんなさい。月明かりが必要ですか?」

その言葉に彼は振り返り、私の姿を見て沈黙した。月明かりが彼の顔を僅かに照らしていた。
きっと彼からは月の逆光で、私の顔は見えないのだろうと解っていた。解っていて私は、彼の背後に立ったのだ。
彼は長い沈黙の後で、小さく頭を下げる素振りをした。

「……すみません、じっと見てしまって。貴方が知り合いに似ていたものですから」

その言葉に私は息を飲んだ。あのホログラムメールと同じ声音が鼓膜をそっと揺らしていた。
私はシェリーと最後に会ったあの日以来、喪服のように彼女と同じ服を着ていたのだ。
同じハイウェストアンサンブルを着て、同じ帽子を被り、同じ鞄を提げていた。ただし、その色は彼女と揃うことがないようにしていた。
私は彼女を看取ることも、彼女を見送ることも許されなかった。だからせめてこんな形で、彼女を弔っていたかったのだ。
また、「シェリー」という存在が、その最期まで笑顔で生きていたという事実を、私は忘れたくなかったのだろう。
彼女の最期を知るたった二人のうちの一人として、ずっと脳裏に焼き付けておかなければならなかった。
「彼女を忘れないように」……私はきっとこの格好に、そんな意味すらも込めていたのだ。
それらを見抜いたかのようなフラダリさんの発言に私は驚き、しかしそれを隠すように静かに笑って取り繕った。

私の胸は、高鳴っていた。
彼女がその命を懸けて伝えようとしたメッセージの、その中核を為していたであろう人物が今、私の目の前にいるのだ。この人をシェリーは愛したのだ。
この人と話したいことが、沢山あった。シェリーのこと、フラダリさんのこと、二人が過ごした時間のこと、他にも、沢山。

「私、これからは毎月、この町に来ることになっているんです」

フラダリさん、シェリーはどんな風にこの5年間を過ごしていましたか?
二人が立ち上げた、ポケモントレーナーを支える活動は今も続いていますか?
彼女は貴方にどんな表情を見せましたか?笑っていましたか?たまに怒りましたか?貴方の前でよく泣きましたか?
フラダリさん、貴方はシェリーのことが好きでしたか?
聞きたいことは湯水のように溢れ出てきた。けれど限界だった。次に口を開けば言葉の代わりに涙が零れてしまいそうだったのだ。
大丈夫、まだ私の声は震えていない。大丈夫。そう言い聞かせながら私は、クロバットの入ったモンスターボールに手を掛ける。

「だから、また会えるかもしれませんね、フラダリさん」

彼の名前を呼ぶ、その一言だけは震えてしまったけれど。

フラダリさんが顔を上げる前に、私はクロバットに掴まり、飛び立った。ばさりとクロバットの羽ばたく音が夜を切り裂いた。
今夜は何処かの屋根の上で、彼がカフェの中へと戻るのを待つことにしよう。その頃にはきっと、私も泣き止んでいるだろうから。

そうして数時間が経過し、東の空が明るみ始めた頃、1通目の手紙が扉に貼り付けられる。


2015.4.3

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