10秒先のわたし

" あなたの話 "


※1話完結
(どんな「ぼく」と「わたし」でも許せる人向け)

少年には、いつも彼の少し前を歩く「ぼく」の姿が見えていた。
それが少年の未来の姿であると気付くのに、そう、時間は掛からなかった。
彼には真に最善手が見えていた。その教え手は、彼の10秒先に生きる、彼にしか見えない「ぼく」であり、彼はその「10秒先のぼく」に感謝していた。

「君は誰なんだ?どうしてぼくと同じ格好をしているんだ?どうして他の皆には君が見えないんだ?」

「……」

「なあ、こっちを向いてくれよ、君と話がしたいんだ。何故か君のした通りにすると、いつだって上手くいったんだ。ぼく、君にお礼が言いたいんだよ」

けれど「ぼく」は答えなかった。彼はこちらを振り向くことをしなかった。少年が駆け出せば「ぼく」も駆け出し、少年が止まれば「ぼく」も止まった。
10秒以上先に離れることは決してないけれど、10秒未満に近付くこともまた、決して起こり得ないことだったのだ。

「ぼく」は少年と全く同じポケモンを捕まえ、少年よりも10秒先にそのポケモンの進化を見届けていた。
「ぼく」が笑えば、その10秒後には少年が笑い、「ぼく」が悔し涙を流せば次は少年の番だった。転んで付いた傷も、帽子に隠しきれない寝癖も、全て、全て「ぼく」と同じだった。
1つ目のジムバッジを手に入れ、深い洞窟を抜けた辺りから、少年は次第に苛立ち始めていた。だって「ぼく」はとても上手にポケモンバトルをするのだ。
どう足掻いても、少年には「ぼく」以上の最善手を導き出すことができなかった。少年と全く同じ動きを10秒先に為す彼は、少年よりもずっと聡明で、器用で、勇敢だった。
悔しかった。少年は少しばかり「ぼく」を妬み始めていた。

だから少年は、25番道路でそのポケモンを受け取らなかった。少年はその家に入らなかったのだ。

10分後、ドアを開けて現れた「ぼく」は、少年の知らない、ふわふわした毛並みを持つ茶色いポケモンを抱きかかえていた。
その時初めて、少年は「ぼく」の顔を見た。

ずっと「ぼく」だと思い込んでいた、少年と全く同じ格好をしたその子供は、しかし「ぼく」ではなく「わたし」だった。
10秒先を歩く、少年にしか見えないその存在は、ズボンを履いてキャップを被り、少年と全く同じ動きを為してきたその子は、女の子だったのだ。

「……ぼくはそのポケモンを受け取らないよ。君と違うことをしてみたくなったんだ」

けれど少年の口からは、この存在が女の子であったことへの驚きでも、初めて顔を見ることができたことへの喜びでもなく、そうした、子供らしさを極めた強がりだけが飛び出した。
彼女は茶色いポケモンを抱きかかえ、クスクスと笑ってから、やはり少年の10秒先を歩き始めた。もう、追いつけなかった。

その後も10秒先の少女は少年にしか見えず、彼女の顔を見ることはずっと叶わなかった。
一度、強がりを為してしまえば、何故か少年の心は驚く程に晴れ渡ってしまったのだ。もういいんじゃないかな、と思えたのだ。
この、何故か少年と同じ姿をした「わたし」は、とても聡明で、器用で、勇敢だ。ポケモンバトルだってとても強いし、ちょっとやそっとじゃ心を折らない。
勿論「わたし」に負けるつもりなど毛頭なかったけれど、それでもそうした「わたし」の才を、少年は真っ直ぐに尊敬できるようになっていたのだ。

3つ目のジムも、4つ目のジムも、10秒先の「わたし」に従えば上手くいった。ロケット団とのバトルだって、「わたし」の勇気に励まされる形で乗り切った。
海を渡り、山を越えた。氷の張った寒い洞窟も、怖いおじさんが徘徊するサイクリングロードも、10秒先に「わたし」が見えていたから臆することなく歩みを進められた。
「わたし」の聡明さ、器用さ、勇敢さは、そうしていつしか少年自身のものになっていったのだ。

そうして少年は、チャンピオンになった。

殿堂入りの空間にも「わたし」はいて、6つのモンスターボールをキラキラと輝く台に乗せた。
彼女のイーブイは進化して、少年の知らない、桜色の姿をしたポケモンになっていた。
彼の図鑑は「わたし」のポケモンを認識しなかったから、どんなポケモンであるのか、確かめようがなかった。
少年は「わたし」が受け取り自らが受け取らなかった6匹目の手持ちに、シルフカンパニーで譲ってもらったラプラスを入れていた。
1匹だけ、そのように違ってこそいたけれど、どのポケモンも、「わたし」の、そして少年の愛するパートナーであり、彼等は真の強さと勇気を手にしていた。

「結局、最後まで君には敵わなかったなあ。君はいつだってぼくよりも10秒先だ。ぼくはいつになったら君に勝てるんだろう」

「……どうしたレッド、何か言ったか?」

マサラタウンの博士が訝し気にそう尋ねた。少年は笑いながら「なんでもないよ」と誤魔化した。
そうして「わたし」の隣に立ち、キラキラと輝く台に6つのモンスターボールを乗せた。

殿堂入りの儀式を終えて、家に戻った。
勿論「わたし」も家にいて、少年のすぐ隣で温かいスープを食べていた。彼女が口を開けば10秒後に少年が口を開いた。旅の話を延々と続ける少年を、母親は一度も遮らなかった。
「わたし」のスープは少年の母親には見えていない。相変わらず、この10秒先の「わたし」を見ることができる人間は、少年を置いて他に誰もいない。
それでもよかった。自分がいつまでも一緒に居ようと思った。
この、自分にしか見えない不思議な存在を、聡明で、器用で、勇敢で、少年に沢山のことを教えてくれた「わたし」の、たった一人の友達でいようと思ったのだ。

翌朝、少年が再び家を出ると、「わたし」はショップで大量の食糧や防寒具を買い込んだ。少年も「わたし」が何をしようとしてるのか解らないままに、同じことをした。
「わたし」はそのまま、ポケモンリーグの更に西へと歩みを進めた。

「何処に行くんだい?」

「わたし」が答えてくれる筈がないと解っていたが、どうしても少年はそう尋ねてしまった。
けれど「わたし」は、驚くべきことに振り返り、ふわふわと綿菓子のように微笑んで少年を手招きした。
少年は驚いて歩みを進めた。10秒先を歩いている筈の彼女は、しかし動かなかった。
少年は「わたし」の隣に並んだ。少年が一歩を踏み出せば、「わたし」も同じように歩みを進めた。心臓が弾け飛んでしまいそうな程に大きく震えていた。

初めて、少年は「わたし」と同じ一瞬を生きることが叶ったのだ。

「わたし」は、ポケモンリーグの西にそびえ立つ、あまりにも高く険しい山に登り始めた。
6合目を超えた辺りで雪が降り始め、ああ先程の防寒具は此処で使うためのものだったのかと合点がいった。
強いポケモンを、「わたし」は相変わらずの機転と度胸で追い払っていった。少年も「わたし」のすぐ隣で同じことをした。ただそれだけのことが楽しくて彼は笑った。
そうして山の頂上へとやって来た。音を忘れたように静まり返ったその場所で、「わたし」は少年へと向き直り、初めて、口を開いた。

「貴方と一緒に旅ができて、本当によかった」

「……ぼくだって、君と一緒でよかったって思うよ」

「もう、わたしがいなくても大丈夫だよね」

不穏なことを告げた彼女は、ポケットからボールを取り出して、一つずつ少年の手に握らせた。
ピカチュウ、フシギバナ、リザードン、カメックス、カビゴン。全て少年と全く同じポケモンで、全く同じ強さを持った彼等を、「わたし」は手放し、笑った。
少年のラプラスを持っていなかった「わたし」は、残り1つのモンスターボールだけは手放さなかった。

「この子だけ、連れて行かせてね。わたし、ずっと君を見ているよ」

「待ってよ、何処に行くんだ?ぼくだって一緒に行くよ、今までだってずっとそうだったじゃないか」

「そうだね、それじゃあわたしは、君のもっとずっと先を歩いてくるよ。いつかわたしに追いついてね、約束よ」

彼女はそう言って小指を伸ばした。その約束を交わせば、いよいよ「わたし」はいなくなってしまうように思われた。
けれどその細い指に自身の小指を絡めても絡めなくとも、「わたし」は今を離れていくのではないかと、そう思ってしまったから少年は夢中で指を伸べた。
「わたし」の指は氷のように冷たかった。

「!」

少年の小指に、黒い金属質の指輪が嵌められていた。

辺りを吹き荒ぶ轟音が「吹雪」であるのだと確信するまでにかなりの時間を要した。
音のない空間だと思われていたこの場所は、こんなにも忙しない轟音で溢れていたのだ。
少年はその場を動けなかった。10秒先を歩く「わたし」は本当にいなくなっていたからだ。
長く、本当に長く「わたし」を追いかけ過ぎていた少年は、一人で歩く方法を忘れかけていた。

「わたし」を待とう、と思った。
少年の「もっとずっと先」を歩く「わたし」を、しかし少年はこの雪山で見つけようと躍起になっていた。
何故なら少年が此処に留まり続けたからである。少年が此処に留まるのであれば、これからもずっとそうなのであれば、
少年の「もっとずっと先」を歩く「わたし」だって此処にいて然るべきだと、そう思ったのだ。

長く、本当に長くこの場所に留まっていたため、少年はいつしか、上手く声を出すことができなくなっていた。
強いポケモンは沢山いた。「わたし」から貰った聡明さも、器用さも、勇敢さも、全て少年の中にあったから、彼等と戦うのは造作もないことだった。
けれど「わたし」は声の出し方を教えてはくれなかった。「わたし」は人と出会っても、本当に簡素な意思表示しかしなかったのだ。
ポケモンに技を指示したり、彼等を労ったりする時だけ、饒舌だった。そんなところまで、少年は「わたし」に倣っていた。
だから、上手く声を出せなくなったとして、それは当然のことであったのかもしれなかった。

そうして、長い月日が経った。
「わたし」はまだ現れない。

2016.11.18

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