フラクタルの封印は明後日に解くべし

果物屋の前を通り過ぎた頃に、隣の気配がふっと消えた。
今度は何処で道草を食うつもりなのだろう、などと思いながら振り返れば、彼は大きな果実を片手で抱き上げているところだった。
私が踵を返してそちらへと戻ると、彼は「来てくれたんだね」とにっこり微笑んでしまう。私は毎度のことながらそれに驚き、苦笑する。

彼を置いていくという選択肢など、私の中には端からない。彼が足を止めれば私も止めるし、引き返すのなら私も戻る。当然のことだ。
当然のこと、けれども彼と出会う前はそのような相手を持つことなど在り得ないと思っていたはずのこと。今の私がすっかり慣れてしまったこと。
けれどもそれを、Nはいつまで経っても喜ぶ。私もそうして喜んでくれる彼を許している。だからこそ彼が足を止めても引き返しても、置いていくことができないのだ。

「とても美しいとは思わないかい」

さて、そんな相手がメロンを抱きかかえてそう告げる。私は彼の嬉々とした表情とメロンを交互に見て、肩を竦める。
私に分かるのは、メロンの色よりもNの髪の色の方がずっと鮮やかで綺麗だということくらいだ。けれどもその鮮やかな若草色を持つ彼には、メロンの方が「美しく」見えるらしい。

「……よく分からないわ」

「フラクタル次元だよ」

「……益々、分からないわ」

「ボクの持っているメロンとあっちのメロンとではネットの粗密が異なるだろう? けれどどちらもフラクタル次元的に見れば、似たような格子状を取っているんだ。
キミは以前にメロンのネットを「子供でも描けそうな網目」と言っていたけれど、この美しいネットを描くことは並みの数学者では難しいと思うよ。
無秩序は模倣できる。でもランダムの再現は困難だ。そこに敷かれた数式を導き出して初めて、ボク等はメロンを理解できる」

フラクタルジゲン、という単語が出た瞬間、彼はにわかに早口になった。大方、数学スイッチが入ってしまったというところだろう。
後半はところどころ聞き取れなかった。それでも構わなかった。彼は私に理解を求めたけれど、私が彼の要求に応えられたことの方が少なかった。
それが私達の「いつも」になっているから、私は「へえ、そうなの」と適当に相槌を打って、彼の興奮が鎮まるのを待てばいいだけであったのだ。
彼が笑っている、彼が楽しそうだ。それが全てであったから、彼の数式を解することは、私にとってさほど重要ではなかったのだ。

「それで、フラクタルジゲンではあっちのメロンもこっちのメロンも大差ないのに、どうしてあんたはそのメロンを手に取ったの?」

「このメロンの食べ頃が明後日だからだよ。ほら、コトネとシルバーが来る日だろう?」

私は「じゃあ買うしかないわね」と笑い、彼の右手からメロンを奪い取る。そして、その重さに少しだけ驚く。
軽いものをひょいと持ち上げるような心地で、彼はこれを腕に抱いていた。けれども私の腕にこのメロンは随分と重く感じる。両手で持たなければ落としてしまいそうだ。
ああ、こいつも男の人なのだと、思って、なんだか面映ゆくなる。

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