「お前が男だったなら、あいつはお前のことを好きになったのかもしれないな」
病的なまでにむせ返ってしまった。一度は口に含んでいたはずの水がぽたぽたと零れてコースターを濡らした。
近くを通ったウエイターが「大丈夫ですか?」と尋ねてくる程の咳き込みようであった。
大丈夫よと、気にしないでと、そう告げる私を見てシルバーは楽しそうに笑った。
元はと言えば彼が撒いた火種であるはずなのに、発火した私だけが悪目立ちをするなんて、やはり世間というものは不公平なままだ。そういうものなのだ。
「……あんたの言いたいことがよく分からないわ。それとも何? 私は「あんたが女だったらNはあんたのことを好きになったでしょうね」とでも返せばいいの?」
「どうだろうな。……いや、在り得ないか。Nがお前以外を片割れとしているところなんか想像も付かない」
「私だって同じよ。コトネがあんた以外の枝を抱き込むところなんか想像も付かない。こんなの、あの二人を待つ時間にする話題にしては趣味が悪すぎるわ」
「なんだ、お前は存外、誠実なんだな。俺は今、コトネとNが遅れてくるのを待っているこの時間だからこそ、この話題しかないと思ったんだが」
まさか、この青年は不安なのだろうか。私はふいにそう思った。
この、出会った頃にはまだ12歳で、コトネよりも小さかった男の子は、数年の時を経て私の背をゆうに追い越し、長身の青年へと変貌していた。
勿論、それでもあのひょろ長いNの背には届いていないけれど、この少年は確かに成長していた。堅実に、丁寧に、けれども目覚ましいスピードで育った。
彼はそこら辺にいる頼りない大人よりも、ずっとずっと、精神的に逞しく頼り甲斐のある人間になることが叶っていた。
そんな彼の口から、弱音なのか冗談なのかは分からないが、その「悪趣味な例え話」が出てきたことは、私をそれなりに驚かせていた。
さて、この青年は一体、私に何を言おうとしているのだろう?
もう片枝には告げられない何かを懺悔するつもりなのだろうか。私は彼に今から許しを請われようとしているのだろうか。
私は身構えた。彼を拒むためではなく、受け入れるために身構えた。不安でも葛藤でも恐怖でも、彼のかたちをしているのであれば何でも、受け止めようと思ったのだ。
そんな「面倒なこと」は普段なら御免被るところだけれど、彼が相手であるなら話は別だ。
この男、私の親友と揃いのリングを嵌めたこの青年のことは、それなりに大事にしたかった。
けれどもそうした私の覚悟をあざけるように、からかうように、まるで「いつか」の仕返しをするかのように、シルバーはとても、とても楽しそうに笑ったのだ。
「残念だったな、トウコ。お前が男だったなら、あいつを俺に盗られることもなかったのに。このリングを嵌めていたのは、お前だったかもしれないのに」
「は?」
「……ざまあみろ」
茶目っ気を含んだその音に、私はがっくりと肩を落とした。「やってくれたわね」と悪態を吐けば、彼はいよいよ幸福そうに目を細めたのだ。
あの悪趣味な例え話だって、このための布石であったのだ。私は見事にしてやられたのだった。
つまるところこれは彼の惚気だ。それでいてささやかな仕返しでもある。そしてそんな惚気や仕返しの相手に私を選んだところに、私はもっと別のものを見る。
私は呆れた。この上なく呆れた。彼にではなく、私に呆れた。
彼を疑うことをしなかった私に、疑うことさえ忘れていた私に、すなわち彼に相応の信頼を置いてしまっていた私に、呆れてしまった。
ああ、私はこいつも大事なのかと、私にはまたそういう相手が増えてしまったのかと、認めざるを得なくなってしまったからだ。
そういう意味で、彼のそれは正しく「仕返し」だったのだろう。現に私は打ちひしがれていた。このやさしい時間に打ちひしがれていた。彼はやはり、大物だ。
……でも、そこまで含めて彼の演技である可能性も捨てきることができなかったので、私は彼の、万に一つの可能性として残っている不安を、踏み消しておくことにした。
「仮に私が男だったとしても、コトネを女性として愛したとしても、それでもコトネはあんたを好きになるわ。あの子の枝を抱くのはいつだってあんたよ、シルバー」
「!」
「いいわね、羨ましい。私、こんなにもあんたのことを妬ましく思ったのは初めてよ」
「……ああ、そうだ。そうだとも。……いいだろう?」
にっと笑う彼の背後に、待ち人を象徴する赤いリボンの帽子が見える。
さて、彼の惚気を彼女に告発しておかなければなるまい。