水晶は胎内でアルファベットの夢を見る

3度目の電話も繋がらなかった。ならばあの場所に決まっている。男はとうとう確信し、コガネシティを出て走った。
彼女がこちらのコール音に反応しないとき、彼女は決まってあの場所にいるのだった。

前置きしておくと、あの女性が男からのコール音に応えない、というような事態は滅多に起こらない。
図書館で本を選ぶことに没頭している時でさえ、マナーモードに設定した電話が小さく震えればすぐに何かしらの返事を寄越すのだ。
けれども「其処」にいるとき、彼女は大好きな本のことも、大切なパートナーであるメガニウムやスイクンのことも、そして男のことさえも忘れてしまう。
忘れて、そして彼女自身だけが悠々と漂える場所、誰にも立ち入ることの許されない神の領域にて穏やかに息を続けている。

つまり彼女にとって「其処」は図書館以上に大事な場所なのだ。図書館よりも大事な男の存在、それよりも、もしかしたら大事な場所であるかもしれないのだ。
けれども男はその場所について、彼女に詳しく尋ねたことはただの一度もなかった。
尋ねたところで彼女は答えてくれないだろうと思っていたし、彼女が「知らせる必要がない」と判断したのであれば、自分は知らずにいるべきなのだろうと心得ていたからだ。
彼女がどうであろうと、どんな秘密を抱えていたとしても、それを共有することが叶わなかったとしても、そのようなことはもうどうだってよかったからだ。

エンジュシティとキキョウシティの間にある三差路を東へ抜けて、マダツボミの塔が見える趣深い道を南へ曲がる。
ゲートを抜けた先には、重々しい雰囲気の遺跡が男を待っている。彼女を飲み込んだその遺跡が、男をあざけ笑うようにただ、そこに在る。
男はその無音の嘲笑に対して得意気な笑みを返し、歩を進め、一番大きな遺跡へと入る。コツコツと薄暗い空間に響く靴音は、果たして彼女のところまで届いているのだろうか。

奥へ、奥へと進む。角を曲がり、更に進んでまた曲がる。
そうして突き当たった壁の端に立つ柱。ほかのそれと寸分変わらないそれに隠された、ひび割れた壁。
大人一人が横を向いてやっと通ることができるその隙間を抜けた先に、美しく輝く水晶がある。空の色、男が焦がれたその色がどこまでも広がっている。
その水晶が、この隙間の向こうにある小部屋を、彼女のための聖域を、守っている。

「……」

無数のアンノーンが、彼女の周りを泳いでいた。

彼等は彼女のすぐ傍で、無秩序かつ気紛れに漂っている。かと思えばにわかに活発に動き出して、何らかの規則性の下にずらりと並ぶこともある。
アンノーンが列を為す度に、少女の足元から水晶が勢いよく生えてくる。
パリンという、硝子が割れるような音と共にそれは背を伸ばし、少女程の背丈になったところで、糸が切れたようにぐにゃりと溶けて別の形を取る。
液体のような可変性を見せる水晶は、あらゆるものをその煌めきと共に現した。ある時は男の知る女の子の姿を、またある時は見たこともないポケモンの姿を。
アンノーンが様々な列を為す度に、それらは生まれた。その不思議な水晶は、人間にも、ポケモンにも、食べ物や木々や建物の形にもなることができていた。

空色の宝石が描く世界はあまりにも美しい。
この光景に出くわすと、男はその神秘的な美しさにすっかり飲まれてしまって、何分も、何十分も、その場から動けなくなる。
その間にも、アンノーンの為す列に呼応して様々なものが次々と生まれ、そして溶けるように消えていく。
少女はその世界の中央で、まるでその世界の神であるかのように、水晶が生み出す何もかもを眺めている。眺めながら、時に笑い、時に困り、時に泣く。

「あ!」

けれども空色が成す完璧な宝石の調和は突如として崩れる。水晶が他でもない、彼女を探しに来た男の形を作ったのだ。
彼女が声を出した瞬間、水晶の男は笑うようにぐにゃりと溶けてしまった。
列を為していたアンノーンも一斉に散り散りになってしまい、元の無秩序な泳ぎを見せるだけとなってしまった。

「いけない、帰らなくちゃ。きっと待たせてしまっているもの」

アンノーンが笑うように小さく鳴く。宙を滑るように寄ってきた「A」のそれを、彼女は両手で包み込むように抱いてそう呟く。
そうしてようやく男も、この小部屋への一歩を、忘れかけていたその歩みを思い出す。コツ、と靴音を一歩分だけ鳴らせば、彼女は弾かれたように勢いよく振り向いてくれる。

迎えに来てくれたんですか? と嬉しそうに尋ねて首を傾げる彼女の周りに、もう水晶は生えていない。
宝石で出来ているかのように見えていたこの場所も、ただの土壁に覆われた薄暗い小部屋であるばかりだ。
もう彼女の時間は、彼女という神が煌めかせていた空間は、絶えてしまった。人に戻った彼女が手にすることの叶う水晶は、最早その瞳と髪の空色を置いて他にない。
そしてその空色こそ、男が共有を喜べる色であり、男が彼女を愛する理由なのだ。

「ええ。一緒に行きましょう、クリス

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