三日月が祓うことを忘れた夢

赤いギャラドスがいる湖。テレビに映っている遠い場所。1階からお母さんが私を呼んでいる。私は部屋の中央に立っている。
これから私は、私がどうなるのか知っている。私は階段を下りて、外に出て、お隣に住む男の子と一緒に、町外れの湖へ向かうのだ。
そこで現れた野生のポケモンと戦うために、近くにあった鞄からボールを取って、投げて、あの可愛い子が、私の大好きな子が、出てきて。

「……私、昔に戻ってきちゃったのかな」

綿飴の海に沈んでいるような心地のまま、ゆっくりとしか動かない腕で鞄の中を探る。中にあったのは真新しい日記帳だけだった。
トレーナーカードも、モンスターボールも、ポケモン図鑑も、何もなかった。エンペルトも、レントラーも、ギラティナも、誰もいなかった。
皆がいない。皆に会えない。

でも、貴方だけはそこにいた。
部屋の隅っこに影を伸ばしたそのポケモンは、私がこの世界でどのように生き始めるのかを見守ろうとしているかのように、いてくれていた。

「この夢は貴方のものなの? 私に悪夢を見せているの? 私にとって「旅が始まること」は、悪夢なの?」

その影は、ダークライは答えてくれなかった。
顔が火照ってしまいそうな程のぬるい空気の中で、私はぎゅっと強く目を閉じた。そうすれば、ちゃんと夢から覚めてくれるはずだと思ったからだ。

案の定、次に目を開けた私は、ちゃんと私の家にいた。
毛の長いカーペットに転がったまま眠ってしまった私の背に、ブランケットが被せられていた。
きっとお母さんがかけてくれたのだ。そう思ってキッチンを見遣ると、エプロン姿の優しい後ろ姿から鼻歌が聞こえてきた。
あの背中に「行ってきます」と言わなければ。そう思い、手をカーペットに着けて立ち上がろうとした。けれども、できなかった。

そうだ。もう旅は終わってしまったんだ。私にはもう「行ってきます」を言う理由がないんだ。

私の会いたい人、私がどうしても会わなければならなかった人は、旅の終わった世界の何処にもいなかった。見つけられなかった。
終わってしまった旅の続きに出掛けたところで、もう何も変わらない。
私はずっと、私の悲しさと私の大好きな人達の悲しさとを、抱えて、悔いて、嘆いて、生きていかなければいけない。

「……」

私は再びカーペットに頭を預けた。頬を撫でる長い毛に目元をうずめつつ、鞄から一つのモンスターボールを取り出し、両手で抱くように握りしめて、目を閉じた。
先程まで眠っていたにもかかわらず、驚くほど早くに意識が朦朧としてきた。まるで熱にうなされている時のようだった。
そのどうしようもない熱さが、今の私、全てを終えてしまった私への道標になると信じて、私は夢の中へ戻っていった。

私には旅をする理由がない。でも夢の中にはある。あの場所には、私が旅を始めるための全てが残っている。

上に落ちる水でも天を読む藍でも、一途が故に、彼女は変わらない世界を延々と繰り返し続けてしまう。
ちなみにこの夢は、モノクロステップ秋編で英雄が彼女に声を掛けるまで、終わりません。

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