呪い

「お前が私の首を絞めたことがあったでしょう。あの頃からお前は私と同じ人種なのだと確信していましたよ」

 氷がたっぷり入った甘いレモンティーを混ぜる手がぴたりと止まる。海の目を丸くした彼女へ見せつけるようにワインの入ったグラスを掲げる。真夏、痛いほどの鋭さで窓から差し込む夕日が、グラスの中の赤いワインを明るく照らした。
 ワインの向こう側など普段なら見られたものではないが、これだけ夕日が眩しい今ではそれも叶ってしまう。小さな赤い海に溺れる二つの瞳は、しかし動揺を見せることなくすっと細められる。

「だから貴方は生きてくれたんですか? ゲーチスさん」
「……」
「我慢ならなかった? 嫌っている自身にひどく似た存在が、幼稚な正義を振りかざして自分の野望を折ることが。あまつさえ死なないで、なんて言いながら、自分の命を支配しようとしに来ることが」
「よく分かっているじゃありませんか、その通り。私はお前の為すすべてが許せなかった。お前のすることばかり許せなかった」

 ワインはこれで二杯目。この緩い空気が始まったのが約1時間前のこと。休日の昼間から果物とともにアルコール飲料を少しずつ口に運び、だらだらと続いてきた無駄話も佳境に入ろうとしている。もう十分すぎるほどに、男には酔いが回っていた。そうでもなければこのような話など出せやしない。
 思い出話を素面でできるほど、ここ数年の彼は追い詰められていなかった。あのような過去に多少の気恥ずかしさを覚えられるようになる程度には、男は変わった。男のそんな思い出話に怯える必要がなくなる程度には、少女も少女でなくなった。時が流れたのだ。

「お前に首を絞められたあの日に、その理由をようやく理解できたような気がしたのですよ。まあ、全く力の入っていない震える両手を首に沿えて、声帯をただ撫でるようにしていただけのアレを、首を絞めると表現していいのなら、ということにはなりますが」
「あはは! まさか今更あのときの恐怖と躊躇いをからかわれるとは思わなかった!」
「とんでもない、褒めているのですよ。お前の要領を得ない発言だけではピンと来ませんでしたが、形だけでもあのようにされたことでやっと理解できました。お前が自分の望みを絶対に叶えようとする人間だということ。自分の手から零れ落ちそうになるものを呪ってでも、お前はお前の望みを叶えようとするのだろうということ」

 その呪いにより男は活かされている。それはたまたま二人が似ていたからだ。本質的には同等に汚れたどす黒いはずの魂を、少女らしい無垢な願いで覆い隠していただけのこと。

 男の激情により魂を剝き出しにされた少女がしたことは、抵抗しない男を押し倒して、泣きながら首を絞めること、というのは……今思い返せば実に愉快で滑稽な話である。
 お前も同じか、よりによってお前が、同じなのか。
 雷に打たれたような気付きだった。天啓のような衝撃でさえあった。男の野望がこの少女に、非常に似た魂を持つこの少女に打ち砕かれたことに、ある種の意味を見てしまいたくなるほどには。

 まっとうに生きられるものなら生きてみろ、と思った。
 私に似た魂を持つお前が、その生き汚さを隠し通せるものならやってみろ、と思った。

 そして今のところ、少女は表向き、清廉潔白で情に脆い人間を演じている。本人が演じているという自覚がないまま、愚鈍さと愚直さは出会ったころと全く変わらないまま、彼女は日々、何者かを救うヒーローであり続けている。

「戯言と思っていただいて構いませんが、仮に他の誰が同じことをしたとしても、私は生き直そうとは思わなかったでしょうね」
「え? 嬉しいなあ、そんなに私が魅力的だった?」
「ちょっとそのレモンティーを寄越しなさい。お前を気に入らない何者かがアルコールを混ぜた可能性がある」
「いやいや冗談ですよ! それにこれは、ここへ来る途中でそのワインと一緒に買ってきたものです。混入される隙なんてありませんでしたよ」

 成る程、ではこのワインにも、男に腹を割らせる悪質な薬などは入っていないということになる。それなら結構と小さく笑いながら口にして男はもう一度グラスに口をつけた。
 あれっと彼女は首を傾げて、そしてクスクスと笑い始める。

「私がワインに薬を入れることは想定していなかったんですか?」
「馬鹿を言え。お前がなお私相手にそのような下手を働く人間なら今すぐそこの窓から海へと放り投げます」
「それはそう! じゃあ貴方がこんなにも沢山喋ってくれるのは、本当に貴方が話したくなったから、ってことになりますよね?」
「そうですよ。私はお前を称賛しているのです。私に似た魂を持ちながら、よくぞ表向き、ここまでまっとうに生き抜いたものだと」

(もうちょっと続く)


© 2025 雨袱紗