8/22、雪村さん

こんにちは、雪村さん。遊びに来てくださりありがとうございます。

台風については四国、見事に直撃だったのですが、雨風で外が非常にうるさかったので物理的にというよりは精神的にダメージを受けましたね。
あと500円で作った手作りの日よけ簾を片付け忘れたせいで、翌日、無残にも大破している姿に直面することとなってしまいました。
今では無事に修復も済み(というよりは、私の知らないうちに修復が済んでおり)500円の実用性の高さをまざまざと本日も見せつけられております。
直射日光が苦手なので、この簾がベランダにあるか否かで洗濯物を干すときの意気込みがこう……だいぶ変わるんですよ……。

ああ……そうやって購買意欲を煽るためにどんどんセットにして片方のファンを両方の虜にしようとしていくやつ……その手法、知っていますとも……!
非営利で書いているブログやサイトの創作物とは異なり、それを生業としている場合にはある程度の収益が見込めなければいけませんからね。
そういった手段も商法として致し方ないという面も確かにあるのですが、あまりにもあからさまだとうんざりしてしまいますよね。
食事や住まいや睡眠のような「必須物」ではないエンターテイメントという分野では、選ぶ権利は消費者側にありますから、雪村さんのモヤモヤはもっともなことです。

「友達」というのは実に素敵な言葉ですが、その実、呪いにも化けうるおぞましさを秘めています。
特にこちら側が苦手意識や嫌悪を抱いている相手に「友達」と示されてしまうと、なんだか利用されているようで、にわかに恐ろしくなってしまうこともありますよね。
「愛」にも似たような性質があり、呪いに化けた恐ろしい愛の創作物は世に沢山出ておられますよね。

この優しい単語の数々を「祝福」と取るか「呪い」と取るかは当人の気持ち次第であり、どちらの解釈を取ったところで誰にも責められるいわれはありません。
私が前回に書かせていただいた「思い上がり」については、完全に相手を信用しきっており、相手との「友達」を「祝福」と見たい場合の感情ですので、
その「祝福」を上手く受け取れない、あるいは「祝福」とはとても思えない、というような状況にある場合には、器用にその言葉をかわしていかなければいけませんよね。
相手が満面の笑顔で構えた罠に、社交辞令で飛び込んでいく必要は全くありませんもの!

嬉しい、と言っていただけてほっとしています。私は雪村さんとのこれを「祝福」と見たい気持ちでいっぱいです。

【怖いから選ばない】【余計なことを考えてしまう】というのは雪村さんの慎重な性質の現れでありある種の美徳であるとも考えています。
少なくとも、そのように考える傾向にあることをお相手様は分かってくださっていると思いますので、それについて罪悪感を覚える必要はきっとありません。
世間一般に見て「もっといい考え方があるのでは」と思われるような思考回路を持っていたとしても、それだって当人の特徴であり、個性であり、愛嬌です。
その思考回路を有した貴方を大切に思ってくれる方がいる限り、それは否定されるべきものではないと考えています。大丈夫ですよ。

わわ、その漢字が入っているのですね! なんて奇遇な……私の旧姓にもそれが入っていたのですよ。
画数が多いものの、とても気に入っていた漢字であったため、なんだかこれごと結婚によって奪われてしまったような気がして、当初は少々落ち込んだものです。
神座はかっこいいですよね、神の座ですものね……そうか神様もラーメンを召し上がるのだな(錯乱)

では、ありがとうございました。またお会いしましょうね。

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