103号室の隣人

(原作とは少し異なる、平和なポケモン世界でのお話としてお楽しみください)

 タマンタが少し膨れた水色のお腹を見せて、目の前を横切った。無表情の私が一瞬水槽のガラスに映り込んで、すぐにケイコウオの群れがざあっと左の方へと下降する。ぼんやりとライトをつけたつがいのランターンがゆったりと泳ぎ、サニーゴとオクタンが地面をのそのそ歩き出し、先ほど横切ったタマンタが、マンタインを連れ添って水面目がけて上へ上へと水をかき分けていく。
 限られた空間であるにせよ、水ポケモンたちが自由に生活している様子を見るのは、嫌いではなかった。だからこそ私は、飽きもせずに毎週日曜日、決まってこの薄暗い水族館を訪れるのだろう。
 きれいだなとか、癒されるとか、最初のうちは誰もが感じるであろう感想を抱いては夢中になっていた。しかし、私ほどの常連ともなると、今日のメスのランターンはあまりフーズを食べていないなとか、サニーゴの左から三番目のツノが少し欠けているなとか、職員顔負けの観察力を無駄に発揮してしまう。そして、憂いてしまう。ランターンは産卵の時期だから食欲がないのかとか、サニーゴはあわてんぼうだからツノを岩にぶつけてしまったのかとか。だからこそ、今となってはこの空間に癒しを見ることができなくなっている。
 親子連れやカップルのにぎわう声、幼い男の子が水槽をコンコンと叩く音、ゆったりとして落ち着いた館内のBGM……。この適度なざわめきの中にひとりで身を置くことにももう、慣れてしまった。そばに誰もいないというのは、ときに寂しさを伴うけれど、案外気楽で良いものだ。だって、黙っていても、無表情でいたとしても誰にも咎められない。気を遣わせない。そういう笑顔の仮面をひっそりとはずす時間は、きっと誰もに必要なことだ。
 その考えは間違っていないと思うし、強くそう思おうとして自分を納得させているのだけれど、周りのお客たちが感想や疑問を連れの人に共有している姿を見ると、自分の胸の中のなにかがほっそりとするのを感じる。それが俗に言う心細いとか、寂しいという感情なのかもしれないけれど、私は自分の中に生まれたそれに「寂しい」とは名付けることはしたくなかった。名前をつけてしまったら最後、もうこの薄暗い水の世界に足を踏み入れることが叶わないような気がするからだ。
 だからいつも、少量の唾を嚥下し、巨大な水槽を下から上へと食い入るようにじっくりと見上げる。ポケモンたちの世界に、意識だけを飛ばす。そうすれば、周りの喧騒も忘れられ、自分はひとりではないと思えるのだ。ポケモンたちがゆらゆらと泳いでいるという、その事実で。

 仕事から帰宅したら、左隣の空き家103号室の前に、大きなトラックが停まっていた。『引越し屋のチャオブー』とでかでかと書かれたそれから、帽子を被った男の人たちがダンボールを取り出している。同じ帽子を被ったチャオブーも、小さな荷物をみっつほど積み上げて仕事をしていた。
 誰かが引っ越してくるようだ。こんな静かだけが取り柄のへんぴな田舎町にやってくるなんて、もの好きな人か、都会暮らしに疲れた人なんだろう。興味本位で新しい住人の影を探したけれど、残念ながら見つからなかった。
 どんな人だろう。男の人か、女の人か。学生か、社会人か。ファミリーなのか、単身者なのか。うるさい人、落ち着いた人? 干渉してくる人、そっとしておいてくれる人? 仲良くなれるだろうか、それとも……。
 そんなことを考えながら、自宅に入る。上京して一人暮らしをしてからは「ただいま」を言う人がいない。しんとした玄関で靴を脱いでいると、疲れからか急に睡魔が襲ってきた。手を洗ってからすぐにソファにもたれ、そうして目を瞑っていたら、いつの間にか眠りに落ちていた。
 遠くの方で、ピンポンと音が聞こえる。私はなにかの早押しクイズ大会に出場していた。賞金は100万円、両隣の参加者はエビワラーとサワムラーだ。けれど、なぜだろう。ボタンを押してもいないのに、さっきからピンポンと音が鳴っている。
 さて、一体どういうことだろう。と、考えてすぐに気づいた。これは夢で、謎のピンポン音は玄関のインターホンの音なんだ。私はすぐさま飛び起きた。
 慌てて目をこすって、お待ちくださいと返事する。廊下をばたばた歩く間に手櫛で髪を整えた。姿見を見ると、まだ寝ぼけ眼の自分が寝癖つきで映っていたけれど、この際もう仕方がない。
 顔なじみの郵便屋さんかと思ってドアを開けた。だから、そこにいたのが全然見知らぬ人で、驚いた。色素の薄いブロンドの髪色と、スタイリッシュで斬新なスタイルの青の髪色が混在している、メガネの男の人だった。白衣のようなものを着ているから、医療関係の人……お医者さんなのかもしれない。
「はじめまして、夜分に申し訳ありません。私、となりに引っ越してきたアクロマという者です。今日はご挨拶に伺いました」
 自分を「わたくし」と表現する丁寧な男性は、やっぱり丁寧で礼儀正しい、深々とした礼をした。
「これからなにかとご迷惑をおかけしますが、何卒よろしくお願いいたします」
「あっ、いえいえ、こちらの方こそ、ご迷惑ばかりおかけしますですが何卒何卒」
 寝起きの私は、ちゃんとした言葉を喋れているか分からないままに、素早いおじぎを二回した。
 アクロマさんという人は、どうぞと言って、手に持った紙袋から「ご挨拶」という、のしの巻かれた品物を取り出し、渡してくれた。私は、わざわざご丁寧にぃ、と頭を二回下げる。
「なにか分からないことがあったら、遠慮なく聞いてくださいね。あっそうだ、ゴミの出し方とかお聞きしてます? ここ、ちょっとややこしいんですよね」
 このアパート『雨袱紗荘』の建っている自治体のゴミの日は、月曜と木曜と決まっている。プラスチックのゴミは金曜日で、ダンボールなどの資源ゴミは月に一回、月初めにしかない。これを逃すと、ずいぶん痛い。だから私は重要なゴミの日の前日になると、目覚まし時計に「ゴミの日」というふせんを貼ってから就寝する。
 時間帯もシビアだ。七時から、七時十五分という短い間にゴミを出さなくてはならない。収集車が来るのは七時二十分から三十分の間と恐ろしく早く、遅れてきた者に容赦がない。以前、たった二分遅れただけなのに車は無情に走り去ってしまって、結局生ゴミを出せずに途方に暮れた経験がある。そのときから、ゴミの日の前日は目覚まし時計を必ず二個セットすることにしている。
「ゴミの日当番っていうのもあるんです。当番のときは、当番プレートをドアノブにかけておいて、収集車が去った後のゴミ捨て場に、置きっぱなしにされたゴミに心当たりがないかを、皆さんに聞きにまわらないといけなくて。そうそう、ここは分別方法も厳しいんですよ」
 と、ここの自治体のゴミ出しが、いかに面倒なのかを暗に訴えながら、アクロマさんに長々と説明をした。
 彼は、頷き上手だった。聞き上手、というよりも頷き上手という方がしっくりきた。頷き方の品が良く、適切なタイミングと適切な頭の動かし方で、話し手の私を安心させた。ときどき発せられる相槌の声も、遠慮深くてやさしくて、私はできるならこのまま、仕事や上司の愚痴も併せて吐き出して、彼にひたすらうんうんと頷いて聞いて欲しいと思うほどだった。 
「色々とご親切に、どうもありがとうございます」
「いいえ、長々とすみませんでした」
「ちなみに、次回のゴミ当番の方はご存知ですか?」
 そう問われて少し考えてみると、来週かその次が私だということに気づいた。
「もうすぐ、私に回ってくると思います」
「そうですか、ではこちらにもすぐ回ってきますね」
 そうなりますね、と言えば、ちょっとした沈黙が生まれた。
 アクロマさんは、髪色と同じ金の瞳を少し細めて、冗談を言うように小さく笑んだ。
「私は朝が苦手ですから、ゴミの日は苦労しそうです」
「えっ、アクロマさんもですか? 私もなかなか起きられないんです。ゴミ出しの日は毎回、戦争状態ですよ」
「では私たちは朝が勝負ですね。敗戦しないよう、お互い頑張りましょう」
 彼はそう言って、にっこりと笑って手を差し出した。私はその白い手袋をはめた手をおずおずと握って、照れくさくなりながら小さく笑い、頑張りましょー、と返した。
 ゴミの日の朝、この人が一緒に戦ってくれると思うと、なんだか心がふくらむ気がした。それは、ひとりで水族館にいるときの感情と正反対のように思えて、その慣れない気持ちを少しだけむずがゆく感じた。

 思い切りバットを振れば、カキーンという爽快感あふれる音が鳴った。球は放物線を描いて遠く客席の方へ飛んで行く。それを見ながら心を弾ませ、私は走る、走る。よし、ホームランは確実だ。
 客席からの歓声は凄まじく、グラウンドの砂を蹴る私の足は雲のように軽い。暑い日差しも、流れる汗も、熱の入った「ホームランだー」との実況の声も、すべてが心地良かった。
 ホームベースまであと少し。私はチームの危機的状況を覆す英雄になれる。さあ、華麗なる逆転劇をご照覧にいれようじゃないか!
「テレレレ! 起きて! 朝だよ! テレレレ!」
 ……いや、ちょっと待ってよ。このタイミングで、鳴る?
「テレレレ! 朝だよ! 早く起きないと遅刻しちゃうぞ!」
「ああもう、わかったから!」
 眠気で目が開けられないので、右手を挙げて枕の後ろに指をさまよわせた。喋る目覚まし時計の不快音を止めるボタンを探しているのだけれど、もたもたしていたらもうひとつの目覚まし時計もけたたましく鳴り出した。
「ジャンジャンジャン!」「テレレレ!」
 次の催促はもうさせまいと、ふたつの時計のボタンを叩いた。その一方の感触がプラスチックのツルツルではなく、紙のザラザラとしたものだったので、慌てて時計を掴んで凝視した。『普通ゴミの日&ゴミ当番!』。私は飛び起きた。架空のホームランを喜んでいる場合ではない。早くゴミ捨て場の門を開錠しに行かなくては。
 歯を磨いて洗面し、ゆったりとしたマキシワンピースに着替え、申し訳程度に髪に櫛を通す。目はまだ完全に開いてはくれないので、半開き状態のまま、起床から九分で外へ出た。『ゴミ当番』と書かれたプラスチックのプレートを、忘れずドアノブに吊るして。
 午前六時五十二分の空は、すでにもう明るい。肌を焼く夏の強い日差しは、この時間ならばまだ手加減してくれている。小さく吹いた風が、飛んでいくスバメたちの追い風になり、私の少し痛んだサイドの毛先を軽やかに揺らした。
 ゴミ捨て場の鍵を開錠するのも、ゴミ当番の立派な役目である。幸いにも、まだゴミを捨てに来た人はおらず、ほっとしながら錆びた南京錠に鍵を挿し、おでこの汗を拭った。
 さわやかな青い空が広がっていた。この空の色は、最近どこかで見たような気がする。そうだ、お隣りの白衣の……お医者さんの髪色だ。
 彼が引っ越してきて、二日が経つ。その間、家の前で顔を合わせることも三回ほどあったし、彼がご挨拶にとくれた洗濯用洗剤を使うたびに、彼のことを思い出す。いただいた洗剤が「アクロン」という名前だから、それはもう余計に。
「……アクロマさん、ちゃんと起きられたかなぁ」
「おはようございます」
 突然後ろから声がして、肩が跳ねる。寝起きの私の目は、その声でやっと完全に覚醒した。噂をすれば、なんとやら。例の人が、ふたつのゴミ袋を提げてそこにいた。
「あ、アクロマさん。おはようございます」
「お互いに、敗戦は免れましたね」
 彼はくすくすと笑って、まだなにも置かれていないゴミ捨て場に、一番乗りでゴミ袋を置いた。
 私は少し、面食らってしまった。例えるなら、ボロボロになりながらもなんとか敗戦を免れた状態の私に対し、彼は余裕しゃくしゃくで戦に圧勝して勝どきを挙げている大将のようだから。トレードマークの白衣はまっさらでシワひとつなく、セットの難しそうなヘアスタイルはきちんと決まっていて、寝癖ももちろん見当たらない。
 この人は、本当に朝が苦手なんだろうか。間違っても、同じ人種だとは思えない。この間彼が「朝が苦手」と言ったのは、初対面での会話の沈黙を埋めようとわざとついた嘘だったのではないかと、邪推してしまう。
 それとも、ここへ来て初めてのゴミ出しは遅刻できないからと、気合を入れて早くから起きて準備していたんだろうか。きちんとしていそうな方だから、それも十分ありえる。
 本当は、どっちなんだろう?
「確かあなたは、ゴミ当番なんでしたっけね。門の鍵を開けに?」
 手ぶらで突っ立っている私を見て、彼が愛想良く首を傾げる。
「そうなんです、とりあえず早く開けに行かなきゃって急いで来ました。今からもう一度家に戻ってゴミ袋を結んで……あっ」
 そういえば今日は、月に二回設けられている、新聞紙と古雑誌類の回収日でもある。部屋に溜まっていたファッション雑誌の類をようやくまとめて捨てる気になったので、この後普通ゴミの袋と併せて出すつもりだ。
「そうそう、今日は古紙や雑誌類も捨てられるんです。出す予定のもの、なにかあります?」
「ああ、そういえば、ポケモンがいたずらして読めなくなってしまった文献や研究書が何冊かありましてね」
「研究書? あ、アクロマさんはお医者さまですもんね」
「いいえ、いえ、私はしがない研究員ですよ」
「研究、者さん?」
 白衣を着ている、たったそれだけでお医者さんだと早合点してしまっていた。そうか、言われてみれば研究者さんも白衣を着ているものだ。
「ええ。ポケモンが持つ本来の力をどうすれば最大限に引き出せるか……その答えを探して、日夜研究に明け暮れているのです」
 といってもまあ、と彼は力なく瞬きをして言葉を続ける。
「思うような結果が出ず、研究に明け暮れているというよりは、途方に暮れている……そうですね、つまりは行き詰まっています。終いにずっと研究室に閉じこもっているのが嫌になって、いっそのことなにもかも環境を変えてみようと思い立ち、私ひとりでここに来たんですよ。そうすればなにか新しい視点が見えてくるかもしれないと、不確定な未来に淡い期待を寄せながら……」
 彼は、眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、寂しそうに微笑んだ。
 その表情につられて、私もなんだかしゅんとしてしまう。そうだったんですね、と控えめな相槌を打った、そのときだった。
 アクロマさんのカーブを描いている青い髪の束が、空に向かってぴーんと一直線に伸びた。
 その衝撃的な画に、私は思わず我が目を疑った。
「……えっ?」
「どうしました?」
「いや、その、アクロマさんの……髪が……」
「あっ、こ、こら、ジバコイル!」
 アクロマさんがあたふたしながら、腰につけた小さなモンスターボールに、しきりに話しかけた。
「人前でいたずらをしてはいけませんとあれほど言ったでしょう? 今すぐ電磁浮遊あそびをやめて、早く元の髪型に……」
 どうやら彼の手持ちポケモンがいたずらをしているらしい。私は、笑いを堪えようと口元を押さえたが、無駄だった。アクロマさんの青い髪が、今度はスプリングが伸び縮みするように、みょんみょんと跳ね出したから。
「っ、ふふふふふっ、あはははは」
 もう、耐えきれずに笑い出してしまった。だって、純粋に面白い。彼の髪が跳ねる様子も、恥ずかしさで頬を染めてポケモンを嗜める彼の姿も、まったく言うことを聞かずに茶化している見えないポケモンさえも。
「ジバコイル、いい加減にしてくださいよ! ほら、笑われてしまったではないですか」
「すみません、ふふふ、笑うつもりは、なくて、ふふふっ」
「ああ……」
 終いに、額に手を当て目を伏せた彼は、長いため息をついた。いたずらっ子ポケモンもやっと気が済んだのか、彼の髪型はようやく元の形に戻った。
 ひとしきり笑った私は、自分の無礼を詫びた後、先ほど言いそびれたことを口にする。
「大丈夫ですよ。研究、今度は上手くいきますよ」
 おはようございます、という声がいくつも聞こえ出した。近所の方々がぞくぞくと、ゴミを出しにやってきたらしい。
「そうだと、良いのですが」
「きっとそうですよ。ご自分を信じてください」
「……そうですね、自身を信じるという不確定要素に、希望を見ても良いのかもしれません」
 難しい単語に思考が一瞬固まるが、彼の優しい笑顔が心をふんわりとさせた。
「ありがとうございます。心機一転、頑張ってみますよ」
 その後、アクロマさんと家の前まで一緒に帰った。慌ててゴミ袋と古雑誌をまとめてもう一度ゴミ捨て場に向かうと、表紙も中身も黒焦げになった分厚いなにかの専門書が、お行儀よく置かれてあった。

 窓ガラスにいくつもの水滴が流れていく。遠くの方でゴロゴロと雷が鳴るのをしきりに気にしながら、私はダンボールだらけの部屋のテーブル席に腰かけている。無意識に肩をすぼめてしまうのは、きっと少しの遠慮と少しの緊張のせいだ。
「お待たせしました。どうぞ」
 目の前にことりと湯気の立ったマグカップが置かれる。コーヒーの匂いがふわんと鼻孔をくすぐった。
 お礼を言うと、彼は、アクロマさんは、にこりと笑って私の向かいに腰かける。
「いや、ダンボールだらけの窮屈な部屋で申し訳ない。こうもたくさん本があると、なかなか荷ほどきが進まないのですよ」
「私で良かったらお手伝いしますよ?」
「いいえ、カレーのおすそ分けまでしていただいたんです、これ以上はもう……。そのお気持ちだけ、いただいておきますよ」
 彼がそう言うなら、無理にとは言わない。またいつでもお手伝いしますからね、と告げて、コーヒーに口をつけた。
 一人暮らしでカレーを作ると、ほとんど余ってしまう。毎食それを食べても三日は優に保つので、途中で飽きて嫌になってしまうのだ。それでもいつもならカレーうどんにアレンジして仕方なく食べるのだけれど、せっかくお隣さんが引っ越してきたのだから、おすそ分けをしようと思い立った。それで少しでも彼と仲良くなれたら良いな、と思ってしまったのは一体どうしてだろう。
 夕方になり、タッパーに詰めたカレーをアクロマさんに持っていくと、それはそれは喜んでくれた。まだ食べた感想も聞いていないのにそれだけで作りがいがあったな、と思えるほどだった。それで「片付いていない部屋でもよろしければ、上がっていってください」との彼のお言葉に素直に甘えて、今コーヒーをいただいているというわけだ。
 お隣さんとはいえ、男性の家でふたりきりになるのは、初めてだった。それゆえにやっぱり少しの緊張が伴うのだけれど、アクロマさんの笑顔がそれすらもだんだん溶かしてしまうから、この人は不思議だなと思う。研究所やなにかのチームの中にいたときも、きっとこうして周りの人を和ませていたんだろう。
「あなたはトレーナーですか?」
 アクロマさんが、ふいにこの質問を投げかけてきたので、私は後に続く会話の流れを少し予想してしまった。だから、なるべく平静を装いながら答えた。
「いえ、今はもう」
「ということは、以前は?」
「はい、以前はプクリンと一緒だったんです。ププリンの頃から育てていました。けど、その子が病気になってしまって天国に行っちゃってからは、もうポケモンとは、ね」
「それは……悲しいことを思い出させてしまいましたね」
「いえいえ、お気になさらず。もう五年も前のことですから」
 可愛い子だった。誕生日にプレゼントした赤いリボンを気に入っていて、いつでもどこでもそれをつけたがっていた。私が泣いたり怒ったりしていたら、必ずそばに駆け寄ってきて抱きついてきてくれた。歌が大好きで、しょっちゅう流行りのポップスを一緒に口ずさんでいた。
 私の、初めてのポケモンだった。
「良い子だったんですよ。ほんとに。だからなおさら、別れがつらかったんです。こんなに辛いなら、もうポケモンなんて欲しくない、私の一番は生涯ププちゃん、あの子だけで良いって今でも思っていて……。変ですよね。みんな、そういうことを乗り越えたり割り切ったりしているのに、私だけ今でも引きずっていて」
 雨が強く窓を叩いている。その音が、情けない私を責めるように響いている。
「いつからか、怖くなりました。大切な存在を失うのが。だから、友人と深い関係を結ぶのも、家族のそばにいるのも、新しいポケモンを迎えることも、できなくなりました。だから、私はこれからもひとりで生きていくんだと思います。……その方がきっと、良いんです」
 ごめんなさい私の話ばっかりで、と無理やり笑って、この暗い話をなんとか流そうとする。
 どうして私は、つい最近知り合ったばかりの人に、こんな面白くもない話をしているのだろう。ふと我に返ったら苦笑してしまいたくなる。
 タイミング良く雷が鳴ったので、天候の話題に変えようとした。けれど、アクロマさんがいつになく真剣なまなざしでこちらを見たものだから、思わず声をかけることも、呼吸も忘れた。
「それは本当に、あなたが望んでいることなのでしょうか」
「え?」
 どういうことだろう。ひとりを望んでいるからこそ、付き合いも最低限にし、田舎から出てきて一人暮らしをし、ポケモンと一緒にならないという選択肢を選んでいるのに。
「ならばなぜ、引っ越してきた私を疎んだり拒絶することなく、懇切丁寧にゴミの出し方を教えてくれ、美味しそうなカレーをおすそ分けし、このようなお話を素直に打ち明けてくださるのでしょう」
 言われてみて、はたと自分の矛盾に気づく。そう言われてみれば、その通りかもしれない。
「……私には、あなたが――」
 彼が言葉を続けようとしたとき、外から凄まじい破裂音が響いた。
 私は思わず悲鳴を上げて耳を塞いだ。怖くて目も強く瞑った。しばらくして、残響が消えてから恐るおそる目を開けた。けれど、視界は暗いままだった。
 もしかして、停電?
「大丈夫ですか」
 暗闇の中で、彼の落ち着いた声が聞こえたので、いくらかほっとする。
「は、はい。アクロマさんは?」
「平気ですよ。だいぶ近くに落ちたようですね。早く電気が復旧すると良いのですが」
 そうですね、と相槌を打つけれど、その声は柄に似合わずか細かった。
 一体いつまでこのままなんだろう。アクロマさんがそばにいるといえども、やっぱり心細くなる。まるで水族館で、たったひとりで時間を過ごしているときのような気分だ。自分で選んだはずの孤独の哀しさをまざまざと突きつけられる、あの時間のように心細くなっていく。
 私は、さっきの彼の言葉の続きが気になっていた。彼はなにを告げようとしていたんだろう。
 彼には、私がどんなふうに映っていたのだろう。
 少し考えていたら、いつのまにか壁際に立っていたアクロマさんの手元が、ぱっと光った。
「こんなこともあろうかと、事前に懐中電灯を用意しておきました。怖くはありませんか?」
 こくこくと頷くと、彼はふうと息を吐いて、灯りをテーブルの上に置いて椅子に腰かけた。こんなときでも落ち着いている、彼の柔和な表情が暗闇の中に浮かび上がっているのを見たら、いささか安心した。やっぱり、ひとりじゃないというのはありがたい。
「仕方がありませんので、復旧するまでしばらくこのままでいましょう。……そうです、先ほどの話の続きですが……」
 私は頷く。批判されるかもしれないことに少し、怯えながら。
「私にはあなたが、お仲間のように思えるのです」
「アクロマさんと私が、お仲間?」
「そうです」
 私は、反射的に首を横に振った。こんな素敵な研究者さんと、ちっぽけで臆病な私が仲間なわけはない。
 それでも彼は、片手を小さく挙げて私の否定を制した。
「私は以前、ある研究チームに所属していました。そこで、他の研究者たちと共に過ごしているうちに、人間の心に巣食う嫉妬の渦をまざまざと見てしまったのです。そしてその、醜い魔物の毒手に侵されてしまった。……やがて私は、人の中に身を置くことに疲れ果ててしまいました。端的に言えば、人間をある意味で見限ってしまったのです」
 淡々と告げる彼は、温度をなくした太陽の目をしていた。私は彼との間に深い渓谷のような溝があるような気がして、分厚い氷の壁が立ちはだかっているような気がして、喉をごくりと鳴らした。
 それを見たアクロマさんは、ふっと力を抜いたかのように、小さく笑う。
「……だというのに、あなたをこうして自宅に招き入れているのですから、おかしな話ですよね。ああ、自宅だけではありませんね。……おそらくここにも、招いています」
 彼はそっと胸に手を当てて、目を伏せる。その穏やかな表情が、ライトの淡い光にやんわりと照らされている。
 心の中に、花火が打ち上がった気がした。胸にドン、という衝撃が来て、驚きと嬉しさの色で彩られたきらめきの花が、大きく大きく広がっていく。
 私は、見限られてはいなかった。彼に少しは信頼してもらえていた。少なくとも、彼の心の中にそっと招かれることを許されるくらいには。
 こんな感動、本当に久しぶりだった。
「誰かとの関わり合いを避けることで、自分自身を守りたい。ですが、完全な孤独は寂しい、嫌だ。……私はそうした矛盾する感情を持ち併せています。あなたもそうなのでしょう? だから、私たちはお仲間なのですよ」
「アクロマさんも、そう思われるんですか。私と同じことを、思うんですか」
 彼は太陽の瞳を細めて、微笑んだ。
「もちろん思いますよ。あなたと同じ、痛みを知っている人間ですからね」
 太陽の温度はすっかり元通りになって、私に温かな日差しを向けてくれていた。
 いつの間にか、雷鳴はどこか遠くで聞こえるようになった。外の雨も、だんだん勢いが削がれてきた。部屋の灯りがついたのは、私たちが言葉もなくお互いを見つめあっているときだった。

 もし、私たちが強固な友情を結べたら、世界はどう変わるだろう。
 私は孤独じゃなくなるし、アクロマさんにも新しいお友達ができる。もしかしたらそれをきっかけに研究も捗り、なにか新しい発見ができるかもしれない。
「それは、ずいぶんと素敵な希望的観測ですね」
 たぶん彼はそう言ってくすくす笑い、きっと本気にしないだろう。けれど、能天気でおめでたい頭の私には、もしかしたらそういうこともありえるのでは、なんて思ってしまう。
 目の前の大きな水槽には、水ポケモンたちが優雅にすいすいと泳いでいる。タマンタも、マンタインも、サニーゴも、オクタンも、ランターンも、みんななにひとつ変わらず、日々を営んでいる。
 水ポケモンたちの体調やケガを案ずることはあるけれど、それを必要以上に憂うことはなくなった。私は昔のように、水槽の中の世界に癒しを見ることができた。今は、産卵期を目前に控えて隔離されているランターンが、無事に戻り、たくさん元気な子どもたちを生んでくれるのが楽しみであり、待ち遠しい。
 子どもたちのはしゃぐ声も、腕を組んだカップルの会話も、館内のBGMも、変わらない。なにもかもがいつもと同じだった。
 ただ、水槽の分厚いガラスに触れる私の心持ちだけが違った。
 この水の美しい世界を、彼にも見せてあげたい。彼と一緒に、胸に生まれた色んな感情を共有したい。そうして、もっともっと、仲良くなれたら。彼のことを知り、私のことを知ってもらえたら。今度は私の心のうちに、彼を招くことができたら。
「……アクロマさん、オッケーしてくれるかなぁ」
 いつもはほっそりとしていた心が、なぜだか今日はふっくらとしている。その心の幹が太くなり、上に伸びていき、孤独を跳ね返しどっしりと鷹揚に構えることができる。その胸の中には、小さな打ち上げ花火が一瞬も止むことなく、ぞくぞくと打ち上がっている。
「……うん、きっと大丈夫」
 私は今、新たな絆を結ぼうとしている。

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大好きな葉月さんに贈ります。
(20190725)

+ ありがとうございました!

 

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