+ 本題までがだらだら長すぎなんよ
神と人の関係というのはアポロさんとクリスさんのあれで散々書いてきたはずだったのですが、この二人の枠から外れて考えるとまた新しい信仰の形を次々に見つけることができてとても楽しい思いができました。
6月に出会ったセイボリーなんてのはその最たるもので、あの水色に強烈な神秘性を見たが故にユウリが抱くことになった信仰は、もうさながら一目惚れのようなものに違いなく、「あの水色を操る君は、神か、それとも人か」ということを何度かユウリと一緒に本気で考えました。7月8月と治療で体がボロボロ(あっ私の選択による自業自得ですので何の問題もありません)だった時期にも、セイボリーの水色のことを考えると随分と元気になれたものです。これだけ一人の人物に熱狂的になったのはもしかしたら2012年のアクロマさん以来のことかもしれませんね。1日1セイボリーは狂気の沙汰でさえありましたが、いやぁ……楽しかったなあ。もう1日1回お祈りするみたいな感じで必ず一本書いていたものな……。
この信仰熱がずっと続くかと思われたのですが体調が思っていた以上に損なわれた……だけでなく、投薬や注射の影響で情緒までめちゃめちゃにされてしまったので、健全な世界に生きるセイボリーのことを正しい心地で考えることができなくなり、同じく健全な世界であるポケモン全体から距離を置いていました。ランキングを脱退して新規訪問者を絶ったのもこの頃ですね。このポケモンに触れられていない期間はツイステにお世話になっていたのですが、正直この選択が正しかったかどうかについては未だに疑問が残ります。これはツイステへの評価ではないことを前置きした上で書きますが、出会ったタイミングとしては最悪でしたね。もっと健全な気持ちのときに遊べたなら、彼等のこと、もっとちゃんと好きになれていたような気がします。レオナさんやジェイドやイデアさんやジャミルに対する認識も……今よりはずっと柔らかいものになっていたはずです。
ツイステの世界へ「信仰」の概念を持ち込めるようになったのは、投薬やら治療やら手術やらが一通り終わって束の間の安息を手に入れた11月後半あたりからでした。アズールの話は一番情緒が安定していなかった時期(9月末頃)に書いてしまったので、随分と読みにくいものになってしまっていたかもしれませんね。
さて、ツイステに反映した信仰系といえば勿論神の国ジャミルなのですが、彼と「彼女」の関係はある種クリスさんとアポロさんのそれに似ているようにも感じます。女性の側に秘密が多すぎること、無条件の愛が当然のように存在すること、男性の側が女性に神の像を見ていること、でも実は男性の側が抱いている想いにこそ神を通り越して怪物めいたものが潜んでいるということ、等々……。ただ青の共有では物語を「変える」ためにクリスさんを動かしたのに対し、神の国では彼女が入って来たところで物語(四章)は「変わらなかった」ことを書きたかったというのがあるので、神という単語はこれでもかという程に散りばめたものの、彼女自身はクリスさんのように、神秘的だったり不気味だったり怪物めいていたり……というようには見えなかったんじゃないかな、と思っています。
6月頃に出会ったポケモンの二次創作サイト様で、同じく「信仰」について書かれた物語を拝読したのですが(セイボリーの話ではありませんでしたが)あまりの素晴らしさに感動し、衝動のままに感想をお送りしたところ、お返事の中にまでとても印象深い言葉を綴ってくださいました。そのままを引用するのは避けますが、信仰には「信仰する側に宿る美しさ」と「神を想い続けること自体に生じる苦しさ」が両立するものだ……というような内容だったんですよね。
6月当時、私は「ああ……確かに……信仰とは美しく苦しいもの……」とスマホを前にぶんぶん頷くばかりだったのですが、この美しさと苦しさというものを9月以降は我が事としてひしひしと感じることになりました。人であれエンタメであれ趣味であれ、それらを想い続けることには心理的負荷が伴います。エネルギーを要します。ポケモンという世界への愛着を「信仰」とするのは些か大仰かもしれませんが、ある程度の健全な心理状態……少なくとも薬漬けで狂うことのないような状態……でなければ、この世界への信仰を持ち続け、ポケモンを楽しむことはできませんでした。
ポケモンの世界を想い続けることが苦しいことである、などと言うつもりは勿論ありませんが、興味本位でポンと踏み入れたツイステや刀剣乱舞やダンガンロンパとは異なり、幼少期からずっと一緒だったこの世界については「世界観もポケモンも人もBGMもまるごと全部大事にしたい」という気持ちがとても強かったんですよね。そのため他のエンタメと比べて、書くまでに至らずとも、楽しむことだけにも相応のエネルギーを必要としました。信仰するだけの心理的余裕を失った段階で一番に手放したのがポケモンであったのは、私にとっては必至であったように思います。
ポケモンの全てを美しく尊いものとして大事にしたかった。でも大事にし続けることにはある程度のエネルギーが必要だった。神は美しい。神を信仰する者もまた美しい。でも想い続けること自体には苦しさが伴う……。お返事を頂いてから約半年経ちましたが、頂いたお言葉をこうして改めて振り返ってみると、あの真理をより重いものとして感じることができ、幸せな気持ちになれますね。
此処まで書いて思ったのですが、これ、信仰の部分を全部「愛」に置き換えても成り立つんですね。たった今その事実に気付いて「馬鹿な……」などと愕然としてしまっているのですが、この信仰≒愛の同義感については信仰ではなく愛の方を主軸に据えた方が分かりやすいかもしれません。信仰の域を大きく逸脱しないレベルの愛がおそらく私が語れるギリギリのラインで、それを超えた愛はちょっと「難しすぎる」。書くことを趣味の一つにしている身なのでいろんなものを表現できればとは思っていますが、たぶん私の書きやすいところの愛はどうしても信仰ありきに偏りがちで、おそらくこの軸がブレることはそうそうないでしょう。
ブレることができればそれはそれで面白い気もしますが……ただ候補が隔離ページで書いているジェイド・リーチと監督生の殴り合いくらいしか今のところは思い付かないので、やっぱりブレてもろくなことはなさそうですね。駄目だあれは。
今後もできるだけ「想うことは美しいこと」として書いていきたい。でも同時に今年の学びとして「想い続けること自体に生じる苦しさ」も取り入れて、大事にしていきたい。ツイステ全員分を書き終えてからも、ポケモンに戻ってきてからも、そうであることができれば一番いいかな、と思います。