1 目の前に現れたユウリの姿に、すぐ喜ぶことができない。姿も声も話し方までそっくりなのに、彼女がユウリであるという確証が持てない。 「クララ」 彼女に名前を呼ばれても尚、クララは不安で堪らなかった。同時に怒りで気が狂いそうだった。瓜二つの存在を何度も差し向けられて、寂しい期待を抱き続けるのはもううんざりだと思ったのだ。拳を握り締め、あまりにも精巧なその偽物へと今にも殴り掛からんとする険しい形相だった。 彼女がにっと笑って、ポケットからピンク色のハンカチを取り出し掲げてみせなければ間違いなくそうしていた。 「ただいま」 「……え、ええ? 今度こそ? 今度こそ本物?」 「それは私の方から確認したいな。此処はちゃんと、私のいたヨロイ島なの?」 右側の眉だけを器用につり上げて、ゆっくりと歩み寄ってくる。特訓のためにこの島を走り回っている時や、道場の手伝いをサボって逃げ回るクララを追いかける時には、あの師匠のヤドンもかくやというスピードを出すというのに、こうして「犯人」と対峙する時、彼女の大事なものを奪った「怪盗」を追い詰める時などには、彼女はこのように、歩幅を縮めて足の動きも緩慢にして、自分のための時間をたっぷりと使うのだった。 「君がいてくれるなら間違いなさそうだけど……今度はシショーやホップが取り違えられたりしていないだろうね? ちゃんと『みんな』いるんだろうね?」 クララの知るユウリはこのように……そう、目の前にいる彼女のように、大事なものに対する贅沢を躊躇わない子だった。時間も、歩幅も、どんな言葉も、こちらが恥ずかしくなるような想いの丈だって、全て惜しまずこちらへと寄越してしまう子だった。 「ユウリだ……ほんとにユウリだ」 「そうとも私だよ、今度こそきみを捕え直すために戻ってきた」 王子様みたいなことを口にする、その実とても腹黒くて物騒な「刑事」は、けれども取り違えられた世界のいずれかで情らしきものも幾分か覚えてきたのか、それともクララに会えないことが余程、余程寂しかったのか、その大きな紅茶色の目を大きく揺らしながらぎこちなく笑った。あと一回瞬きをすれば零れてしまいそうだった。事実、たちまちそうなってしまったので、クララは「もう!」と軽く悪態を吐きながら、彼女の手からピンク色のハンカチを取り上げて彼女の目元にぎゅっと押し当てた。強く押しすぎたせいで彼女は後ろに少しだけよろけて、「相変わらず加減が分かっていないね」と笑いながら、また泣いた。 「もう、ねェきみ何処に、何処に行ってたのよォ! きみのドッペルゲンガーみたいな奴とか、きみに似ても似つかない小さな子供とか、全ッ然知らない男の子とか女の子とかまでやってきたりして、マジで大変だったんだから!」 ゴシゴシと乱暴に顔を擦るようにする。苛立っているふりを全力でしてみせる。そんなことをしたところで声の震えも鼻詰まりも誤魔化せそうにはなかったけれど、今のユウリにはそれを指摘する余裕さえないようだった。 今日の彼女は泣き虫だ。こんな風に泣いているところを見たことなんて一度もなかった。やっぱり偽物なのでは、とさえ思えてくる。でもクララが貸しっぱなしにしていたピンク色のハンカチも、そこからまだ僅かに漂うバニラエッセンスの香りも、全てクララの知るあのユウリにしか持ち得ないものだったから、信じない訳にはいかない。 これはユウリである。クララが待ち望んでいたかの人そのものである。それを認めた上で、やはり信じられないような気持ちになってしまう。 無敗で無敵の腹黒刑事がそんなザマ、らしくない。やめてほしい。だってこれでは、クララに会えたことが嬉しすぎて泣いているみたいだ。もしそんなことがあったなら、それは正しく、クララが鼻声になっている理由ともぴったり重なってしまう。 「私も、大変だったよ。君だけがいない悪夢のような世界で随分と長いこと、お世話になってしまった。やっと戻れると思ったら今度は全く別の場所で、ボールではなくカメラを持たされたりしてね。他にも知らない世界、知らない土地に沢山飛ばされたよ。最後の方は取り違えが目まぐるしすぎて、何度世界を跨いだかもう忘れてしまった」 ほら、そうやって自分の苦労なんて口にするところもらしくない。前のユウリはもっと飄々としていて、自らの苦悩なんかちっとも喋ってくれなくて、いつも無敵で最強ですって上品な、得意気な面で笑ってばかりだった。もっと言えば、自身の話をこうしてしてくれることさえあまりなかったかもしれない。 刑事は追いかけるものであって追われるものではない。怪盗は奪うものであって奪われるものではない。クララはいつだって背を向けて走り、毒を巻きながら時折振り返っては、追い掛けてくる彼女の手がすぐ傍に迫っていることに満足するばかりだった。彼女もまた、すぐにでも捕まえられそうな距離まで詰めつつ、にっこりと笑ってじわじわとこちらをいたぶってくるのが好きな、ひどく腹黒い刑事であるばかりだった。 うちと同じ、うちとお揃い。ほら、うちらまたこうして競うように悪辣になっていく。 ああでも、でもこれじゃあまるで二人して親友みたいだ。何を捨て置いてでも大事にしたい一番の相手と再会できて、感極まって喜んでしまっているみたいだ。話したいことが、聞いてほしいことが、沢山あるみたいな泣き笑いの仕方だ。そして、まるで、ずっと前から互いの想いは確実にそうであったようでさえあるのだ。 「そ、それで? きみが戻ってきたのはただの偶然? またすぐ、変なきっかけで何処かへ飛んで行ったりするワケ? またうちや道場のみんなに迷惑かけて、心配かけて、寂しくさせちゃうんだ?」 「勿論、そんなのはもう二度と御免だ。君がいてくれるこの世界をもう誰にも譲りたくない。だからこんなことが起こらないよう、今から犯人を捕まえに行こうと思う」 けれどもそうした清い心地になりかけながらも、口から出て来るのは相変わらずの憎まれ口で、その言葉を受けて泣き止みふっと笑う彼女だって、すっかりいつもの調子なのだ。犯人を捕まえに行く、と楽しそうに告げた、腕だけは一流の刑事かぶれは、ポケットからモンスターボールを一つ取り出して強く握り締めた。彼女が「そう」しているところを見るのは随分と久しぶりのように感じられた。 * 「とまあ、経緯はこんな感じ。多くの神様めいたポケモンの力によって、あちこちの世界でいろんな人との取り違えが起きてしまったみたいなんだ」 「いや、ぶっ飛びすぎててまだよく分かんないけど……とにかくそのボールの中にいる頭でっかちな王様が、きみの言うところの『犯人』だってことで、オッケー?」 モンスターボールの中、バドレックスと呼ばれたそのポケモンは頼りない小さな目でじっとこちらを見上げている。間抜けな顔だ、あまり強くもなさそう。とてもじゃないけれどユウリが「神様」として恐れ拒みたくなるような存在には見えない。 それでも、刑事様がそう仰るのならそうなのだろう、と納得してしまえる程度には、クララは彼女の実力と追跡力を信用していた。勿論、その性悪さにだって太鼓判を押してやれる程度には、彼女のことを知っているつもりでいる。 「散々な目に遭ったけれど、時空旅行という稀有な体験ができたことを思えば、悪い体験ではなかったかな」 「よく言う! うちに会えなくて寂しくて、向こうじゃわんわん泣いていたくせに」 「おや、すごいね。クララの方からは私が見えていたのかい?」 冗談めかして吐いた悪態だったのに、実に正しくその通りだと笑顔で首肯されてしまったため、クララの顔の方が真っ赤になってしまった。 普段は性悪へと丁寧に足並みを揃えて、一緒にふざけ合っていてくれるくせに、こういうときだけ贅沢に言葉と時間と想いを使って、ありふれた少女みたいな可愛い顔になってしまうのだから、この子は本当に狡い。こんな狡さでこちらを嬉しくさせてくれる子を、クララは他に知らない。 「でも、そっくりな世界が出来上がってしまったのは君のせいなんだよ」 「は? うちのせい?」 「君のせいだよ。君が私を頑として譲らなかったせいだ。だから私、君のせいでどうしても此処に戻ってこなければいけなくなった」 君のせい、としながら彼女は夢見るようにうっとりと目を細めた。世界旅行、あるいは時空旅行とも呼べそうな今回のトラブルで、一体、何処の、誰に、何を刷り込まれてしまったというのだろう? このバトルに全勝してから、根掘り葉掘り聞き出してやろうと思った。この子に沢山の秘密があるというのはクララの好むべきところではなかった。クララは全て欲しいのだ。手に入れたいと思ったもの全て、何としてでもと願ってしまうのだ。彼女において「知らないことがある」なんて、やはりちょっと許せないのだ。 「さあ、行こうクララ、私達の晴れ舞台だよ。君がみんなの視線を根こそぎ奪っていく様を、一番近くで私に見せて!」 差し出されたその手が震えている理由だって、いずれ必ず聞き出してやる。そうして君にとっての何か、替えの効かない何かになれたという確信を得たその時に、ようやく言ってやるんだ。 うちは何百人、何千人もの観客の心なんかよりも、きみのそれがずっと欲しかったんだって。きみの全部を盗るために頑張って、頑張って、此処まで来たんだって! 「あれっ、師匠じゃん! まさか招待、受けちゃったの!?」 「そうだよ、だってクララちんとユウリちんの晴れ舞台だもんねえ。やっぱり特等席で見たいじゃない?」 栄えある舞台、ガラルスタートーナメント一戦目の相手はクララもよく知る二人だった。マスタード師匠に、ユウリのライバルである少年ホップ。彼等がどれだけ強いかなんて嫌という程分かっている。隣に立つチャンピオンの足を引っ張ってしまう予感に軽く眩暈を覚えてしまう。 でもチラリとそちらを盗み見れば、先程クララが握り返した手を離さないまま、ぎゅっと祈るように、縋るように握りつつ、それでも笑顔だけは完璧な有様で二人を見つめる最高にかっこいい彼女がいて、ただそれだけで、クララの不安など一瞬でなかったことになってしまう。 「ほらホップ、そこどいたどいた! 今日はうちら腹黒コンビが頂点にのし上がる日なの。邪魔するならグローいのお見舞いしちゃうからね!」 「は、腹黒!? ユウリが腹黒だってえ?」 信じられない、というように目を丸くして驚く、清くて無垢なユウリのライバルに、こんなことを教えてやるのは酷だろうか。いいや問題ない、構うものか! だってうちらの「とり合い」の舞台はあの、のどかなヨロイ島からこの騒々しいシュートスタジアムへと移ったのだから。二人によるとびきりのバトルで、ガラル中の人たちをくらくらさせる時がようやくやって来たのだから! 「ユウリはとびきり腹黒なの、うちの前でだけね!」 さあかかってこい。あんたたちのチャンピオン、ユウリの、新しい、最高にかっこいい姿を見せてやる。 ひらりと彼女の手がほどける。いつしか島へ迷い込んできたピンク色のビビヨンが飛び立つような軽やかさである。放した手をポケットに差し入れてボールを取り出し、大きく振りかぶるその凛々しい有様が、今日もあっという間にクララを「捕らえて」いく。 さあ、負けていられない。「盗り」返さなければ! 2021.11.2
800歩先で逢いましょう(第三章)