さて、そんな母の緩やかな変化に付き合っていたあたしだけれど、あたしの時間はあたしの時間として変わらず動き続けている訳だから、
あたしも母のように、変わり続けるための努力をしなければいけなかった。
といっても、あたし自身の環境はまだ大きく変わっておらず、いつものように、カフェで子供達にポケモントレーナーとしての基礎知識を教える日々を送っていた。
その合間に、研究室に潜り込んでお姉ちゃんの仕事を手伝ったり、バトルの特訓をこっそりと行ったりといったこともした。
テールナーはマフォクシーに進化して、より頼もしく、美しくなった。あたしには勿体ないくらい素敵なそのポケモンは、けれどあたしを誰よりも慕ってくれた。
このカフェには当然のように調理施設があるので、あたしは備え付けられているそこそこ立派なキッチンを借りて、クッキーやプリンといったものを作り、週に一回、皆に振舞った。
カロスの誇る秀才シェフに教えてもらった洋菓子の数々に、子供達はとても喜んでくれた。
何処から聞きかじってきたのか、あたしの父があの「ズミ」であることを指摘する子もいた。
隠すようなことでもなかったため、羨ましいでしょう?とあたしはその度に父を自慢するのだった。
あたしが「先生」「お姉さん」と呼ばれるようになって、このカフェから旅立った子供達の数は10を超えた。
たった2年でこれだけの別れを経験してしまっているから、きっとオーナーは100人以上の子供を見送り、100人以上との別れを経験している筈だ。
あたしとオーナーに手を振って駆け出す子供達は、いつだって一人だった。友達と一緒に旅をする、などという子供は現れなかった。
あまりにも勇敢な行動は、けれどあたしを少しばかり不安にさせた。大丈夫なのかしら、と案じずにはいられなかったのだ。
だからあたしは彼等の門出のとき、泣きそうになる。
もうあたしはあの子に何もしてあげられないのだと、あたしの手の届かないところへ、たった一人で羽ばたいてしまうのだと、そうした事実があたしの顔を歪ませる。
けれどもその落ち込んだ気持ちのまま、見送りを終える訳ではない。何故ならあたしは子供達の手に、モンスターボールが握られていることに気が付くからだ。
ああそうだ、彼等は一人で旅に出るけれど、独りで生きている訳ではないのだと、いつだってポケモンがいてくれるのだと、そうしたことを思い出す。
思い出して、そうしてなんとか笑顔を作って、いってらっしゃいと大声で告げて、手を振る。
この世界の中で真に優しいのは、死者とポケモンのみであるように思われた。
ポケモンと共に生きるということ、ただそれだけのことがこれ程までに幸福であるのだと、あたしはこの子に、マフォクシーに教わった。
そうしたことを、カフェに集う子供達にも伝えられればいいと思っている。言葉で、態度で、授業で、バトルで、笑顔で、伝えられるだけ、伝えようと思う。
ついでに、生きていることの尊さ、とかいう大それた馬鹿馬鹿しいものも、冗談を交えつつ、話してみようと思う。生きているって辛いよね、と笑いながら、生きようと思う。
ポケモンがいてくれるから、あたし達は「独り」になどならない。あたし達は寂しくない。
にもかかわらずあたし達は、「独り」だけでなく「一人」も嫌うのだった。寂しくないけれど、やはり人でなければいけないことがあるのだった。
その理由を、まだあたしは見つけられていない。あたしはあたしを納得させしめるだけの答えをまだ出せない。
あたしに解るのは、あたしにとってマフォクシーも、母も父も、お姉ちゃんもマリーも、オーナーも、子供達も、かけがえがないということだ。大切で、大好きだということだ。
あたしはあたしの大事な人に生きてほしい。それが彼等にとってこの上ない苦痛だったとしても、それでもあたしは彼等を針のむしろの上に立たせたい。
そうした、とても惨たらしい愛を振りかざす、まともじゃない人間、それがあたしだ。母と父の下に生まれてから、きっとずっとそうだったのだ。
構わない。
ところで「彼女」は女性であった。彼女は少女であった。彼女は老人であった。彼女は、母であった。
時の止まった世界で生き続けている彼女は、誰にでも、何にでもなることができていた。
あたしはあの人の娘であった。あたしは少女の時代を終えようとしていた。あたしもいずれ老いていくのであった。あたしは、女性であった。
時の流れる世界で生きるあたしが名乗れる名前は、彼女ほど多くなかった。
けれども母は、女性であること、少女であること、老人であること、母であること、それら全てをすっかり忘れて、ただその細い身一つで生き直しているように見える。
食べることを覚え、歩くことを覚え、お日様の光を浴びることを覚え、掃除や洗濯を覚えた。
彼女の時は40代後半にしてようやく動き出したのだった。
一方のあたしはというと、生まれてこの方ずっと女性であるし、今までずっと少女でもあった。
けれど、上手に諦める術を心得ているところはまるで老人のようであったし、30歳も年上の女性に洗濯や掃除や料理を教える姿はまるで母のようにも思える。
女性のように、少女のように、老人のように、母のように。「彼女」を形容していた筈の全てのものが、あたしの中にするすると潜り込み始めていた。
彼女の名前を全て我が物としたあたしは、この頼りなくも美しく優しい女性の何もかもにようやく共鳴し、ようやく理解することが叶っていた。
やっと、やっと「其処」まで来たのだった。
そういう訳で、あたしも、母も、父も、生きるという惨たらしい選択をしたのだけれど、一人だけ、その選択の波に乗れない人物がいた。
母や父がいくら時の止まった世界に生きているといっても、やはり生物学的な時間は止めようがなく、老化は二人にも等しく訪れていた。しわの数も、白髪の本数も増えた。
けれども本当に時を止めた人物というのは、30年が経ってもその姿をまるで変えないのだった。
永遠の命を手にした人間は死に至れない。永遠を知る生き物に寿命はやって来ない。死を乗せた船はやって来ないから、自ら川を渡るしかない。
そうした優しい選択を、惨たらしくない選択のことを、あたしは流れる時の中で忘れかけていたのだ。
その日はあまりにも穏やかに訪れた。マリーが「360通目の手紙」を持ってこのカフェに現れたのだ。
ライラックの香りのする、淡いオレンジ色の手紙がオーナーに渡された。
悔いたことはないのですか?ええ、一度も。そう伝えておきましょう。あと50年くらいかしら?90歳になっても元気で……。
隠れてその様子を窺っていたあたしとお姉ちゃんの耳には、二人の会話は断片的にしか入ってこなかった。
あたしは、近いうちに自ら死を選ぶかもしれないオーナーの姿をしかと目に焼き付けるために、此処にいた。
お姉ちゃんは、何十年も続いてきたマリーの贖罪が、ようやく終わるその瞬間を見届けるために、此処にいた。
マリーはクロバットにひょいと飛び乗って、そのままミアレの高い空へと消えて行ってしまった。あまりにも呆気ない別れを、けれどあたしは冷たいことだとは思えなかった。
オーナーはとっくにあたし達の存在に気付いていたようで、無期懲役の檻からようやく脱したマリーを見送ってから、あたし達の方へと振り返って、苦笑した。
お姉ちゃんもあたしも、何も言うことができなかった。その沈黙を埋めるように、オーナーはたった一言、こう告げるのだった。
「では、お先に失礼するよ」
彼らしい、あまりにも上品な別れの言葉だった。
あたしは泣かなかった。けれどお姉ちゃんは泣いていた。オーナーは泣いていなかったけれど、アスファルトには染みが付いていたから、マリーもまた、泣いていたのだろう。
優しくても、優しくなくても、生きなければいけない。けれどもあたしはオーナーを責めようとは思わなかった。彼はもう十分に生きたのだろうと確信していたからだ。
彼の凍り付いた時は、死ぬことでようやく動き始めるのだろうと、心からそう思えたからだ。
翌日、彼はローズ広場にある、一際大きな金木犀の木の下で眠っていた。ベンチに腰掛けて軽く俯いたその姿は、本当に、眠っているようであった。
随分と綺麗に死んでしまうのね、と笑いながら、あたしはそこで初めて泣いたのだった。
懸命に生き続けた彼の死は、とても穏やかで温かくて、優しいものだった。
優しい人は優しい温度で、優しい香りに包まれながら死ぬものなのだ。そうした死に方がとてもよく似合っているのだ。
あたしはきっとこんな風に死ねない。あたしの死はきっともっとグロテスクで、冷たくて、臭いものだ。あたしの死に顔はきっと笑っていない。こんな顔、できない。
ああ、でもあたしが死ぬときも、きっと寂しくはないのだろう。母も父もマリーもあたしよりずっと年上だから、きっとあたしを待っていてくれる。だから怖くない。だから、構わない。
彼はあいつに会えたのかしら。彼はあいつの前でどんな風に笑うのかしら。あいつはちゃんと迎えに来たのかしら。彼は笑えているかしら。
そうしたことを思いながらあたしは乱暴に涙を拭った。寂しいなあ、と思った。
もっとお礼を言えばよかった、というちょっとした後悔が、金木犀のただ優しい香りの中に揺蕩っていた。
生きなければいけない、と思う。けれどそれと同じくらい、生きていたくないのなら、生きなければいいとも思う。
母を生かし、父を生かし、あたし自身も強く生に焦がれながら、そこから離れることを頑として拒みながら、それでもやはり、あたしは死ぬ人を許さずにはいられない。
生きるという惨たらしいことに、何十年も苦しみながらしがみ付き続ける必要なんかきっとない。お姉ちゃんのように、あいつを憎悪することはできない。
それでもあたしは生きている。生きていたいから生きている。生きてほしいから母を生かしている。父が生きていることを、喜んでいる。
そこに高尚な理屈などありはしない。生物の営みは科学的であるかもしれないけれど、生物の心はまったくもって科学的ではない。
生きるということはもっと情動的で、恣意的で、破滅的なことだ。
花の死臭に囲まれて育ったあたしだからこそ、時を止めていた二人の娘であるあたしだからこそ、身に染みて解ることであった。
生きていると、楽しいことが稀にある。優しくないあたしにはきっと、それくらいが丁度いい。
けれどもその「楽しい」ことが、最近ではとても頻繁に起こっているから、あたしは随分と生きることに楽観的になってしまっていた。
生きることって存外、単純なものなのかもしれないわ、などと思い上がりそうになるのだった。
勿論、それはあたしの驕りである。真実はずっと生々しく冷たく臭いところにあるのだということをあたしは知っている。
その驕りを、世界の優しい真実を、あたしはきっと誰かが死ぬ度に思い出すことだろう。
……それでも、楽しいときくらいは思い上がることを許してほしい。生きるってとっても素敵なこと、などと、ふざけたことを歌わせてほしい。人生という毒に、酔わせてほしい。
その酩酊の心地のままに、やさしくありませんように、などとおかしく祈り続けていたい。
明日はお姉ちゃんと一緒にエンジュシティに遊びに行く日、ずっと待ち焦がれていた特別な日だ。
同じ日に母と父が二人で為す、人生初の「デート」の感想は、帰ってからじっくり聞こうと思う。
2017.4.25
【19:23】(49:59)
Third chapter:End
→ Epilogue