61(Epilogue)

<ある母の回想・1>

彼が扉を開けると、わたしより先にフラベベが勢いよく飛び出していきました。
その小さな愛らしいポケモンは、くるくると白いカラーの花を回しながら、楽しそうな鳴き声と共に階段を滑り降りていきます。
待って、と言葉を投げつつ、わたしもドアの外へと飛び出しました。
階段を駆け下りたわたしは、ふと、彼が付いてきていないのではないかと思い、にわかに不安になって振り向きました。

「……」

けれども彼はそこにいました。階段の踊り場に両足を付けて、ただ茫然とわたしを見下ろしていました。
彼を見上げて、どうしたのと尋ねれば、ややあってから躊躇いがちにその言葉が紡がれたのです。

「貴方が走っているところを、初めて見ました」

階段を上がることも下りることも、走ることもできなかったわたし。窓のある部屋をひどく恐れていたわたし。
カーテンを閉め切っていなければ、日中のリビングにさえ恐ろしくて出ていけなかったわたし。
掃除機を持つことも、コンセントに触ることも、洗濯物を干すことも、洗い物をすることも、できなかったわたし。
ピアノを弾き続けることで、時を忘れていたわたし。一日という、かけがえがなかった筈のその時間を、まるで呪いであるかのように受け流すことしか考えていなかったわたし。
生きることを、喜べていなかったわたし。

これまでずっとそうでした。彼と出会ってから、彼と暮らし始めてから、わたしは何も変わっていませんでした。
マリーと出会ってからも、あの子が生まれてからも、ずっと、もう何十年もそうだったのです。
ですから彼が、そんなわたしの変化に驚いてしまったとして、それは当然のことだったのでしょう。

でも、走れるようになったのです。わたしはもう、階段を上ったり下りたりできるようになったのです。外へ出ることができるようになったのです。
恐ろしかった筈の場所は、けれども私に何の危害も加えませんでした。悉く無害であったその日差しに、ただ眩しく高いだけの空に、わたしはひどく、安心しました。
そうしたことだって、あの子が優しくなかったから知り得たことでした。
あの子がわたしを根気よく外へと呼んでくれたから、泣いて嫌がるみっともないわたしを無理矢理連れ出してくれたから、わたしはようやく「それ」を知ることが叶ったのでした。

今のわたしはきっと、彼と並んで外を歩くことができます。

フラワーショップの店長は代替わりをしていて、今では若い男性が新しいお花の紹介をしてくださいます。
丁度、シャッターを開けたところに鉢合わせたわたしは、こんにちは、と微笑んで挨拶をしました。
彼もこんにちは、とお辞儀をして、後ろにいる彼へと視線を向けつつ、もしかしてデートですか?と尋ねるものですから、わたしは恥ずかしくなって、俯いてしまいました。
けれども彼は少しも恥ずかしくないような様子で、ええそうです、デートなんですよと、得意そうに微笑みながら告げるものですから、わたしの頬は真っ赤になってしまいました。

その男性に見送られながら、わたしと彼はミアレシティの街へと歩を進めました。
あの子がプレゼントしてくれた日傘を差せば、眩しい日差しが目を焼き焦がすことはありませんでした。
わたしの右手は日傘を差していました。わたしの左手は彼の右手と繋がっていました。彼の手はわたしのそれよりもほんの少しだけ、温かいように思われました。

わたしと彼との間には、殊更多くの言葉というものはありませんでした。
ただ、目に留まるものについて一言、二言、互いの心持ちを言い合うだけの、ささやかな、どうということのないやり取りであったように思います。
今までだって、そうした話は飽きる程にしていた筈です。
けれどもその舞台が「外」であることが、今日というこの日を特別たらしめていました。
彼は時折立ち止まって、わたしの顔をじっと見ていました。どうしたのと尋ねても、いいえ何でもないでんすよと笑って首を振り、握った手の力を強めるだけでした。
たったそれだけの、ささやかなデートでした。

ミアレシティの南にあるゲートを抜けると、あの子の言っていた4番道路に辿り着きました。
赤や黄色の花が、美しい庭園の中に咲き乱れていて、あまりにも鮮やかで、息が詰まりそうでした。
フラワーショップの花も、とても鮮やかで美しいものだったのですが、地面に根を張っている花というのは、何かが決定的に違っているのでした。
だってこの花達は風に揺れるのです。ゆらゆらと赤や黄色の波を打たせて、それでいて、その大きすぎる揺らぎにもかかわらず、しっかりと再び元の姿勢にすっと戻るのです。
鮮やかさを誇るように、生きているかのように、咲いているのです。

フラベベは自らの故郷であるこの場所を喜ぶように、笑い声を上げながら花畑の奥へと進んでいきました。
わたしはフラベベのように宙を飛ぶことができないので、花畑を踏みつけていかなければ、フラベベの飛んで行った方に辿り着くことができません。
けれども、こんなにも懸命に咲いている花を踏んでしまうことは、わたしにはやはりできませんでした。
わたしは遊びに出掛けてしまったフラベベを見送ってから、ゆっくりと、花の咲いていないところを歩き始めました。

白い日傘の中から上を覗き見るようにして、わたしは首を少しだけ傾げ、空を見ました。
どこまでも高い青空は、けれどもわたしを攻撃することも、わたしを飲み込むこともしませんでした。ただ高くて、眩しくて、わたしは思わず目を細めました。
わたしが空をあんなにも恐ろしいと思っていたのは、もしかしたら、空というものが美しすぎたからであったのかもしれません。

「見て」

「どうしました?」

「空が、とても綺麗」

白い雲が鳥ポケモンの羽のようにすっと伸びていて、10月の空はとても高くて、眩しくて、ああこれが美しいということなのだと、本当にそう思えたのです。
思ったからこそ、わたしはそうして声に出したのです。

けれども彼は何故だかひどく驚いたような、傷付いたような、悲しいような顔になって、ええ、ええそうですねと震える声で何度も言うものですから、
わたしもにわかに不安になって、その、少し細くなった腕を掴んで、どうしたの、と上擦った調子の声音で尋ねました。
けれども彼は首を小さく振って笑い、なんでもないのですよ、と見え透いた嘘を吐いてしまうのです。大丈夫ですよ、と笑ってしまうのです。

わたしはこれまで、わたしが臆病で無力なみっともない人間だったばかりに、一体どれくらいの「大丈夫ですよ」を彼に言わせてきたのでしょう。
何度、その悲しい嘘を彼に吐かせてしまっていたのでしょう。

「いいえ、大丈夫です。本当に大丈夫なんですよ。ただ、嬉しいだけで」

けれども彼の様子は、それまでとは少し違っているように思われました。少なくとも、今までの彼なら「大丈夫」の後に「嬉しい」などと付け足したりしませんでした。
わたしには彼の言っていることの意味がよく分からなくて、空が綺麗だから?とあてずっぽうなことを口にして、
すると彼はいよいよ声を上げて笑い始めて、なんだ、解っているじゃないですか、と楽しそうに言うのでした。
空が綺麗だと人は傷付いたような表情になって、けれど同時に嬉しくなって、声を上げて笑いたくなったりもするのだと、そういうことをわたしはまた彼に教えてもらったのでした。

「覚えていますか?貴方は空をひどく怖がっていた」

「覚えているわ。つい最近まで本当にそうだったもの」

「ええ、ですから私は、貴方から空を隠そうと必死になっていました。私は貴方を守ろうとして、貴方が生きやすいようにしようとして、……けれど、上手くいかなかった。
貴方の幸いは、あの白い部屋ではなく、この青い空の下にこそあったのですね。私は、気付けなかった。あの子よりもずっと長く貴方と生きていた筈なのに、私は何も、」

そう告げて、彼は眉をくたりと下げて笑うのです。本当に悲しそうに笑うのです。
泣かないで、と口にすれば、泣いてはいない筈ですよと苦笑で返ってきました。
でも泣きたがっているような顔をしているわと言い返せば、そうでしょうかとはぐらかすように言うのでした。
わたしはもうちっとも悲しくないのよと念を押せば、でも私は何もできなかったと繰り返すものですから、いよいよ悲しくなりそうになって、わたしは握った手に力を込めました。

「貴方だけのおかげではないかもしれないけれど、でも貴方がいなければ全てがどうにもならなかったこと、わたしはちゃんと、知っているわ。
貴方を含めた優しい人達が、わたしを今日まで生かしてくれたから、生きていてよかったって思えるようになったの。空が綺麗ねって、やっと言えるようになったの」

あなたがわたしをずっと守ってくださったのです。あなたがわたしに、生きてくださいと言ってくださったのです。
全てはあなたに出会えたから始まったことでした。そんなあなたが自身のことを卑下する必要など、まるでなかったのです。

そうしたことを、わたしの拙い言葉で訴えることができたのかどうか、わたしはあまり自信がありませんでした。
けれども彼はわたしよりもずっと聡明な方でしたから、わたしの言葉だけで、わたしの言いたいことを汲み取ってくれました。
何度も何度も、子供のように幼い頷き方をして、彼は消え入りそうな声音で「ずっとこの日を待っていました」と、告げました。

「私も、貴方に出会えたことが最大の幸福です。けれど私一人の力では、貴方をどうすることもできなかったのもまた、事実です。
……私達は、とても多くの人の支えによって生かされているのですね」

わたしは生かされている。わたしだけでなく彼もまた、多くの人の支えによって生かされている。
その事実を鑑みるに、人はやはりどうにも一人では生きていかれないようでした。だから誰かの手を握らずにはいられないのでした。
そうした意味で、わたしも彼もきっと正しかったのでしょう。間違ってなどいなかったのでしょう。
とてもぎこちない呼吸を続けていた筈のわたし達は、けれども不思議なことに、正しく生きるということが、いつの間にか、できていたようでした。


2017.6.30
(49:59)

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