55

裁かれることを待っている被告人というのは、総じてこのような心地であるのかもしれなかった。

「あいつを止められなかった母さんの屈辱が、やっと解った気がする。きっと母さんもこんな気持ちだったのね。私も、きっと止められないのね」

けれどお姉ちゃんはあたしの罪を裁かなかった。代わりに海の目をすっと伏せて、悲しそうにそんなことを口にするのだった。
変なの、と思った。あたしは「あいつ」と並べられるようなことなどしていないのに。むしろあたしは真逆のことをしようとしているのに。
あいつは自分を殺したけれど、あたしは他者を殺すのだ。その決定的な違いに、お姉ちゃんともあろう人が気付いていない筈がない。
……それとも、あたしが彼女を殺したがっているというのは、お姉ちゃんにとってそんなに衝撃的なことだったのだろうか。
冷静な思考能力を失ってしまう程に?あたしとあいつと並べてしまいたくなる程に?

「あの人が死んでしまうことが、悲しい?」

半ば愉快になってあたしはそう、口にした。
すると驚くべきことが起きた。彼女は声を上げて笑い始めたのだ。
華奢な肩を震わせて、ブロンドをふわふわと波打たせて、コロコロと鈴を鳴らすように笑い続けるお姉ちゃんに、あたしはすっかり怯えてしまって、
彼女が一頻り、満足するまで笑い終えたところを見計らって、できるだけ声が震えないようにと気を付けつつ、何がそんなにおかしいの?とやっとのことで尋ねたのだった。

「私が心配しているのが、貴方のお母さんのことだと思っているところよ!」

唖然とするあたしの前で、お姉ちゃんは物凄い早口でまくし立てた。

「私は貴方のお母さんのこともお父さんのことも、ちっとも大事じゃないの。
貴方のお母さんが誰かに殺されようと、お父さんがその後を追おうと、その「犯人」が貴方であろうと、私は構わない。好きに死ねばいい。
きっと二人がいなくなれば貴方は本当に楽になるでしょうね。自分の時間を沢山、作れるわ。旅行にだって行きたいだけ行けるのよ。その時は私も誘ってほしいな」

「待って、待ってよお姉ちゃん、あたし、」

「でも貴方にお母さんは殺せない。貴方は楽になれない。だから私は恐ろしいの。貴方のお母さんのことではなく、貴方のことが」

矢を射るかのような鋭い声音だった。お姉ちゃんの海はいつかのように凍っていて、あたしはただただぞっとする他になかったのだった。
何の根拠もなしに「貴方には殺せない」と断言するお姉ちゃんの方が、あたしよりもずっと荒んだ冷たい目をしたお姉ちゃんの方が、人の一人や二人、殺せてしまえそうだった。
そういう意味では、確かにあたしは人殺しには不向きであったのかもしれなかった。
でもだからといって、誰も殺せず一人で死んでいったあいつにあたしを重ねられる道理など、何処にも、ない筈なのに。

「ねえお姉ちゃん、あなたが何を考えているのか分からないけれど、あたしとあいつを重ねるのは止めてもらえないかしら。
あたしは人殺しになるのよ。あいつは自分で一人、勝手に死んでいっただけじゃないの」

「うん、解っているよ、でもどうしてかな。……私には、貴方とあいつが同じに見えるの」

心外だ、とあたしは思ったけれど、でもよく考えれば、お姉ちゃんがあたしとあいつに為した同一視も、もっともなことであるのかもしれなかった。
倫理に悖ることをしでかそうとしている人の心というのは、総じて悲しいものなのだ。きっとあいつも悲しかったのだろう。
あいつの悲しみは自業自得であったように思えるけれど、それでも、生きることはあいつにとって耐え難い苦痛だったのだろう。
……ああでも、自業自得であるところだってそっくりだ。あたしだって自業自得だ。
あたしが5年前に、殺してあげるなんて馬鹿なことを言ったから。生きなくてもいいようにしてあげる、だなんて、ひどすぎる呪いを自身にかけたから。
だからこの苦痛は、誰のせいでもない。あたしが招いたことだ。あたしが悪い。あたしが、悪い。

「私は、貴方が人を殺したって構わない」

「……」

「貴方と旅行に行けるようになることを願っているね。一緒に、エンジュシティの紅葉を見に行こうよ。きっと、とても綺麗だから」

綺麗なものは好きよ、と躊躇いがちに紡げば、お姉ちゃんはクスクスと鈴を鳴らすように笑いながら、知っているよ、と答えるのだった。
その数日後、あたしは彼女を殺すための道具を、お姉ちゃんの仕事場から勝手に持って来てしまうことになるのだけれど、そのことは最後まで、彼女に打ち明けられなかった。

シンプルな名前のそれが、とんでもない劇物であることをあたしは知識として知っていた。
テレビや本を読んでいれば、それくらいの情報は目に、耳に、飛び込んでくるものだ。料理や飲み物に簡単に混ぜることができるらしく、狙うならこれだ、と決めていた。

17歳になったあたしは、もうあのカフェで正式な職員として働いていたし、お姉ちゃんも研究所内でそこそこの地位にあったから、
お姉ちゃんの紹介で研究所に堂々と足を踏み入れるあたしを、研究所内の誰も不審がらなかった。
たとえあたしが、いつも使わせてもらっているロッカーの鍵とは全く形状の異なるものを手に持っていたとして、研究室の最奥にある鍵付きの薬品棚に歩み寄ったとして、
そこから白い粉の入った小瓶をそっと持ち出したとして、誰も、何も気にしなかったのだ。
そういう訳であたしは誰にも咎められることなく、堂々と研究所の劇物を取得するに至っていた。道具は既にあたしの手の中にあった。あとは、舞台を整えるだけだ。

その「舞台」は更に数日後、完璧な形で出来上がることとなった。
父が、ジョウト地方に出掛けていったのだ。料理のコンテストに、ミアレシティの代表として招待されたらしい。
故に今日の夜、彼は家に帰ってこない。一日一食、必ず彼の料理を食べていた彼女は、彼の不在の間、彼の料理なしで生きなければいけない。
……この日しかないと思った。あたしがいつもより沢山の、豪勢な料理を作る理由としては十分だった。
いつもあなたに振舞っている父さんの真似をしてみたくなったの、とでも言えばいいだけの話だ。無垢で無知な彼女は絶対に疑わない。疑えない。

そんなことを考えながらあたしはカフェを出て、スーパーへの道を駆けた。
夕焼けが随分と綺麗で、まだ見ぬエンジュの紅葉もこのように鮮やかな赤をしているものなのかしら、などと考えた。
お姉ちゃんと見るエンジュの紅葉は、とても綺麗だろうなあと思っていた。二人でいろんなところに出掛けることができたなら、とても楽しいだろうなあと思っていた。
あたしは本当に馬鹿正直に、これから自分に降りかかる如何をも予知できずに、そんなことを呑気に考えていたのだった。

一万年札を握り締めて、スーパーに入り、いつもよりも高いお野菜や調味料の類を沢山、買った。
勢いよく次から次へと食材を買い物カゴに放り込むのが楽しくて、つい買う必要のなかったものにまで手が伸びてしまった。
スイーツのコーナーでは、美味しそうなプリンがあったので2つ、カゴへと放り込んだ。
馬鹿げている。彼女は市販のプリンなどついぞ口にしたことがないのに。口にしないまま、今日、あたしに殺されてしまうというのに。
明日、戻ってきた父だって、彼女の後を追って自ら命を絶つに決まっているのに。

ああ、それなのに、あたしはこの2つのプリンを誰と一緒に食べようとしていたのだろう?

レジの無機質な画面が8971円という数字を弾き出した。実にいい買い物だ、とあたしは満足して、2つの大きなビニール袋に野菜や調味料の類を詰め込んだ。
夕焼けがとても眩しくて、思わず目を細めた。空が燃えていて、まるでお姉ちゃんの泣き腫らした目のようだと思った。

……お姉ちゃんはやはり、あたしが人を殺すことが恐ろしいのかしら。
でもお姉ちゃんは、貴方にお母さんは殺せない、と言っていた。お姉ちゃんは、あたしが人を殺せないのだと信じ切っていた。……何故だろう?
分からなかった。あの日のお姉ちゃんはまともではなかった。
少なくともあたしの目には、殺す、などと物騒なことを言っているあたしより、殺せない、と至極まっとうなことを言っているお姉ちゃんの方が、ずっとおかしく見えた。

もしかしたら、あたしがおかしくしてしまったのかしら。
あたしが、二人を殺そうと思う、などと思い上がったことを口にしたから。あたしが、誰にも相談せずにそんな物騒なことを決めてしまったから。

……ああ、でもお姉ちゃん、あなたにあたしは止められない。易しいあいつを憎んでいるあなたには、あいつに焦がれている優しい彼女の痛々しさなど、解るまい。
彼女の平穏はやはり「死」にしかなかったのだと、確信せざるを得なくなったあたしの惨たらしい心地など、解るまい。
今まで懸命に生き続けてくれた彼女の願いを最後に叶えてあげたいと、そう思ってしまったあたしの虚しい心地など、解るまい。
「親友」という響きに呪われているマリーのことをいたわしく思い、その響きを憎み続けて来たあなたには、「約束」という呪いに縛られてしまったあたしの決意など、解るまい。
そして、それでいい。優しいあなたはこんなこと、知らなくていい。解らなくていい。

あたしはアパルトマンの階段を駆け上がる。重たい荷物も苦にはならない。
ドアにカギを差し込んで勢いよく開けば、フラベベがあたしを出迎えてくれた。彼女もややあってから、玄関の一輪挿しに落としていた視線を、こちらに向けてくれた。

「ただいま。今日はあたしがあなたに料理を作ってもいいかしら?」

彼女も、父も、あまりにも無知で、あまりにも一途で、あまりにも純粋だった。
「美しい」カロスにおいて、本当に「美しく」生きているのはこの二人だけなのではないかとさえ思われた。
けれど美しく生きることは、そう楽しいものでもないのだ。現に二人は苦しみながら生きている。泣きながら、震えながら、生きている。
可哀想だと思った。何もできないままに40を超えてしまった彼女のことが、あのレストランに閉じ込められたまま50を超えてしまった父のことが、可哀想だった。

……否、それは建前に過ぎない。本当はあたしが耐えられないのだ。
屈辱を噛み締めるように生きている彼女を、これ以上、見ていられないのだ。何も知らずに料理と彼女だけの世界を回し続ける父を、これ以上、無視できないのだ。

そういう訳で、あたしは二人を殺そうと思う。

そういうことに、させてくれ。


2017.4.20
【17:21】(47:-)

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