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この家族は「狂っている」訳でも「悪質な」訳でも「冷酷で残忍な」訳でもない。
あたしは彼女を殺したいほどに憎んでいる訳でも、彼を刺したい程に恨んでいる訳でもない。あたし達は互いに悪意を向け合っている訳では決してない。

この家に殺意やなどありはしないし、狂気というものもあまり見つけることができない。
あるのはただ純粋な恐怖と無知と美麗と諦念だけであった。
こんなに美しいものを、こんなに悲しいものを、狂気と呼びたいのなら、どうぞ勝手にすればいい。けれどもあたしは認めない。
そういう訳で、彼女も彼もあたしも、決して異常者ではない。あたし達は、おかしくなんかない。

彼は懸命に働いていた。彼はあたしや彼女に理不尽な暴力を振るったことも、自由を縛ったことも、何かを無理強いしたことも、ただの一度だってなかった。
彼はあたしや彼女を心配してくれていた。それは人並みの良識が為せる優しさの現れであることをあたしは理解していた。
彼は彼女を心から愛していた。おそらく、あたしのことも愛してくれていた。

彼女は静かに暮らしていた。彼女があたしに酷い言葉を投げたことも、あたしの大切なものを取り上げたことも、あたしの生き方を侮辱したことも、ただの一度だってなかった。
彼女は彼やあたしにいつだって温かく接していた。それは人並みの良識が為せる慈愛の現れであることをあたしは心得ていた。
彼女は彼を心から愛していた。おそらく、あたしのことも愛してくれていた。

けれどもあたしと彼女と彼はどう足掻いても三人ではなく二人と一人で、あたしは生きるために、彼女と彼の芸術の世界からも、二人の死の時間からも逃れなければならなかった。
そういう訳で、あたしは一人分の食事を作り、一人で掃除と洗濯をして、一人で外に出掛け、一人で生きてきたのだ。

彼女と彼は、人の器に生まれたことを悉く悔いているようだった。
二人はきっと、許されるならいつまでも、時の止まった芸術と死の世界に身を投じていたかったに違いないのだ。
本当はずっと、彼女はピアノの小部屋にいたいのだ。本当はずっと、彼はレストランの立派な厨房にいたいのだ。
そこでは時が止まっているから、そこでは何もかもが美しいから。そこでは生きながらにして死ぬことができるから。そこでは、苦しくないから。

けれども二人は人間だから、人間は生きているものだから、流れ続ける時間の中にいるものだから、時の止まった美しい場所にずっといる、ということがどうにも叶わない。
だから二人は一日のうち一定の時間、家という人間の居場所に戻らなければならなかった。
夜になると彼はレストランを出て家へと戻ってくる。彼女は思い出したようにふらふらとピアノの小部屋から姿を現す。
そうしなければ生きていかれないのだ。生きたくもないのに、そうしなければいけないのだった。

だから二人は困っている。苦しむように、悔いるように、生きている。
人間が為すべき何もかもを上手にこなすことが叶わずに、彼女は今日もレタスやトマトを腐らせる。汚れたソックスをそのままにしている。
人間が知るべき何もかもを知識に変えることが叶わずに、彼は今日もリビングの切れた電球をそのままにしている。万年筆の芯を取り換えられずにいる。

あたし達は常に二人と一人で、けれど互いに互いを愛していた。

「貴方は強い人だね、とても、とても強くて優しい人」

お姉ちゃんはシチューの鍋を掻き混ぜながら、ぽつりと歌うようにそう零した。
月に2回、お姉ちゃんが料理を作っているところを見ていたあたしは、そのレシピの幾つかをすっかり覚えてしまっていた。
お姉ちゃんの家の味が、あたしの作る料理の味になった。
あたしは彼女と彼の娘だけれど、同時にお姉ちゃんの家族にもなれた気がして、あたしには家族が二つあるのだ、などと思い上がったりして、どうしようもなく嬉しくなるのだった。

「私はそんな風にはなれない。私はどうしても犯人を探してしまう。この不条理に理由が欲しくなる。貴方のように心を穏やかにすることが、私にもできたらいいのになあ」

「あたしは穏やかに生きてなんかいないわ。ついこの間まで、彼女と彼に反抗してばかりだったのよ。今だって二人の世界を避けるように、一人で生きようとしているのに」

「そんなこと!貴方くらいの子が親に反抗したくなったとして、それは何もおかしなことじゃないんだよ。それは貴方が成長しているってこと、とても素敵なことなんだから」

17歳になったお姉ちゃんは、そうした、歌うような言い回しを好んで使っていた。
なんだか詩人みたいだわ、と告げれば、お姉ちゃんは少しばかり頬を赤く染めて、知り合いの癖が移っちゃったのかもしれない、と零した。
それを聞いて、あたしまで頬がかっと赤くなってしまった。胸が壊れたみたいに高鳴って、どうにも居た堪れなくなってしまった。
きっとあたしの知らない感情をお姉ちゃんは知っているのだ。この人は恋をしているのだ。
それは血の繋がっていない誰かを心から想うときの表情、赤の他人をかけがえがないとするときの表情に、似ている気がしたのだった。

二人分の食事をテーブルに並べて、いただきますの挨拶をした。
湯気の立つシチューにスプーンを差し入れる。ニンジンとジャガイモが鮮やかな赤と黄色を覗かせている。掬い上げたそれに3回、息を吹きかけてから口へと運ぶ。
こくりと嚥下しながら、あたしは向かいに座っているお姉ちゃんの目を覗き見る。シチューに焦点を合わせていない、どこか遠くの誰かを想うその目の色に、驚く。

お姉ちゃんの目に宿る海は、驚く程に凪いでいた。綺麗だ、と思った。
美しいものはあたしにとって恐ろしく、避けるべきものであったのだけれど、綺麗なものを見ると自然と感嘆の息が漏れて、ああ綺麗、と心から思えてしまうのだった。

この、5歳年上であるお姉ちゃんから、あたしが教わるべきことはまだ、数えきれない程にある気がした。
赤の他人を想うこと、お金を稼ぐ術、不条理の意味、その海の凍る理由……。
それらを知るには、どうにも週に2回の時間だけでは足りないような気がした。あたしはもっとお姉ちゃんの生き方から沢山のことを学びたかった。
一人で生きている気になっていたあたしは、いつの間にか、欲張ることを覚え始めていた。

「あたしも、あなたと一緒に働いてみたいわ。お姉ちゃんはポケモン研究所というところでどんな仕事をしているの?」

するとお姉ちゃんは慌てたようにその海をあたしに向けた。海の目にくっきりとあたしの姿が映っていた。ああ、一体、何をどうすればこのような目の人が生まれてくるのだろう。
確か彼の目も青色をしていた筈だけれど、少し、いやかなり違っている。お姉ちゃんの目は彼のそれよりずっと深いのだ。生きているようなのだ。
紺色、と呼ぶには味気なく、群青色、とするのも少しずれている気がした。やはり海と、そう呼ばざるを得ないのだった。
そしてお姉ちゃんはその海を、彼女自身の感情に呼応させて変えるのが得意だった。彼女の心が揺れる度に、海は凪いだり、荒れたり、凍ったりするのだった。

「私がしているのはポケモンの研究なの。人とポケモンが一緒にいることで、ポケモンにどんな変化が起こるのか、調べているのよ。
貴方の気持ちはとても嬉しいけれど、ポケモンのことを殆ど知らない貴方が、私の仕事を一緒にするのは難しいんじゃないかな……」

「じゃあ、あたしにポケモンのことを教えてよ」

するとお姉ちゃんは声を上げて笑い始めた。華奢な肩が小刻みに震えていて、ブロンドの髪もそれに合わせてゆらゆらと波打つのだ。
違うよ!とあたしの言葉を珍しく真っ向から否定した彼女は、楽しそうに口を開いた。

「貴方が教わるべきは私じゃないの。ポケモン達が貴方に教えてくれるのよ。ポケモンのことを知りたいなら、ポケモントレーナーになるのがいいんじゃないかしら」

「そのポケモントレーナーになるには、どうすればいいの?時間とお金がかかるもの?資格を持っていないとなれないもの?」

「ううん、時間もお金も資格も要らないよ。ポケモンのことが好きな人なら誰だって、ポケモントレーナーになれるんだから!」

あたしがポケモンへの興味を示したことを、お姉ちゃんはとても喜んでくれた。
ああ、お姉ちゃんは本当にポケモンのことが好きなのだと、この人には好きなものが随分と多いのだと、そうしたことをあたしはぼんやりと考えていた。
それまでのあたしは、彼や彼女の世界とあたしの世界とを比べて、自分の世界の広さに少しばかり、酔っていたようなところがあったのだけれど、
どうにもお姉ちゃんは、そんなあたしの何倍も広い世界を、そして彼女の何百倍も広い世界を、見たり聞いたり想ったりして、これまで生きてきたようであった。
世界を広げると、もしかしたら綺麗な目になれるのかもしれなかった。

そういう訳であたしは翌日、お姉ちゃんに連れられてポケモン研究所へ行った。差し出された3つのボールのうち、あたしは特に迷うことなく真ん中の子を選び取った。
何故って、その子と一番に目が合ってしまったからなのだった。
大きな耳とふわふわした尻尾を持つこの小さなポケモンは「フォッコ」という名前らしく、あたしがその音を口にすれば、可愛らしい鳴き声で返事をしてくれるのだった。

加えてお姉ちゃんはあたしに、ローズ広場のすぐ近くにあるカフェを紹介してくれた。
そこはカフェの店構えこそしているものの、やっていることは子供達への支援と教育といった、簡素な「トレーナーズスクール」とでも呼ぶべき場所であるようだった。
ポケモントレーナーになったばかりの子供達への「支援」というものを無料で受けられるらしく、お金が要らないなら、とあたしは躊躇いなくお姉ちゃんに付いていった。
けれどもお姉ちゃんに連れられてそこへ向かったあたしは、思わず苦笑した。そのカフェはあたしも知っているところで、ああここだったのか、と思えてしまったからだ。
あたしがもっと小さい頃、週に1度だけあたしを外へと連れ出してくれていたマリーが、何処かに出掛けた帰りに必ず立ち寄る場所が、此処であったのだ。

10歳を過ぎたあたりから、あたしは一人で外出するようになっていたから、
マリーとお姉ちゃんのあたしの三人で何処かへ出かけることも、その帰りにこのカフェへと立ち寄ることもなくなっていたのだ。
それでもこのカフェのオーナーである男性は、数年振りに顔を合わせたあたしのことを覚えていたようで、久しぶりだねと微笑みながらあたしの頭を撫でてくれた。
流れ続ける時の世界に身を置いていたあたしは、変わり続けていた。背も髪も伸びた。手も大きくなった。
けれどもその男性の姿は、あたしの記憶にある形から全く変わっていなかった。まるで彼女や彼のようだった。少しだけ、可哀想だと思った。

男性はお姉ちゃんにもにこやかに挨拶をしていた。お姉ちゃんも笑って返事をしていた。
二人はとても仲が良いように見えた。けれどあたしは、気付いてしまった。

お姉ちゃんの海が凍っていたこと、お姉ちゃんの目は笑ってなどいなかったこと。
この男性か、このカフェか、ここに集う子供達か、あるいはその全てかは分からないけれど、お姉ちゃんが此処にある「何か」を強烈に嫌っているのだということ。
男性の手に、淡いオレンジ色の手紙が握られていたこと。このカフェの本棚に、見覚えのある本があったこと。
今は10月で、開け放たれたドアから吹き込んでくる風に、死臭がとても濃く溶ける季節であったこと。
このカフェのすぐ傍の広場に、ひときわ立派なあの木が植えられていたこと。


2017.4.12
【13:17】

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